おはようございます。仏様は平等だと私くしは思うのですが 肉体がある時は 人として 自分のやりたい事を 自由にし、いい事も悪い事も してしまう ただ 亡くなって 肉体を手放した時、魂だけになりますよね そうしたら この世の人ではなくて いわゆる仏になります。全ては平等なので 仏様が天国や地獄に人を分け隔てることを なさるとは 思えないのです。 仏になるとは、仏様の元に帰るのだと思うんです お坊様方は、亡くなったら仏様は天国や地獄に人を裁き わけると思いますか?
寒いですね。 北海道にお住まいのお坊さま、みなさま、どうぞお気をつけてお過ごし下さいね。 最近、近くは良く見えるのに、遠くを見ると物が2重に見えたりボヤけて見えたりするようになりました。先日持病の検査と診察があった時に、主治医にその旨を話しました。年齢的に老眼が始まったのかと思っていたので、そう言われるかと思っていました。しかし、言われたのは“ステロイド剤の長期服用による白内障の疑い”でした。 私はまだギリギリ40代なのに白内障なの?と、びっくりしました。30代で免疫不全の病気を発症してから、ずっとステロイドを服用して病気の再燃を押さえて来ました。病気をやっつけてくれる役目の薬が、まずは私の骨をスカスカにして、今度は目を弱らせているのか…と、少し凹みました。 仕方がないと思いながら、やっぱり悲しかったです。これが私の人生なんだなぁ~と、また思いました。 自分に起こる現象はすべて縁起によるものだと、ハスノハのお坊さま方に教えていただきました。今回のこともそうです。ただ事実としてあるだけで、そこに何ら意味はありません。淡々と受け止めて、お医者様の指示通りに治療すれば良いだけの事。 けれど哀しいかな、私はそこに意味を求めたい。自分に起こる悲しい出来事に意味を求めて支えにしたいのです。そうでないと、頑張れないから。 目が見えにくくなったのは、これからは本当に大切なものだけを見よ!という事なのかな。そう思います。余計なことまで見て心を乱す事なく、穏やかであるために。 そう思って自分を奮い立たせる事にしました。仏教の教えから、外れていますか。 仏教的には、どんな風に考えたら良いでしょうか。教えていただけると有難いです。
無明の原因はなんでしょうか? どうして無明という状態に陥ってしまうのでしょうか?
「愛情vs.束縛」 「私には信仰の自由がありません」 を書いたあと、 「真っ暗闇の中、小さくうずくまる、それでも…」 を書かせていただいた豊島芳美です。 「結局、何が言いたいのかサッパリわかりませんが。」 とのご指摘をいただきましたので、もう一度質問させていただくことにしました。 また意味不明でしたら、すみません。 私の頭の中は、通訳が必要みたいです。 多分、今度は大丈夫なはず… 豊島語を日本語にして、質問します。 今の私は、仏教の教えを大切にしたいと思っています。 この信じる道を進むことは、時と場合によっては、罪となることがありますでしょうか? また喝!を入れて下さっても結構です。 よろしくお願いいたします。
正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
なぜ、仏教は小難しく真理を語るのですか? 結局何が言いたいのかを理解するまでに、大変でした。 もっと解りやすく、結局はなにが言いたいのかを述べてくれた方が、良いと思いませんか? それとも、あえて、わざと、難しくしているのですか?
以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。 ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」 などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。 仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
いつもお世話になっております。 hasunoha宗の雅子と申します、というのも、 ほぼほぼ,hasunoha問答が私の仏教の全てといっても過言ではないのです。 ほぼほぼと続きますが、問答は9割方拝読させていただいてますので完璧にhasunoha宗です。 沢山のお知恵をいただき、素晴らしい場です。 本当にありがとうございます。 さて、質問ですが、最近、仏教への向き合い方がわからなくなってしまいました。 数年、朝晩、勤行を唱えておりましたが、 朝は朝で、家事や仕事にいく用意でバタバタしながらも、行っておりました。 夜は夜で、食事を終えてからあげていました。 …が、今日ふと、こんなでいいのかなと。 今夜は般若心経もお唱えしませんでした。 時には切迫感の中で、時計と戦いながら。 気持ちが入っていない勤行は、自分自身気持ちのいいものではありません。 お坊様のご意見をお伺いしたいです。 お時間のある際にでもお答えいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
はじめまして。 初めて質問します、仏教を手がかりに日々自問自答するきっかけになった内容なので長いですが宜しくお願いします。 本来は仲の良かった同僚とある事がきっかけで、なかたがいしました。 自分かわいさでは決してないんですが今でも私が正しいと思っています。 具体的な事は話せませんが、かなり深刻な問題になり私が会社を去る決意を一度はしたほどです。 その間色々な葛藤があり、これ以上人(信頼していた人間)を嫌いになりたくない想いからの去る決意でした。 いったい自分が本当に正しいのか、どうあるべきなのか40歳過ぎて迷うような事があるとは思いませんでした。 自分の正しさを確かなものにしたくて、仏教ならあなたは間違っていないと、私の正しさを肯定してくれるだろうと求めましたが、学ぶにつれ仏教は道徳や正義を説く訳ではない事がわかりました。 道徳や正義は時代や国によって変化しえること、ならばなにを頼りに生きればいいのか? 親鸞聖人と唯円との問答で人を千人殺せばあなたの往生は間違いない…云々、唯円は当然断りますが、今あなたが人を殺さないのはあなたの心が正しいからではない、今おもうように殺す縁にないだけだと言うくだりがありますが、確かに考えさせられます、当然親鸞聖人は殺人を仕方がないと肯定している訳ではなく、誰でも条件が揃えば縁しだいで何をするか分からないのが人間なんだと、私にあなたも逆の立場に現実おかれたら本当にその正しさを全う出来ますか?それ以外の事も全て、何者にも影響されず常にあなたの正しさは永久不変なものですかと自問自答させられました。 社会的には善い悪いはありますが、仏教を通じて思い上がっていたんだなと気ずかされました、自分はどうあるべきなのか答えが欲しくて仏教に救いを求めましたが学ぶにつれ自問自答ばかりです。 質問が最後になりましたが、諸行無常・諸法無我、確かなものは何も無いと言いますが、5万年前の私達の先祖はまだ十分な知性と理性を持っていない時に死者に花を手向けた痕跡があるらしいです、この優しさは確かなことではないでしょうか。
性行為って、最も心と命に関することなのに、タブーだと真剣に議論しません。それゆえに性行為をした結果、その行為をした人たちの中には不幸になってしまう人もおり、その子どもが不幸になってしまう話も聞きます。 性行為に関する言葉として性欲があります。 食欲や睡眠欲と同様に、人にとって性欲は生きていくなかで避けられないものだと思います。 この三大欲求の中で、一番取り扱いが難しいものではないかと思います。例えるなら、車の運転と同じで、快適なものですが、一度コントロールを失うと、他人の心を傷つけ、深い悲しみに追い込んだり、命を失ったりしかねません。そのように考えると、闇雲に避ける話ではなく、成人し、自分の行動に責任を取らなければならない年齢になる前に、しっかり考えておく必要があると思うのです。 物事には、メリットやデメリット、リスクがあるはずで、それを理解した上で利用することが大事かと思います。心と命に関することなので、メリットやデメリットという言葉はふさわしくありませんが。 タブー視すれば、人によっては汚いものや穢れたものと捉える可能性もあります。違う見方をすれば、タブー視することで簡単にその行為に及ばないようにしていると捉えることができます。メリットやデメリットの判断ができない人に対しては「ダメなものはダメ!」でいいのかもしれませんが。 おそらく、基本は、「相手の立場に立って、将来起こりうることを見通し、相手が幸せになるように行動し、目の前の相手に誠心誠意対応する。そして、そのアフターケアをしっかりする。」 別にこれは、性行為に限らず、仕事においても、人間関係においても、人間が行う全ての行為に言えることだと思います。男女関係なく、全ての人に言えることなのではないかと考えています。 とはいえ、人は失敗するもの。仕事でも失敗します。そのあと、どう対応するかということが大事なのかなと思います。ニュースやワイドショーを見ると、そのように感じます。 このように考えていくと、性欲を抑えきれず、風俗に行くこともアリなのかなと思います。ただし、その際のリスクとデメリットもしっかり考慮すべきで、パートナーや子どもがいるなら、それがどのような影響を及ぼすのか考えるべきだとは思います。 私は風俗には通ったことはありませんし、性行為による大きな失敗はしたことはありませんが、問を立てました。
お坊様方にはいつもお世話になっております。 教えてくださいませ。 先日、テレビニュースで見たのですが国内某市で車を運転中のお坊様が警察官から「運転に相応しくない服装だ。市の条例違反です。」と言われたそうで、確か浄土真宗のお坊様だそうですが、ご本山を含め遺憾の意を表明したようですね。私は現場にいた訳でもなくただニュースを見ただけなのですが。 そのニュースを見た時にとうとう、仏教弾圧が始まったのかと恐くなりました。 ハスノハで一生懸命、回答内容を考えてくださり回答して下さっているお坊様方の事を私は信頼しています。 お坊様方はこのニュースをどの様に思われますか? 私は交通事故で自転車にはねられてから、車よりも歩道や横断歩道を傍若無人に飛ばして走っている自転車の方がよっぽど恐いです。歩道でも横断歩道でも例え青信号でも自転車よけの為に手をピンと空高く上げて歩いています。 話がそれてしまいましたが、お坊様方はこのニュースをどの様に捉えますか?
お世話になります。 本でキリスト教の「神なる父の愛」という考え方は素晴らしいなと思いました。 仏教で同じような考え方はありますか? 気軽に改宗するものでもないと思うので、 まずは仏教で同じような考えがないかを知りたいです。
自分の周りの人々に、また、その他の全ての生命に自分の功徳を分けることはできるのでしょうか(自分に功徳があるのかすら分かりませんが)。 頭の中で念じるだけで回向していることになるのでしょうか。 それは先祖にも届いているのでしょうか。 実感がない、確認できないことなので、これでいいのか、と首をかしげながら念じています。 また、どんな言葉で念じるのが良いのでしょうか。
梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。
一切皆苦と認める事と、諦める(もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。という意味)事の違いは何ですか?
私は今イスラム教の国で留学中です。周りが熱心なので私も宗教について考えるようになりました。そこで現地人から神様について聞かれ「貴方は神様に何か頼んだり、願う時どの神様にしているの?」と言われました。はっきり言いますとその時の私は仏教についてがよく分かりませんでしたし、教えに今まで従っていたかも分かりません。なのでこの質問をされた時に戸惑ってしまいました。また、その時にイスラム教の教えを教えてくれましたが心は動かされませんでした。 そして最近インターネットで仏教の教えについて調べてみると仏教の教えは何となく救われた気分になり泣きそうになってしまいました。今まで全くもって宗教などに興味はありませんでしたが、もっと神様を信じたいと思いました。仏教をもっと信仰するにはどんなことから始めるのが良いですか?
私の知っている仏法の極意に全てを仏にお任せする、と言うものがあります。明日どうなるんだろうとか、自分の力が足りるだろうかとか、あの人に攻撃されたらどうしようとか色々不安はあります。 しかしあれこれ考えても物事はなるようにしかなりません。それも自分の努力の結果と言うより自然界に働く自然の力のようなもので決まります。これを仏教では他力と言うんでしょうね。 何の不安もなくお任せの境地になれたらそれは安心でしょうが中々そうはいきません。ああしたらとかこうしたらとか怖れにさいなまれるのが凡夫です。 さてそういう凡夫の私でも一日を送るうえで午前中はあれこれ心配でも午後、夕方、夜になるにつれ諦めの境地になりまあ明日も何とかなるだろうと無理やりお任せになります。 実際私のできることは小さくて大きな自然の流れに流されて生きているからお任せと言うより諦めに近い境地で生きています。お任せの境地になるにはどう修行したらよいでしょう。 今のところ座禅が趣味ですが以前伺ったところでは仏教ではいろんな修行法があって私にあったものがあるようなことを聞きました。座禅は一生続けるつもりですが座禅以外でも御教授下さればうれしいです。
こんにちは。 お坊さんに質問したりお寺に行ったりしている中で思い出したのですが20数年前通っていた幼稚園がお寺(真言宗)が運営していました。 そこでやっていた行事をふと思い出しましてあれの名前は何だったのか知りたくて質問しました。 ・恐らくご本尊か弘法大師空海さんのお誕生日の時にあげられていた ・選抜された園児が綺麗な服を着て榊か何かの枝を持って音楽に合わせて舞いをした ・最後にご本尊に甘茶をかけていた うろ覚えなのですか、これは幼稚園独自の行事だったのかそれともこういった行事をするお寺はあるのでしょうか。 もし観に行けたら行きたいな~と思ったりしています。