魂の行く場所
助けてください。
一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。
結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。
本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。
夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。
毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。
そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。
もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。
その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。
夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたが逆の立場だったら、を考えてみましょう。
もし、お子さんを残して、あなたが事故に遭われていたとします。
ご主人が、あなたに会いたい、会いたいと日々ふさぎ込んでいます。
あなたはどうすることもできないけど、きっとこう思うのではないでしょうか。
「どうか、強く生きて欲しい」と。
母を亡くしたある子供が大きくなった時「どこにでも❝母性❞はあるのだ」と悟りました。
あなたを包んでくれる【やさしさ】やさしさ性、慈悲、ふんわり感、ご主人に変わる頼れる感、夫にかわるやさしさ性、慈しみ性を周りにあるものから感じ取ってみましょう。
その為には、一度こちらを無くすことです。無くすと言っても、自分の持っている願いを一度だけでいいのです。人間はある願いを強く持っていると、それが妨害して上書きできないものです。
あえて、一度ご主人に対して、こうであればよかったという気持ちを、今息を吐くと共に手放してみてください。千の風になってではありませんが、いたるところにあなたを支えてくれている、やさしさ感、そふと感に世界が満ち満ちていることを悟るはずです。
世界は、本当はやさしさ、そふと感で満ち満ちています。
ところが、人間の思考が邪魔をしてしまっているのです。
だから、願いすらも一度だけ手放す必要がある。
あなたが思っている魂とは、あなたの中の思考が生み出した魂であって、本当の魂ではありません。
本当の魂とは何か。
それを感じるために、上記のことを今から実行してください。
「ああ、最初から私は包まれていたんだ」という事がはっきりと分るはずです。
今もそこに居らっしゃるのが感じられるようになるでしょう。
草葉の陰に眠り、草葉の陰から来世に旅立つ
以前、或る知合いの方から、こんな質問を受けました。
知人「住職さん。千の風になって、という歌が凄く流行っていますね。お墓に私はいません、という内容の歌詞を聴くと、ちょっと不愉快になるんですよ。私なりにご先祖が大事と思って、一生懸命にお墓参りしています。何かそれを否定されているような気分になってしまうんです。」
住職「正直、私も最初この歌を聞いて同じように感じました。そこに私はいません、眠ってなんかいません、と言われたら心穏やかではないですよね。でも、元々は英語で書かれた詩であり、それを翻訳したものであると知り、幾分納得しました。
亡くなった方はどこに行くのか?民族や宗教の違い、また住んでいる地域の違いによって、異なってきます。この詩の言葉自体は必ずしも間違いではないと思います。キリスト教徒なら、天国に召される訳ですから、亡くなった方はお墓には居ないことになります。あなたの菩提寺は、たしか浄土宗でしたね。」
知人「そうです。」
住職「浄土宗の檀家さんは、西方の阿弥陀如来が居られる浄土に往生します。私の場合曹洞宗ですので、授戒して戒名を戴いて仏弟子となった方々は仏国土に行く、と檀家さんたちに説明しています。いずれにしろ、仏教徒のご先祖様はお浄土(仏国土)に行っている訳ですから、お墓には居ない。但し、墓参りに来た家族に、そこに私はいません、眠ってなんかいません、と御先祖様が言うかどうかはわかりませんけど。」
知人「そうですよ。墓参りに来て、そこに私はいません、と言われたらたまんないですよ。そこにいないのなら、お墓参りなんかする必要がない、と若い連中なんか言い出しかねないですよ。」
http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/14855811.html
仏教の教理から、亡き人は遠くにある浄土(仏国土)に行かれたと説明され納得したとしても、日本人の民俗的な霊魂観では亡き人は身近なところに居てくれると考えます。「草葉の陰から見守る」という言葉がありますが、「草葉の陰」とはお墓のことを言います。長く土葬が一般的であった時代の名残でしょう。亡き人は家の近くの墓地に眠り、そのから見守ってくれている。そういう感覚が一般的だったと思います。だから、亡き人はお墓に眠り、お墓の入り口として来世に旅立って行ったと受け留めれば良いと思います。
あなたが子どもために夫のために生きるのです。
ぶんぶんさんへ こんにちは。
大切な夫を亡くされたのですね。心中察します。夫もどれだけ子どもを見たかったと思うと同じ男親として私も心が辛くなります。
亡くなることは人の真理だとはいえ、受け入れがたいことです。辛いことです。でもそれを受け入れなさいと仏さまはいいます。
今、ぶんぶんさんは涙を封印し、子どものために頑張っていることに心から応援します。あなたにとって子どもがあなたと夫との繋がりなのです。
苦労はあると思いますが、苦労に負けずがんばってください。私も一緒に応援します。いつでも辛くなったら心休めにご連絡ください。
相手には、賠償問題等々あると思いますが、それは弁護士に任せましょう。恨んでも夫は帰ってきません。逆に憎しみは苦しみを増します。
あなたがもし形で夫に思いをあらわしたいのであれば、お寺で供養してもらいましょう。お寺に行ってもいいし、お仏壇に、お念仏やお題目を唱えてお経を唱えましょう。すると心が落ち着き、夫が常にあなたと子どもの近くに、心の中にいることを実感できることになります。
そして私たちはいつか亡くなります。その時に霊界で出会えるまで、人生生き生き充実して子どもを育て、そして会える日を楽しみにしましょう。私も亡き両親に会える日を楽しみに精進しています。合掌
常にあなたと一緒におれらますよ
浄土真宗の立場でお話しいたします。
「死んだら極楽浄土へ往生する」という話は聞いたことがあるかもしれません。
その話には続きがあります。
「往生」とは「往って生まれる」ということで、浄土へ往って仏として生まれるという意味です。
仏さまは自在なお方ですから、浄土で生まれてそのまま浄土で留まっているお方ではありません。
すぐに大切な方のそばに還って来て、片時も離れずお護りくださる存在です。
だから御主人は仏さまとして常にぶんぶんさんと一緒におられるでしょう。
人間には煩悩というものがあって、これがあると仏様の姿が見えないそうです。
でも仏様からはしっかりと私達が見えています。
心の中まで見通してくださり、そのままに認めそのままに護って下さるのです。
そしていつかぶんぶんさんも命を終えていくときがくるでしょう。
その時には仏様として再会します。
また会う世界が用意されていますから永遠の別れではありません。
安心して下さい。
事故に関わる人達はすっと憎いままかもしれません。
でも、そのままのぶんぶんさんを抱きしめて下さる仏様がおられます。
そんな仏様のことを知るだけでも少し変わった世界が開けるかもしれません。
これからも御主人さまの命のご縁を大切になさって、少しずつ仏教の教えに触れて下さい。
「供養」
ぶんぶん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
つらすぎます・・呪い恨んであたりまえでしょうし、後悔もされることでしょう・・時が戻せればと・・私だって同じ立場ならば考えることでしょう・・
魂の行く場所・・
以前に、「業・カルマが行き先を決める」と業論・輪廻論を端的に述べたことに関して、説明不足から誤解を受けて、hasunohaでは無いのですが、少し別にご批判を頂いたことがございます・・
「魂」ではなく、「微細な意識の連続体」と拙生は表現しますが、その行き先がより善きものとなるようにと調えて参りますのが、「葬儀」や「供養」となります。
「供養」は、「供(とも)に養う」ということになりますが、亡くなられた方と一緒に、悟りへと向かうための行い(智慧の修習と功徳の集積)を養って共有していくということになります。
もちろん、一番に行き先へと向けて影響があるのは、やはり、「業・カルマ」であると考えます。
ここで少したとえ話をしましょう。葬儀のことを「津送儀」(しんそうぎ)という表現がありますが、それは、まさに「津=港」で航海の無事を見送るという意味合いとなります。
そこで、悟りヘの船旅ということで、「業・カルマ」は、悟りへと向かうための大海を渡る「船」と考えてみて下さい。
「船」はそれぞれにおいて、大きさや機能も異なります。それは、それぞれのそれまでに積みたる「カルマ・業」の現れとなります。
例えば、清らかな善きカルマを積みたる者の船であれば、まさに、それは安全性能、高速性能、アンテナ性能等、非常に優れた機能が調っており、多少の嵐や氷河、流氷があっても、速やかに悟りへと向かうことができることになります。
一方、あまり善いカルマの無い者の船は、もしかするとひどい場合、手漕ぎカヌー程度でしかなく、悟りへと向かう方角も分からず、彷徨い、嵐で敢え無く沈んでしまうかもしれません。
しかし、少しでも悟りへと向かえるための「供養」を及ぼすことにより、その船にエンジンやレーダーを装備させてあげたり、地図を示してあげたり、悟りへの船旅のお手伝いとすることができるというイメージでございます。
一緒に、悟りへと向けて取り組んでいるのだという「供養」を通じて、是非、より善い行いに努め励みて、お幸せにお過ごし頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様、ご丁寧に回答してくださり、ありがとうございます。
読んでいる途中に涙が溢れてしまいました。娘を寝かしつけた後で良かったです。
死後の事をとても深く考えさせられました。今すぐに、夫の事で心穏やかにするのは難しいですが、今日から存在を感じながら話しかけてみます。