以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。 ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」 などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。 仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
いつもお世話になっております。 hasunoha宗の雅子と申します、というのも、 ほぼほぼ,hasunoha問答が私の仏教の全てといっても過言ではないのです。 ほぼほぼと続きますが、問答は9割方拝読させていただいてますので完璧にhasunoha宗です。 沢山のお知恵をいただき、素晴らしい場です。 本当にありがとうございます。 さて、質問ですが、最近、仏教への向き合い方がわからなくなってしまいました。 数年、朝晩、勤行を唱えておりましたが、 朝は朝で、家事や仕事にいく用意でバタバタしながらも、行っておりました。 夜は夜で、食事を終えてからあげていました。 …が、今日ふと、こんなでいいのかなと。 今夜は般若心経もお唱えしませんでした。 時には切迫感の中で、時計と戦いながら。 気持ちが入っていない勤行は、自分自身気持ちのいいものではありません。 お坊様のご意見をお伺いしたいです。 お時間のある際にでもお答えいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
はじめまして。 初めて質問します、仏教を手がかりに日々自問自答するきっかけになった内容なので長いですが宜しくお願いします。 本来は仲の良かった同僚とある事がきっかけで、なかたがいしました。 自分かわいさでは決してないんですが今でも私が正しいと思っています。 具体的な事は話せませんが、かなり深刻な問題になり私が会社を去る決意を一度はしたほどです。 その間色々な葛藤があり、これ以上人(信頼していた人間)を嫌いになりたくない想いからの去る決意でした。 いったい自分が本当に正しいのか、どうあるべきなのか40歳過ぎて迷うような事があるとは思いませんでした。 自分の正しさを確かなものにしたくて、仏教ならあなたは間違っていないと、私の正しさを肯定してくれるだろうと求めましたが、学ぶにつれ仏教は道徳や正義を説く訳ではない事がわかりました。 道徳や正義は時代や国によって変化しえること、ならばなにを頼りに生きればいいのか? 親鸞聖人と唯円との問答で人を千人殺せばあなたの往生は間違いない…云々、唯円は当然断りますが、今あなたが人を殺さないのはあなたの心が正しいからではない、今おもうように殺す縁にないだけだと言うくだりがありますが、確かに考えさせられます、当然親鸞聖人は殺人を仕方がないと肯定している訳ではなく、誰でも条件が揃えば縁しだいで何をするか分からないのが人間なんだと、私にあなたも逆の立場に現実おかれたら本当にその正しさを全う出来ますか?それ以外の事も全て、何者にも影響されず常にあなたの正しさは永久不変なものですかと自問自答させられました。 社会的には善い悪いはありますが、仏教を通じて思い上がっていたんだなと気ずかされました、自分はどうあるべきなのか答えが欲しくて仏教に救いを求めましたが学ぶにつれ自問自答ばかりです。 質問が最後になりましたが、諸行無常・諸法無我、確かなものは何も無いと言いますが、5万年前の私達の先祖はまだ十分な知性と理性を持っていない時に死者に花を手向けた痕跡があるらしいです、この優しさは確かなことではないでしょうか。
性行為って、最も心と命に関することなのに、タブーだと真剣に議論しません。それゆえに性行為をした結果、その行為をした人たちの中には不幸になってしまう人もおり、その子どもが不幸になってしまう話も聞きます。 性行為に関する言葉として性欲があります。 食欲や睡眠欲と同様に、人にとって性欲は生きていくなかで避けられないものだと思います。 この三大欲求の中で、一番取り扱いが難しいものではないかと思います。例えるなら、車の運転と同じで、快適なものですが、一度コントロールを失うと、他人の心を傷つけ、深い悲しみに追い込んだり、命を失ったりしかねません。そのように考えると、闇雲に避ける話ではなく、成人し、自分の行動に責任を取らなければならない年齢になる前に、しっかり考えておく必要があると思うのです。 物事には、メリットやデメリット、リスクがあるはずで、それを理解した上で利用することが大事かと思います。心と命に関することなので、メリットやデメリットという言葉はふさわしくありませんが。 タブー視すれば、人によっては汚いものや穢れたものと捉える可能性もあります。違う見方をすれば、タブー視することで簡単にその行為に及ばないようにしていると捉えることができます。メリットやデメリットの判断ができない人に対しては「ダメなものはダメ!」でいいのかもしれませんが。 おそらく、基本は、「相手の立場に立って、将来起こりうることを見通し、相手が幸せになるように行動し、目の前の相手に誠心誠意対応する。そして、そのアフターケアをしっかりする。」 別にこれは、性行為に限らず、仕事においても、人間関係においても、人間が行う全ての行為に言えることだと思います。男女関係なく、全ての人に言えることなのではないかと考えています。 とはいえ、人は失敗するもの。仕事でも失敗します。そのあと、どう対応するかということが大事なのかなと思います。ニュースやワイドショーを見ると、そのように感じます。 このように考えていくと、性欲を抑えきれず、風俗に行くこともアリなのかなと思います。ただし、その際のリスクとデメリットもしっかり考慮すべきで、パートナーや子どもがいるなら、それがどのような影響を及ぼすのか考えるべきだとは思います。 私は風俗には通ったことはありませんし、性行為による大きな失敗はしたことはありませんが、問を立てました。
お坊様方にはいつもお世話になっております。 教えてくださいませ。 先日、テレビニュースで見たのですが国内某市で車を運転中のお坊様が警察官から「運転に相応しくない服装だ。市の条例違反です。」と言われたそうで、確か浄土真宗のお坊様だそうですが、ご本山を含め遺憾の意を表明したようですね。私は現場にいた訳でもなくただニュースを見ただけなのですが。 そのニュースを見た時にとうとう、仏教弾圧が始まったのかと恐くなりました。 ハスノハで一生懸命、回答内容を考えてくださり回答して下さっているお坊様方の事を私は信頼しています。 お坊様方はこのニュースをどの様に思われますか? 私は交通事故で自転車にはねられてから、車よりも歩道や横断歩道を傍若無人に飛ばして走っている自転車の方がよっぽど恐いです。歩道でも横断歩道でも例え青信号でも自転車よけの為に手をピンと空高く上げて歩いています。 話がそれてしまいましたが、お坊様方はこのニュースをどの様に捉えますか?
お世話になります。 本でキリスト教の「神なる父の愛」という考え方は素晴らしいなと思いました。 仏教で同じような考え方はありますか? 気軽に改宗するものでもないと思うので、 まずは仏教で同じような考えがないかを知りたいです。
自分の周りの人々に、また、その他の全ての生命に自分の功徳を分けることはできるのでしょうか(自分に功徳があるのかすら分かりませんが)。 頭の中で念じるだけで回向していることになるのでしょうか。 それは先祖にも届いているのでしょうか。 実感がない、確認できないことなので、これでいいのか、と首をかしげながら念じています。 また、どんな言葉で念じるのが良いのでしょうか。
梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。
一切皆苦と認める事と、諦める(もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。という意味)事の違いは何ですか?
私は今イスラム教の国で留学中です。周りが熱心なので私も宗教について考えるようになりました。そこで現地人から神様について聞かれ「貴方は神様に何か頼んだり、願う時どの神様にしているの?」と言われました。はっきり言いますとその時の私は仏教についてがよく分かりませんでしたし、教えに今まで従っていたかも分かりません。なのでこの質問をされた時に戸惑ってしまいました。また、その時にイスラム教の教えを教えてくれましたが心は動かされませんでした。 そして最近インターネットで仏教の教えについて調べてみると仏教の教えは何となく救われた気分になり泣きそうになってしまいました。今まで全くもって宗教などに興味はありませんでしたが、もっと神様を信じたいと思いました。仏教をもっと信仰するにはどんなことから始めるのが良いですか?
私の知っている仏法の極意に全てを仏にお任せする、と言うものがあります。明日どうなるんだろうとか、自分の力が足りるだろうかとか、あの人に攻撃されたらどうしようとか色々不安はあります。 しかしあれこれ考えても物事はなるようにしかなりません。それも自分の努力の結果と言うより自然界に働く自然の力のようなもので決まります。これを仏教では他力と言うんでしょうね。 何の不安もなくお任せの境地になれたらそれは安心でしょうが中々そうはいきません。ああしたらとかこうしたらとか怖れにさいなまれるのが凡夫です。 さてそういう凡夫の私でも一日を送るうえで午前中はあれこれ心配でも午後、夕方、夜になるにつれ諦めの境地になりまあ明日も何とかなるだろうと無理やりお任せになります。 実際私のできることは小さくて大きな自然の流れに流されて生きているからお任せと言うより諦めに近い境地で生きています。お任せの境地になるにはどう修行したらよいでしょう。 今のところ座禅が趣味ですが以前伺ったところでは仏教ではいろんな修行法があって私にあったものがあるようなことを聞きました。座禅は一生続けるつもりですが座禅以外でも御教授下さればうれしいです。
こんにちは。 お坊さんに質問したりお寺に行ったりしている中で思い出したのですが20数年前通っていた幼稚園がお寺(真言宗)が運営していました。 そこでやっていた行事をふと思い出しましてあれの名前は何だったのか知りたくて質問しました。 ・恐らくご本尊か弘法大師空海さんのお誕生日の時にあげられていた ・選抜された園児が綺麗な服を着て榊か何かの枝を持って音楽に合わせて舞いをした ・最後にご本尊に甘茶をかけていた うろ覚えなのですか、これは幼稚園独自の行事だったのかそれともこういった行事をするお寺はあるのでしょうか。 もし観に行けたら行きたいな~と思ったりしています。
何度かご相談させて頂いております。 特に、初めての時と2回目の時にご回答くださった教善寺の中田三恵様には、思っている事をズバリ言い当てられ、また、そう言って欲しかった!、というお答えを頂いて、本当に救われ感謝の気持ちでいっぱいです。 他のお坊様にもご回答を頂き、危ない処を助けて頂いたりもしましたし、考え方や気の持ち方というものを教えて頂きました。 数回相談させて頂いた事により、少しずつ精神的に落ち着いてきました。 ただ、また悪い癖が出て、スピリチュアル系のサイトを覗いてしまいます。 そこには必ず「潜在意識を書き換えれば人生は良くなる」とあり、そのためのセッションやセミナーへと誘います。 とても惹かれてしまうと同時にまた不安を抱えてしまうのです。 潜在意識を書き換えると人生が好転する、という考えはどうなんでしょうか? 仏教ではどういう教えに相当するものでしょうか? 昨年までは、「自分は気が強く、長女という立場であるからしっかりしている、しっかりしなくては!」という思いが知らない内に根付いていて、それは良くも悪くも作用しましたが強く生きてこられました。 それが今年に入ってから崩れて、後はご相談させて頂いた通りなかなか抜け出せず1年が過ぎようとしています。 そしてやっと11月の終わりに、胸の塊が無くなった感覚を久し振りに取り戻した処でした。 潜在意識云々という、自分で植え付けてしまった思い込みを消し去り、心平穏に過ごしたいと思っております。 どうすれば、このような思い込みを消し去る事が出来るでしょうか? スピリチュアル系のサイトはいくらでも目に入ってきてしまいます…
仏教は色々な宗派や教えが有りますが、本を読んでも調べてもイマイチ分かりません。 お寺にお話を伺う勇気も無く、大変失礼な質問で申し訳ないのですが、それぞれの仏教の宗の違いなど分かりやすく教えて頂けたら嬉しいです。 また、○○宗○○派など宗の中でも違いが有るようなのですが、その違いも教えて頂けたら嬉しいです。 先に似たような質問が有りましたら申し訳ございません。 他の宗派との教えの違い。 特色 お坊さんは何故、今の宗派で修行しようと決めたのですか? どうして今の宗派で勉強したいと思ったのですか? 何故この様な質問をしたかと申しますと、私の親は非常にだらしない大人で、先祖代々のお墓やご縁のあるお寺など有りませんし、当然、お墓まいりもしておりません。 将来、自分のお世話になるお寺もありませんので、それぞれの宗派を勉強して自分でお寺を探してお金を貯めて将来お願いしたいと思ってます。 仏教やお寺の事は何も分かりませんので、その為にも色々と勉強させて頂きたく思います。 大変失礼な質問とは思いますが、宜しくお願い致します。
何故霊場を巡ると徳を頂けるのですか?
本当の意味で仏教に出会う人はとても少なく、出会わない方のほうが多いのはなぜですか? 又、仮に出会えたとしても 「魚の子は多けれども、魚となるは少し」という言葉のように、 本当に信心を持って仏教に触れ合うことができる方は極めて少ないのはなぜですか? 仏教が必要でない人たちばかりだということですか?
人生のなかで、本当の意味で仏教と出会う人はおよそどれくらいいると思われますか? 又、長い人生のなかで、本当の意味で仏教と出会うことがない人もいるのでしょうか?
禅友に送る書 「依存症」を読んで、ふと思いました。自分はここで質問し続けても良いのだろうかと。説法という名の薬を大量に飲み続ける(読み続ける)事自体が悪しき事ならば、自分はここを離れるべきだろうかとも思いました。 自分がどうするべきかもまともに決められない愚か者ですが、だからこそ教えてほしいのです。私はどうすれば良いのでしょうか。
いつもお世話になっております。 私は、いわゆる誹謗中傷に対して過剰に反応し、 「それは根本的に違うわ!基本的なことなのに、 どうしてわからないのかしら」「ルール守れやアホ!!」 と怒りが湧いてしまいます。 ですが、阿弥陀様やお不動様、つまり私の両親様だったら、 自らの信条や尊厳を著しく侵犯される内容の言動を受けたり、 また公道等で「バーカ!」「○ね!」「きもい!」などと 突然暴言を吐かれる、 また以前自分に暴言を吐いてきた相手と継続的に遭遇 しなければならないとき、どうなさると思いますか? シカトしますか?気分をさっぱり変えて即座にその場から 離脱し、別の仕事に当たりますか? ちなみに私は、応接間まで取って頂いて例の職員から 所属長代理、担当医、担当支援者まで同伴で 謝罪の場を設けて頂いたにも関わらず、 ムラムラと怒りが込み上げてきてしまうことがあります。 そのせいで最近は、例の職員にケンカを売って、 増えるはずだった通所日が減ってしまいました…泣 阿弥陀様やお不動様だったら、ルールを守れない人、 またどうしようもないアンポンタンに遭遇したら どうするんだろうな…と半分興味、半分真剣に気になりました。 ご意見お待ちしております。
仏教では、言われたこと、されたことは今はもうなく、過去のこと。目、耳、鼻、口、肌で感じるものが今。そうすれば苦しまない。 だったら虐待は? イジメは? 全て過去の雑音? 何をやられても、されても雑音なのですか? 幼いころから、そういう環境にいると人格形成されます。普段の生活の中で困っている事が、たくさんあります。 過去が雑音なら、今、この私というかたまりは幻です。 こんな質問をして、ごめんなさい。