浄土について
私は浄土真宗の教えに触れて前よりも煩悶せず心静かに過ごせているように思います。
そんな中で気になったのですが、浄土門の各宗派において、浄土で阿弥陀様のお導きで悟りを得させていただくのはこの先の何度も何度も続く輪廻転生の先のいつか、という理解になるのでしょうか?
今生だけでも長く苦しむこともある遠い道のりとはいえそれでもいつかは悟りを得させていただく身と考えて子供の頃の悩みや恐怖、不安が大人になってからはそんなこと気にしなくてよかったと思えるようになったみたいに今のこの身に起こる煩悶も少し離れて見られるような気がします。
何度も生まれ変わるとして、その時にも仏縁に導かれたいものです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土門における浄土真宗と他宗との相違について
浄土真宗の教義においては、機と法の二種深信を信心の面において重視するため、煩悩具足の凡夫のままにて救われるありようを考えることが大切となります。
悩みや恐怖、不安は、やはりそう簡単には無くならないし、無くせないものであり、煩悩によって善い行いも成せない、成し得ない(雑善、雑毒の善)と自覚することも必要となります。
一方で、自力聖道門では、悟りへと向けて、二資糧(智慧と福徳)の開発が求められるところになるわけです。
同じ浄土門においても、他力と自力、その折衷的なものと分かれるところがあります。
簡単には、他力では、弥陀の救いの手が、自分の心を掴んであるありようを真底に確信(確認)していくこと(絶対他力の場合、雑善も含めて、専修正行以外の通仏教におけるいかなる修行、功徳行も雑行雑修として否定されることになります)、
自力では、弥陀の救いの手を、探し出し、その救いの手を取りに行くために努力して菩薩行を進んでいくこと(自分の力で歩いて悟りへと向かっていくイメージ)と、
言えるのではないかと考えます。浄土真宗は、前者ということになります。
また、浄土論についても異なるものとなります。
極楽浄土を報土と捉えて、報身(方便法身)の阿弥陀仏にご指導を頂きに往生を目指すという場合と、そうではなく、往生は、極楽浄土ではなく、法身(法性法身)の阿弥陀仏のもとへと向けて目指すという場合とでも異なり、浄土真宗は後者の方となります。
つまり、浄土真宗の場合では、信心獲得、信心決定によりて、法身の阿弥陀仏のもとへと往生することで、二種法身(方便・法性)を得て、それで悟りへと至ると考えるものとなります。
ですから、往生後の阿弥陀仏のお導きで、徐々に悟りへと至るということではなく、むしろ、法身の阿弥陀仏と一味、一体となることで、自らも阿弥陀仏の二種法身に溶け込み、そして、二種法身のはたらきを有せるものになる(それが悟りという事態)と考えられるところとなります。
その際には、阿弥陀仏と自分との差異はもう微塵も見いだせなくなるものであるとも言えるでしょう。
では、そこに、「過去の」自分という存在としてあったものの「意思」が、何かはたらき得るものがあるのかどうか、そのあたりの、特に(方便法身としての)還相のありようについて、現在、拙生も考究しているところでございます。
合掌
極楽浄土で悟る
極楽浄土に生まれたら、そのときに不退転の位という悟りがレベルダウンしないステージに到達しますから、あとは悟りが進むばなりです。
そして、極楽浄土では寿命が無量です。
つまり、極楽浄土では成仏するまで死ななくて済むので、極楽浄土の一生のうちに必ず成仏できます。
浄土とはいつどこの誰のことだろうか。
浄土とはいつか、どこかと他時他方に求めるものだと考える僧もおられますが、いやいやそうではないととらえる僧侶もおられます。
どちらの導きも作用としてとらえた時、あるいはどちらの説もお釈迦様の説としてとらえたならば、自分にとってはこっちの方がしっくりくるというものがあるはずです。
仏教には本来、浄土宗、禅宗、なになに宗という隔てがあるわけではないはずです。
人がこの世で最上最高の境地・境涯に到るには、その人に適したその人なりの方法、処方があるというだけです。
冷静にこの世と人生を見つめれば、いつか遠い日に私が思い描く理想的な極楽浄土へと考えることでそれで安心するならば、それでよいでしょう。
ですが、理知的な人はそういう教えでは納得してくださらない方も多いものです。今、この人生において、このわが身が救われなければ絶対納得しないという方は、本当の極楽浄土のありかを真剣に求めるべきだと思います。
今世、この生において、この身を度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を救いえんや。
中にはそういう要求力をもたれる方もおられるのですから、仏教も多種多様性で自分に合った道を歩めばよいのです。
私は浄土極楽のありかは、この身、この身心とそこに触れるもの事の中にあると感じております。
人間はいつでもどこでも、そこで出会っているモノ・コトとのかかわりの中において、私的な考えや私的な解釈、自分流の考え方・見解を持ち込むことが無ければ、誰であっても本来の安楽性・静寂性・安住性をまっとうしているものです。つまりそこに静寂安楽なる浄土、極楽がある。
たとえば、✌という形を見るにも人によっては2といい、チョキと言い、ピースと言い、Vサインという。
それは人間の考え、見解の世界なので浄土極楽とは真逆の世界なのです。
深く念仏をする、坐禅・瞑想をすることで、釈尊と同じく人間本来の持ち前の静粛性に目覚めれば、この身心とモノとこととのかかわりの中に、天使、菩薩、仏、如来が「浄土・極楽・悟り・彼岸はここだよ✨」とノックしてくれている姿を見ることができます。人はそこを観ない。そこを観ずして頭の中で他方、遠方、他時、別の機会に浄土極楽を思い描いてしまうところがある。それで救われる人であればそれで良いのでしょう。いやいや、と思われる方は、現代の求道者として自ら道を求める、菩提心を発する道も開かれているのです。
質問者からのお礼
丹下 覚元様
なになに宗という隔てがあるわけではない、まだまだ自分がどのような教えをもって穏やかな心境に辿り着けるか、いろいろな教えに触れて行きたいと思いました。
その際に、人間の理屈というか、頭で考えてしまうことのないように、気をつけなければならないのでしょうかね。その上でどうすれば、いつか来たる遠方の平安ではなく、今目の前にあるこの苦悩から解き放たれる術も気になっています。
いただきました。お返事は正直なところ何度も何度も反芻して噛み締めて行かないと、私にはまだ難しくもあるため、これからもここに立ち返って拝読させていただきたいと思います。ありがとうございました。
Eishun Kaaaguchi様
これも本当に、自分の発想が一般的な浄土門、悟りに対する考え方の矮小化され、ステレオタイプな本質を掴みきれていない考え方だったのかなと学びにつながりました。
無分別智ということも近い言葉なのでしょうか?
とはいえ言葉だけ知っても言葉は標識でしかないのでしょうからどうか腑に落ちるようになりたいものです。ありがとうございました。
願誉浄史様
極楽浄土の修行の細大漏らすことのない悟りへの道を知ることで安堵いたしました。
日ごろから念仏申すことで、いつか悟りを得させていただく我が身として日々の暮らしがどう見えるかわからないよくよく見つめたいと思います。
ありがとうございました。