こんばんは 今日は 私が いつも行っていることが 素朴に見えて独特のところがあると気づき書かせていただきます。私はなんと言うか 自分の 外側に 神 を作ってしまうのです。 例えば 先行きが不安になると 神社やお寺に行って爆祈りをしたり 占いの結果を信じ切って成功したり失敗したり 学生時代 強くなりたいと願い 格闘技に明け暮れたり そういった 外的要因にすがって 自分を保ってきました。ただ思いました こうやって外的要因にばかりすがって生きる姿勢は 仏教では どういった 煩悩に該当するのでしょうか?
いつもご教示ありがとうございます。先日相談させていただきました。 改宗についてですが、家族と話し合ったところ、近い将来に現在住んでいる近くの日蓮宗さんの寺院にお世話になるかもということになりました。 そこで質問、相談なのですが、我が家は先にも話しましたとおり、新興宗教を家族がやっておりまして、仏壇には新興宗教の本尊があり、私は日蓮宗さんにお世話になるのであれば、仏壇には大曼荼羅御本尊を安置したいと考えております。 今度、身延山久遠寺へ行くのですが、そこのお土産屋さんに大曼荼羅御本尊が売られているようです。こちらを日蓮宗さんの菩提寺にお世話になるまで私が個人的に読経するときのためなどに自室に安置してもいいものなのでしょうか? やはり、寺院で授与してもらい、開眼して頂いたほうがいいのでしょうか? 私一人が寺院に伺って檀家になりたいですとか、本尊授与をお願いしたいです、と勝手には言えないのですが、本尊はあったほうがいいと考えております。いかがなものでしょうか?ご教示いただけますと助かります。前置きが長くなってしまい申し訳ございませんでした。
お経やお題目 勤行など 繰り返す事で 得られるものが 有りますが それは言霊という事でしょうか? 素晴らしい言葉は繰り返す事に意味があると 受け止めたらよろしいのでしょうか 私くしは、仏様はとてもありがたいのでしょうが 聞こえてまいります 仏様らしき言葉で 苦しみ普通に 生きていけていません。言葉とうりに生きたら 私は 子供を置いて出家し お坊様になる道だけを一心不乱に歩み 自分の人生全てを仏様に尽くして参らないといけません。 でも、私は自分に甘く 子供や親も心配ですし 無責任に 子供を置いて 仏様に尽くしていくわけにいきません。 仏様の心を無視し生きてもいいのか 苦しくてしかたございません。 師は私のせいじゃないから 今自分の人生を歩みなさいとおっしゃってくださいましたが どの言葉を私は 受け取ればいいのかわかりません。 悩みというか どう表現していいかわかりかねますが 自分達の幸せをとるか 皆様の幸せを自分が背負っていくか その様に選択を迫られている様に感じ 答えをだせません。 仏様は本当に仏様なのか 私には怖い存在でございます。
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
「回向」と言うのは、どういう意味なのでしょうか?
いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。 我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。 いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。 現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。 現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。 己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。 存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。 我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。 お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。
以前 こちらで 二度 質問、相談させていただきました。 その節は 大変 お世話になり ありがとうございました。 今 悩んでる事は、 お寺での法要の後や、YouTubeで有り難い法話を聞かせてもらったり お寺で開催される 仏教についての勉強会に参加したり 仏教についての本やHPを読んだりして、 少しは 仏教についてわかるようになってきました。 でも、いくら仏教について学んでも 有り難いお話を聞いても 日常生活で実践出来ない。 自分を変える事が出来ない。 そんな愚か者の自分 が、つくづく嫌になってしまいます。 私が一番好きな観音様のように、慈悲の心で人に接する事が出来ない。 知識ばかりが増えて内面を変えられないジレンマ それが苦しい。 中途半端な信心なら しない方がいいのかな。。。 なんて最近思ってしまいます。 ちなみに、真言宗のお寺が好きで、法話や勉強も 真言宗のお坊さんから 聞かせてもらってます。 大変失礼ながら、できれば真言宗の僧侶の方から 愚かな私に、厳しいお言葉を頂けたら嬉しいです。
恁麼の道理なるゆえに、尽地にて万象百草にあり の、意味を子供にわかるようにせつめいするには適切な言葉はありますか? よろしくお願い致します。
法然様や親鸞様は専修念仏を教化しておられますが、出家せずとも在家のままでも有意義な念仏はできるものでしょうか? やはり、浄土教系の寺院で指導を受けるべきものでしょうか? 在家のままでも有意義な念仏が可能だとすれば、どのような点が大事になるでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
いま訳あって賽の河原について調べております。 そこで質問させていただきたいのですが、 ①賽の河原の考え方はどの宗派のものでしょうか。また、子供たちは河原で仏塔を組むことによって功徳を積むと聞きましたが、仏塔を組んで功徳になるというのはどの経典に書いてあることでしょうか。 ②またそれと合わせてお聞きしたいのですが、閻魔様による裁判というのはどの宗派の考え方でしょうか。またその際、地蔵菩薩が弁護人のような立場になってくれるというお話を聞きましたが、それは間違いないのでしょうか。 仏教のことには明るくないので、ズレた質問でしたら申し訳ございません。 ご回答いただければ幸いです。
仏教は、決定論を支持しているのですか? それと、お坊さん達は他宗教徒の方々についてどう思っているのですか?
浄土真宗の三帰依文に、 この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん という文が有ります。 度、と言うのは彼岸に渡る事ですが、これは聖道門の文では有りませんか? 極楽往生は、度とは言いませんよね?
今年は色々あって「自業自得」を身を以て体験し、胸が苦しくなる日々を送っていました それで、ネットでたくさんの情報を得て却って混乱し、苦しみを増幅させた感じです そんな中でこちらに出会い、いくつか相談させて頂き少しずつ心が軽くなっていくのを感じており、大変感謝しております それでも気持ちは常に揺らぎ、ネガティブ側に引っ張られ暗い気分に陥り、ネット内の心理カウンセラーやスピリチュアル系サイト発信者に頼りたくなってしまいます 考え過ぎなのだと思うのですが、今までに見てきた情報の殆どは「潜在意識を書き換えれば世界が変わり幸せになれますよ」という内容なので、「潜在意識を変えなければ!」という焦りが生じてしまいます 頭のどこかで「早くその方法を教えてもらい気持ちを楽にしたい」という思いがあり、飲み込まれそうになります その一方で、それらは【商売】なのだ!、という信じ切れない気持ちもあり、踏み留まっています hasunohaを知り、お坊様からのご助言やお優しいお言葉を頂くとホッとする気持ちになりましたので、仏教を学ぶことが「心の平穏」を得ることになるのではないか、と思うようになりました そこで、表題のサイトを見付けて少し読んでいますが、本当は実際にお坊様から仏教の真髄を分かり易く教えて頂き、「安心」を得たいと思っております 当家や実家に来て頂いているお坊様からは、教えて頂きたいお話しは聞けそうにありません 実家の宗派は「浄土真宗」で、主人側は「真言宗」です 仏教の根源は同じで、それを親鸞聖人や弘法大師方々のご解釈(?)によって宗派が分かれたのですか? また、浄土真宗の【南無阿弥陀仏】というお念仏は、いつでも何処でも唱えて良いのでしょうか? 上記サイトでは、「【南無阿弥陀仏】とは、無明の闇を晴らしてくださったときの御礼の念仏」とありました むやみに唱えるものではない、ということですか? お聞きしたいことが色々あって記載内容が支離滅裂ですが、要は「仏教で救われたい、平穏の心で過ごしたい、それにはどうすれば良いか」、という事をお聞きしたいのです その為には、仏教を学ばなければいけないと思うのですが、どのように学べば良いのでしょうか? 標題のサイトにも「無料メール講座」があります こういう形でも学べますか? 仏教なので、今までのように混乱に陥ることはないでしょうか?
聖書では創世記がありますが、仏教ではこの世のはじまりはどのようにできたと教えられているんですか?
授戒会では何をやるのですか?また、受けたら何が起きるのでしょうか?
私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
日本の仏教の戒律では、お酒は禁じられていて、律宗の門の前にも「不許葷酒入門内」と書かれた石碑が置かれています。 しかし、お寺(国家祈祷を行う、観光寺院 、葬式寺院ともに)へお参りすると、必ず、日本酒やビールが供えられています。 これは、日本の仏教の戒律に背くものであり、どうしてお酒が供えられているのか、いつも不思議に思っています。 この疑問に答えてください。よろしくお願い致します。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
私の極楽浄土にたいする思いとは、全ての苦痛から、開放されて、阿弥陀様と、愛した者の魂があれば、それでよく、他は何も要らないと思います。例えば、空腹も苦痛のひとつです。金銀財宝が極楽浄土ではなんのやくにたつのでしょうか?わたしは、生まれてから、色んな想像を絶する苦痛に、耐えてきました。無限地獄なんか、はるか生ぬるいぐらいでした、だから、本当の極楽浄土の有り難みをしっています。後、余談ですが、有り難いの対極は、当たり前とは、思っていもせん、有り難いの対極は、勿体無いだと、私は思います、当たり前とは、有り難いを守る為の行動であり、勿体無いことをしない行動だと思って思います、愛する妻と結婚できたことは、極めて有り難いです。だから妻を守ることは、極めて当たり前の事と思っていきています。対して、勿体無いとは、ある命を粗末にする事ではないでしょうか。全ての衆生の命は、尊いものです。命を尊ぶことを、当たり前としましょう。