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死ぬということ、生きるということ。

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昨年、私は30歳で3人目の子供を出産しました。
それから数ヶ月経ち…
幸せなはずなのに毎日死について考えてしまい苦しくなります。

『今は皆で笑っているけど、いつかは永遠の別れが来る』
『死んだら夫のことも子供達のことも楽しかった思い出も全て消えてなくなる』
『子供達も私のように死に恐怖感を持ち苦しむ時がくるのかな』
『いつかは死んでしまうのに何で産まれてきたのだろう』
と、常に頭の中にあり、夫や子供達の無邪気な顔を見ると、悲しくなります。

どうしたらこれからも前向きに生きていけますか?
もともと、パニック障害があり、数年前から心療内科に定期的に通っていたのでその事を話すとろくに話も聞いてもらえず薬を大量に出されただけでした。
(授乳中なので薬は飲んでません)
私はおかしいのでしょうか?
それとも、産後に不安定になっているだけなのでしょうか?
誰にも話せず、自分でもどうすれば良いのかわからなくなりこちらで相談させて頂きました。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も怖いです

マイちゃんさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
よろしくお願いします。

私もマイさんと同じように、よく死について考えて恐ろしくなることがあります。僧侶という立場上、ご葬儀の場に立つことが多く、その度「自分はどういう最期を迎えるのだろう」と考えて、怖くなってしまうのです。
でも、必ずやってくる悲しい別れだからといって、恐れていてばかりではいけないな、とも思います。

仏教では「諸行無常」、つまり全てのものごとは移ろいゆき、いずれ滅することを説きます。この部分だけを見て、他宗教の聖職者が「仏教は刹那的、厭世的な教えだ」と理解したそうです。
しかしそれは間違っています。仏教は必ず死がやって来ることに目を背けずまっすぐ見据え、いずれ来るその時まで完全燃焼して生きることを説く教えだと、私は思っています。

私は「死の体験旅行」という、自分自身の死を仮想体験するワークショップを行っていますが、受講された多くの方が、ポジティブな考えに至っています。一見ネガティブに見える「死を考える」ことは、実はより良く生きるために必要なことなのかもしれません。
そうであれば、今マイさんが死について考えてしまうのも、決して無駄ではないと思います。

子育てのご苦労や産後の不安定感などが重なって、今の状況になっているのかもしれませんね。心療内科でたくさんの薬を出されたということですが、あまり多くの薬を飲むことは好ましくないと思います。他の医師などにも相談なさってみてはいかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

やはり私の個人の私見ですが…

マイちゃんさん。三人ものお子さんを出産されて子育てよく頑張っていらっしゃいますね。
素晴らしいです。

仏教では六道輪廻と言って命あるものは覚らなければ生まれ変わり死に変わりして六道を巡ると言われています。
だから、死が終りではありません。
全てが消えて無くなるわけではないのです。

私も子供を出産しましたが、子供が生まれて物心がつくかつかないとき、子供にこう質問した事があります。

「〇〇ちゃんは、生まれて来る前どこにいたの?」

子供は迷わず指で上を指差しました。

で、何をしてたの?と聞くと

「〇〇ちゃんはね、パパとママの所に生まれて来るの待っていたの」

と、答えてくれました。
その後月日が経ち、片言ではなく流暢に喋れるようになってから、もう一回同じ質問をっしたのですが、そのときは答えられませんでした。

これは子供の戯言と言ってしまえばそれまでですが、私は子供の言葉を信じました。
人は、いや生きとし生けるもの森羅万象は大きな流れの中で生きています。
仏の命の中で生かされているのです。

死んで全てが消えるというものではないと私は確信しています。

仏教を学んでみてはいかがでしょうか?
いろんな宗派がありますが、貴方の一番ピッタリと来る宗派を探すために
お寺を訪ねたり本を読むのも善いかもしれませんよ。

それから、産後はマタニティブルーと言ってホルモンの急激な変化で
精神的なバランスを崩しやすいといわれています。

あまりシンドイと思う状況が続くのであれば、まず、婦人科で相談してみてください。
(心療内科より先に婦人科ですよ)

では、お身体をくれぐれもお大事になさってくださいね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

人生の意味は仏様が明確にお説きくださいます。

人は人生に空しくなることがあります。
それは人生の意味が分からない、理由がわからないからです。
「人は何故生まれ、死んだらどうなるのか」
人間の知恵では絶対に答えがでません。
かっこいい格言は世の中にいっぱいありますが、どれもただの人間の知恵です。
妄想や希望、道徳的観測による格言なのです。

いのちの事は真を知っておられる仏様に聞くしかありません。
それはお釈迦様です。お釈迦様がお説きくださったお経です。

お釈迦様は、私たちのいのちは輪廻していることを教えて下さいます。
そして、その輪廻は今の行い(業)が来世のいのちを作っているんだとおっしゃるのです。
これを「自業自得」と言います。

人が生まれてくる理由は前世の行いの結果です。
五戒という戒律を守ると来世で人間に生まれることができます。
だから今人間に生まれているということは前世が五戒を守った結果です。
私は、『前世の尊い行いの結果によって人間に生まれることができた』ということです。
人間に生まれることは滅多にない僅かな確率で、とても凄いことです。

そして、人間に生まれたら、更に『仏になる』という大チャンスがあります。

人間はいつか死にます。
死ぬということは来世が始まるという事です。
その来世が仏であるならこれほどの幸せなことはありません。
逆にその来世が地獄であるなら、今の人生がどんなに幸福でも空しいものであります。

是非、このいのちで仏になる教えを聞きましょう。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

未来 それは未だ来らざる事

未来という言葉を希望的に読むのでもなく悲観的に読むのでもなく
そのままダイレクトに考察してみましょう。
❝未来❞とは
いまだ きたらず
いまだ きたらざること
まだ きてもいないこと
おこってもいないこと
めのまえにありもしないことです。
あなたが相手にしていることは少なくとも、実際に起こった現実ではありません、よね?
まず、この肯定しがたい事を、あなたがキチンと肯定しないと、迷妄の雲は去りません。
「え、でも、いつかくるじゃないですか?」
大丈夫です。それ↑、その思いも、いま、現実に実際リアルタイムで起こっていることではないですよね。
人間は、現実でないことを相手にしている時は、思いを相手にしていることが❝確実❞なのです。
確実に思いを相手にしているのです。
だから、現実を相手に生活している人は、あなたのように悩みはありません。
あなたも現実を相手にされていた時は、目の前を生き切って、迷いも入る余地すらなかったはずです。
人間が恐怖することの99%は頭の中で、実際に起こっていないことなんだ、と認識してみましょう。
あなたが相手にしている事が、現実ではなく、自らの思いの中、マボロシを相手にしていた、という事に目覚めて頂きたいのです。
私にも妻子がいますし、どちらが先にさようならをするか分かりません。
仮に妻子が先に死んでも、私は、私の生として生き続けることになります。
何故なら、他人も、家族も、自分の体も、世界そのものが、
自分の願いや思いとはまるで無縁な在り方として活動しているからです。
そうなったらもちろん辛いでしょう。
ですが、辛くなる前から、その痛みを恐れているだけなのではないでしょうか。
今日もお寺には、先立たれた人たちを弔い供養するべく、というより、故人さまと生きている人と同様に面会、再会、お参りに来られる方々が全国に大勢おられます。
死は終わりではないのです。
ちゃんと続いている人たちが沢山、健全に生活していますから安心してください。
もしそれが無かったら、みんな愛する人たちの後を追ってしまいます。
諦める、明らめる、とは、真実のすがたを悟る、ということです。
思いの世界の自ら作り上げた恐怖の世界から抜け出して、ちゃんと大丈夫な世界を生きましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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