浄土真宗の三帰依文に、 この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん という文が有ります。 度、と言うのは彼岸に渡る事ですが、これは聖道門の文では有りませんか? 極楽往生は、度とは言いませんよね?
今年は色々あって「自業自得」を身を以て体験し、胸が苦しくなる日々を送っていました それで、ネットでたくさんの情報を得て却って混乱し、苦しみを増幅させた感じです そんな中でこちらに出会い、いくつか相談させて頂き少しずつ心が軽くなっていくのを感じており、大変感謝しております それでも気持ちは常に揺らぎ、ネガティブ側に引っ張られ暗い気分に陥り、ネット内の心理カウンセラーやスピリチュアル系サイト発信者に頼りたくなってしまいます 考え過ぎなのだと思うのですが、今までに見てきた情報の殆どは「潜在意識を書き換えれば世界が変わり幸せになれますよ」という内容なので、「潜在意識を変えなければ!」という焦りが生じてしまいます 頭のどこかで「早くその方法を教えてもらい気持ちを楽にしたい」という思いがあり、飲み込まれそうになります その一方で、それらは【商売】なのだ!、という信じ切れない気持ちもあり、踏み留まっています hasunohaを知り、お坊様からのご助言やお優しいお言葉を頂くとホッとする気持ちになりましたので、仏教を学ぶことが「心の平穏」を得ることになるのではないか、と思うようになりました そこで、表題のサイトを見付けて少し読んでいますが、本当は実際にお坊様から仏教の真髄を分かり易く教えて頂き、「安心」を得たいと思っております 当家や実家に来て頂いているお坊様からは、教えて頂きたいお話しは聞けそうにありません 実家の宗派は「浄土真宗」で、主人側は「真言宗」です 仏教の根源は同じで、それを親鸞聖人や弘法大師方々のご解釈(?)によって宗派が分かれたのですか? また、浄土真宗の【南無阿弥陀仏】というお念仏は、いつでも何処でも唱えて良いのでしょうか? 上記サイトでは、「【南無阿弥陀仏】とは、無明の闇を晴らしてくださったときの御礼の念仏」とありました むやみに唱えるものではない、ということですか? お聞きしたいことが色々あって記載内容が支離滅裂ですが、要は「仏教で救われたい、平穏の心で過ごしたい、それにはどうすれば良いか」、という事をお聞きしたいのです その為には、仏教を学ばなければいけないと思うのですが、どのように学べば良いのでしょうか? 標題のサイトにも「無料メール講座」があります こういう形でも学べますか? 仏教なので、今までのように混乱に陥ることはないでしょうか?
聖書では創世記がありますが、仏教ではこの世のはじまりはどのようにできたと教えられているんですか?
授戒会では何をやるのですか?また、受けたら何が起きるのでしょうか?
私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
日本の仏教の戒律では、お酒は禁じられていて、律宗の門の前にも「不許葷酒入門内」と書かれた石碑が置かれています。 しかし、お寺(国家祈祷を行う、観光寺院 、葬式寺院ともに)へお参りすると、必ず、日本酒やビールが供えられています。 これは、日本の仏教の戒律に背くものであり、どうしてお酒が供えられているのか、いつも不思議に思っています。 この疑問に答えてください。よろしくお願い致します。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
私の極楽浄土にたいする思いとは、全ての苦痛から、開放されて、阿弥陀様と、愛した者の魂があれば、それでよく、他は何も要らないと思います。例えば、空腹も苦痛のひとつです。金銀財宝が極楽浄土ではなんのやくにたつのでしょうか?わたしは、生まれてから、色んな想像を絶する苦痛に、耐えてきました。無限地獄なんか、はるか生ぬるいぐらいでした、だから、本当の極楽浄土の有り難みをしっています。後、余談ですが、有り難いの対極は、当たり前とは、思っていもせん、有り難いの対極は、勿体無いだと、私は思います、当たり前とは、有り難いを守る為の行動であり、勿体無いことをしない行動だと思って思います、愛する妻と結婚できたことは、極めて有り難いです。だから妻を守ることは、極めて当たり前の事と思っていきています。対して、勿体無いとは、ある命を粗末にする事ではないでしょうか。全ての衆生の命は、尊いものです。命を尊ぶことを、当たり前としましょう。
軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか? ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています 「それは不変ではない」はすぐに分かります 最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど… この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?
浄土の存在を心から信じておられる僧侶の方々も少なくないのではないかと思います。浄土という概念自体が浄土教(浄土宗、浄土真宗など)を中心としたものだと思いますが、浄土教の僧侶の方々はどのようにして浄土や阿弥陀仏の存在を信じられるようになったのでしょうか? 多くの仏典を熟読したり、神秘体験をきっかけとしてなど色々あるかと思いますが、是非僧侶の方々の実体験をお聞きできればと思います。私自身もなんとかして浄土や阿弥陀仏を信じるまでになって心の平安を得たいと思い学習していますが、まだまだです。仏典の学習だけでは無理なのかとも思っています。(ちなみに、読書を通して、禅宗においては死後の世界の存在を問わないことを知りました。) 宜しくご教示頂ければ幸いです。
ご質問させて頂きます、ハルソラと申します。 タイトル通り、仏教を学んでも人格者たり得ず、浅はかな自分に嫌気すらさしてしまいます。 私のしている仏教の学びとは、巡礼(四国や各観音霊場巡り)、市販の仏教書、座禅、説法会や座禅会の参加など4〜5年ほどです。 仏教では「慈悲の心(思いやり)」を大切にしますが、その慈悲を他者に向けることが、私にとって難題となっており、些細な事から人間関係のトラブル、軋轢が生じることがあります。 どうして慈悲の心を持つ事が出来ないのだろうと自分なりに考えてみますと、まず自分の人生に感じる圧倒的な不幸感です。 私の親は冷淡で、愛情深い親ではありませんでした。その事で何十年と悩みましたし(自身の存在意義も含めて)社会に出てもうつ病、非正規雇用を転々、一生懸命やったスポーツもうまくいかない等ありました。 しかし衣食住に不自由はないので贅沢な悩みかもしれません。 さらに一般社会においては会社でも、路上でもマナーやモラルのない人を目にする事が多く、そのような人達に差別意識を持ってしまっているのです。 そのため人に何かをしてやりたい精神があまり養われないようです。 説法会や座禅会で、お坊さんと触れ合う機会も増え(しかしいつも気軽に話せる訳ではない)そのような方々の話しや態度をみて見習いたいと思いつつ、すぐに忘れてしまいます。 私が「慈悲の心」を身に付けたいのは、自他の救いのためです(どちらかと言うと自分。←これがダメなんですかね?) どうしたら心から他者をいたわり、慈しむ事が出来るのでしょう? ご教授よろしくお願い致します。
おはようございます。仏教について 考えていました。 お釈迦様の教えが根本であり 原点でございますね 教え通り 生きたら人じゃなくなる気がします。 人間で生まれた以上 人として人らしく生きることが 素晴らしいとも思うのは よく 言われるのは タオルはタオルとして使われるのが幸せである とも言いますよね 仏教の教えは 人でなくなり 仏様のようにいきる 事ですよね 仏教の教えを 根本として 自分達が 幸せに 生きる知恵となればいいとは思うんですが 煩悩を断ち 執着を無くしとは 人じゃないよな、、、と思ってしまいます。 お坊様方は お釈迦様や空海様と同じ土俵におられますが お坊様として生きるいじょう 仏様を 目指されるのでしょうか?
私はよく神社やお寺で、その日のご縁を頂いた事にお礼を言って「遠く離れた家族がいつまでも元気で長生きできますように」と祈ったり「自分と神様と仏様とで良いご縁で結ばれますように」と祈ったりしています。 その御利益か、願い通りに電話で家族の元気な声を聞けたり、胸がワァーっと熱くなるような神仏との良いご縁を頂いたり、特に頼んでもいないのに「思わずニヤけるようなラッキーが舞い込んだり」しています。とっても嬉しいです。 ただ、それらはあくまで「私の幸せ」です。 そういった「利己的な事」とは別に「神仏の為の事」をしたいと思ってます。 というのも私はいつも神仏に「何か“してもらう”側」だと日々の参拝の中でフと気が付きまして、流石にそれだけでは申し訳が無い。 私も日々、世話になっている神様と仏様の為、私なりに「何か“してあげる”側に」なりたいと思い始めました。 …ってのは良いのですが、具体的に「神様や仏様はどうすれば嬉しがる」のかがサッパリ分かりません。 シンプルに参拝の際に「神様と仏様が幸せになりますように」と祈れば神仏は私の時と同様にその願いを叶え、神仏自身が幸せになって歓喜しますか…? …いや、そもそも“ヒト”ごときが“神仏”に対し「○○してあげる」って発想がおこがましかったりするの…?って考えが頭を過る事もあります。 あ、ちなみに最初に書いた「家族の健康」や「神仏とのご縁」といった利己的な参拝はこれからも続けるつもりです。 それと並行して神仏を喜ばせる為の事をしたいって事です。 私自身どれだけ利己的で欲深くなろうが思われようが別に構わないので自分と同じように大好きな神様と仏様にも胸が熱くなるような喜びや幸せを感じて欲しいです。 読みづらかったらすみません どっちか片一方だけに偏らない、私も神様も仏様もみんなでハッピーラッキーになれる道、或いは行動を知りたいです。 どうか回答よろしくお願いします。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
子供を亡くして 私も毎日をやっと過ごす日々ですが、 夫がとても参っていて心配です。 夫の仕事中に電話をかけると、 元気のない声で 泣いてばかりいる と言います。 私よりも 夫の方が毎日泣いていると思います。 あと、昨日 子供の姿が一瞬見えた気がした という話や、 夜 目が覚めたら黒い渦が見えて 窓の方に消えていったから 子供が来てくれるかと思って 起きて少し待っていたけど 戻って来てくれなかった、と聞かせてくれました。 俺 頭いっちゃってるのかな?と… 夫は会えるなら会いたいと思っているそうです。 でも話を聞いて、夫が心配です。 心を病んでしまうのではないかと… 私は自分はなんとか頑張って 家族を支えていきたいと思ってます。 お坊さんがたは どう思われますか…
仏教とは思考停止を勧めているのですか?
小さい頃、「三途の川を渡ると死んだ人の世界」(うろ覚え)という話を聞いて以来、「三途」という言葉自体が怖いものだと思っていました 曽祖母の法事などでも小さい頃は「三途の黒闇ひらくなり」という部分が近づくと耳を塞いで目を閉じていました 大人になって、黒闇を開くのだからむしろ怖くないのでは? と思うようになりました。でも気づくまでその部分のお経を唱えられずにいました それ以来大好きだった曽祖母に対して今までひどいことをしていたような感覚が消えずにいます。(友人が出版した本を「絶対買うね! 応援してる!」といいつつ実際は買わずにいたことに気づいたようなそんな感覚です) どうしたらいいでしょうか
苦しみが抜けた状態とは、どのような状態ですか?自分はまだ苦しんでいるのかいないのか、よく分かりません。
生まれ持ったスペックの中で、いかに楽しく幸せに暮らしていくのか工夫して生きていこうとするのが仏教というアドバイスをいただきました。 私は、楽しむ事が出来ません。 またプラスでそのスペックのせいで苦しみが永続的に続いています。 それらは例えば価値観に対する苦しみもあります 価値観や考えを変えれば変わる価値観もあります、今の大半のハスノハの悩みはそうでしょう。 でも今現在を苦しめさせる何かでもあります。障がいとか、やりたくない仕事とか、仕事のストレス、後悔やら、攻撃的な人間関係やら(イジメとか)、身体の苦痛やら。 それらって楽しむとか以前に一緒に共存したりできないし価値観を変えても苦しいのは苦しく仏教でどうこう出来るものじゃないと思うのです。 そんな中でこういう苦しみは仏教的にはどうやって対処してるのですか? 思考を変えて身体の苦痛やらも改善できるほどのものなのですか? 貴方は選択ミスで、今からお坊さんを辞めて毎日ウンコ食べる仕事をしてくださいと言われてそれを永続的に繰り返さなきゃならないです、ウンコを食べる仕事は辛いです。 ウンコを食べる仕事は性格上向いてないです。 周りのウンコ食べてる同僚達はフルシカトで人間関係でも苦しんでいます、ウンコ食べる仕事はかっこ悪いし恋人もできないです、ウンコ食べる仕事をしていることに後悔を感じています、全部選択ミスで起きた仕事選択です。詰将棋の状況です。 ウンコ食べる仕事をするのに無駄に学歴が高いですあんなに勉強したのに、高い学費払ったのに。 辞めたら履歴書が汚れて、下痢を食べる仕事しか残ってないです。 私はウンコを毎日食べています。 価値観を変えたら幸せなのですか? そんな中で毎日価値観を変えるだけで幸福になるんですか?
地元のお寺や築地本願寺で聞法に通っております。 いまいち腹落ちしない部分はあるのですが、帰敬式を受けるべきでしょうか。 親鸞聖人の教え自体は非常に合理的で分かりやすく、真宗門徒として生きていきたい気持ちはあります。 が、教義とはあまり関係ないところ(政治的主張)で教団に賛同しかねるところはまだあります。 義務ではないから帰敬式を受けなくても良いのでしょうけども…