修行について
仏教の修行というのは色々あると思いますが、特に孤独に修行に励むタイプの人たちって心が壊れたりしないんですか?逆に心が壊れない程度の修行だったら生温いのかなと思ったりもしますが、自己の内面においてどういう所まで行けば変化が生じるのだと思いますか?
世の中にはギリギリの精神状況で死んでいく人たちがたくさんいますが、阿弥陀如来を目指すような仏教徒たちというのはそういう人々の苦しみを理解すべく自らも苦しみと孤独の中に身を置いて修行しているのだと思いました。そうでなければ真に人生一般の普遍的な、かつ苦楽の深みみたいなところに到達できないと思ったのですが。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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我が身の程を見つめながら
拝読させて頂きました。
あなたがその様に自ら人生を見つめて生きることとても尊く感じます。あなたがお考えの様に厳しいところに我が身を置いて孤独の中で修養していくことはとても尊いです。
仏教とは自ら覚りを開く道ですから少なからず自らに向き合い自らを律していくことはとても大事ですし、人ごとでなく我が身のことですから独りで自らに向き合っていくことが必要です。
私達はいつも独りでいます。仏様や神様やご先祖様は私達のことをいつでもどこでもどんな状況の中でも見守っていて下さいます、私達をお救いなさって下さいます。私達は様々なご縁の中で恵まれて生きています。そして与えられた命を全うしていきます。
そんな中でも私という存在で一人で生きているのです、起きている時も寝ている時もです。その生きる中に苦しみもあり、楽もあり、喜びもあり、悲しみもあり、辛い思いもあるのです。それら一つ一つをどの様に自分が受けとめていくのかどう受け入れていくのかが修行であり生きることそのものです。
そして自分も他者も含めて受け入れていくことができるならば覚りに近づいていくことできるでしょう。
ですけれども私達にはなかなか難しいです。自らのことを見つめていけばいく程に至らない自分や浅はかな自分が露呈していってしまいます。かよわく儚い自分自身がさらけ出されていってしまいますし、様々なものごとを目の当たりにしてむさぼり・いかり・おろかさの煩悩にとらわれてしまう自分自身であることを認めざるを得なくなってしまいます。
そんな私達のことを仏様、阿弥陀様はよくよくご存知です、そして孤独の中で迷い悩み苦しむ私達をお救いなさって下さいます。
あなたはこれからの未来をご自身でどの様に生きていかれますでしょうか?きっと様々なものごとや人々との出会いや別れや出来事を経験される中で、時間をかけながら自らの生き方をこれから模索なさっていくことでしょう。先々で様々生き方や考え方や価値観も大きく変わっていくことでしょうし、自分を見つめる意識も自ずと変わっていくことになるでしょう。
あなたがこれからの未来をしっかりと己を見つめながら人として健やかにご成長なさっていかれます様に、心から豊かに充実した毎日を生き抜いていかれます様に切に仏様に祈っています。至心合掌
本当の静寂には孤独や虚無はない
あなたは本当の静けさというものに向き合ったことがないのではないかと思います。
本当の静けさというものは「自分」の主観すらない。
自分の主観は静寂・静けさに対して要実をつける。これは寂しいとか、孤独だとか、要らぬことを思って本当の静けさを台無しにしてしまう。
本当の静けさというものは涅槃寂静という言葉でも示されるように、あらゆる苦しみから解放されたものなのです。
そこまでやってみるといいでしょう。
人間の内側には不思議な力があるものなのです。
その力はとても安らかで聡明で自由で穏やかで柔軟です。
仏教の悟りというものはそういう優れた功徳があります。
温泉がただのお湯であるように思えても、様々な効能があるように真実の静寂、真の静粛さ、本当の静けさというものにはそのような優れた功徳が無数、無限にあるものなのです。
人はそれを知らない、みない、きづかない、観ようとしない。
その価値を知らないからでしょう。
まるでそれはテレビの「なんでも鑑定団」のように、ガラクタのように思われていたものがものすごく歴史的な価値を持つものであったように、人の内側には実に優れた価値がある静寂さというものがあるのです。
反対に、多くの人がこれは価値があると思っているものが全く価値がないのにもかかわらず、それを一生懸命追いかけていることがあります。
人が本当に求めるべき価値のあることとは何でしょう。
それはこの自分自身の心が豊かになることであり、自分自身の心があらゆる苦しみから救われるこころのありかたではないでしょうか。
そういう心を自ら求めて明らかにして、多くの人たちにそういう心の在り方を知らせる、気づかせる、伝える、導く、広めるということが仏様、祖師様、聖、阿闍梨、大和尚といわれる僧侶が行ってきた道であり、人がこの自己の身心を何ももたずして、きちんと救われる確かな心の在り方なのではないでしょうか。
もし、その優れた功徳、その聡明で安らかで穏やかで自由な心にあなたが本当に確かな価値を見出すことができれば、その心を会得するための修行というものは全く恐れることのないものであるどころか楽しいものです。
自分自身のその恐れや不安や苦しみという怨賊のごとき、はたらきを滅することができるのですから、やらない理由がないでしょう。人は前述のように価値なきものに価値を見出して姿なき宝を求めているだけなのですから。
釈尊の実践法は
超簡単です。体の動き≒感覚や心そのものの変化生滅をただ観察するだけです。
ヴィパッサナー(観)と呼ばれていて、サマーディ(定)と違って禅定に入るわけではなく、ただ観察する挙句に、なんだ体も心も不滅の実体ではなく生滅変化し続けているだけだと納得して、つまり無常、苦、無我を納得して、悟ります。
スマナサーラ長老の本やyou tube動画がたくさんありますので検索してみてください。
仏教の修行は、「苦を観る」とは言えますが、苦しむ必要はありません。
質問者からのお礼
やはり普通の人生というか、人並みの暮らしを営むだけではありますよね。回答ありがとうございましたm(_ _)m
要するに瞑想に価値がある、ってことだとは思います。まぁわからなくはないんですけど、瞑想で抽象度を上げればお前の悩みなんか解決する、というようなことなんでしょうけども、それができる人間はある意味限られていて、それができないからこそ悩んでいるわけですから、そういう人々に対する距離感が遠いというか、若干突き放しているようにも見えるし、昨今の仏教僧という人たちは苦労なく一直線に叡智にたどり着いている感じがして、昔のような苦しい人々に対する駆け込み寺って感じがしないので、どう感じられているのかと思いこの質問をさせていただきました。