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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

謗法厳戒について

法華経には 他の仏典を修業している人を謗ったりしてはいけない とあるのに 日蓮大聖人の教えとして 他宗を折伏するのに 謗法は地獄だ 他のは邪宗で地獄だ 幸せにはならない と 言われるのですが 納得できません。   法華経の結経の 懺悔滅罪のために 法華経を読むのと 日蓮大聖人の曼荼羅を一念三千の法門として 明鏡とするのは 理解できます。 他宗は 他宗のやり方で成仏はあるし 私は 私で 成仏のあり方はあるだろうけど 他は 地獄だ だなんて 思えません。 とりあえず 方法論としての方便として 考えるべきか 思っていますが 本気で 相手が 地獄だと 御題目をおくってきたら 恐いです。 法華経が 緒経の王だ というのと 他は地獄だ というのが 気になって 今の御寺の信仰をしていますが あきらめるか やりすごして 勤行するか 悩みます。 教義と違うことを考えてたら信仰にならないのかなぁと思いつつ 法華経と 日蓮大聖人のお人柄だけは 信じてます。 煩悩即菩提が 相手に 題目を唱えさせることになるのでしょうか。 置き換えが 仏意につながるの信仰なのかもしれません。と 今 書きながら思いました。😄 地獄は 生きてる今の私の気持ちにあり どのように 抜けるかなのですが 聞いてほしくて他宗に頼ってはいけないのに ハスノハに頼ってしまいました。 御寺の御僧侶に聞いても 謗法厳戒と 折伏しか 言われないのだろうと 回りの信徒さんたちののりで わかりませんでした。 御意見が 聞きたいです。よろしくお願いいたします。

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チベット仏教と涅槃、輪廻について

チベット仏教のゲルク派によるともののあり方には2つ有るそうです。 1.自性によって成立しているもの 2.何らかの効果を生み出す能力のあるものとしてのもの。言葉に仮設されたもの。 自性によって成立している物は世俗、涅槃の両方の世界において成立しないとするのがゲルク派の教義の特徴とされています。 また、事物の存在を全面的に否定している訳ではなく、言葉によって仮設された縁起によって成り立つ物として存在しているとされています。 釈尊は悟りを開かれた後も、救済の為に衆生の話に耳を傾け、粥を飲み、説法を説かれるため足を運ぶ といった事をされている事から、仮設された知識や善悪の価値観、法則、事物は涅槃の世界でも縁起に依るものとして存在する事が分かります。 もし事物が全面的に失うのであれば虚無主義と変わらない事になります。 しかし、それならば一つ重大な欠陥が残ります。 世俗の真理として仮設された輪廻転生はどうして解消されるのでしょうか? ゲルク派は言説有、つまり自性に基づかない物としての輪廻転生を前提にします。 それらは言説有として仮に存在する物であるから存在を認める事が出来るからです。 であればどうして釈尊は輪廻から脱したと言えるのでしょうか? もし輪廻転生を世俗の真理だと仮定するなら、釈尊は妄執を消しただけで、 縁起としては今もなお輪廻転生を繰り返していることになります。 縁起によって成り立つ事物は涅槃の世界でも残るからです。 では涅槃に入る事で仮設された真理も消えるとします。 それならば何故衆生を救う必要が有るのでしょうか? 自己が輪廻転生を繰り返す妄執が消えたのに、どうして他者が輪廻転生を繰り返すという妄執は残っているのでしょうか? 涅槃の世界に輪廻転生を繰り返す事物は存在しない筈です。 また、そもそも世俗真理としても否定されるという事は すなわち科学的認識、日常感覚としての「無い」と同じですから、我々も輪廻転生から脱する必要すら無くなります。 ここのサイトが「神父さんがこたえるQ&Aサイト」ではないのと同じように。 大上段から釈尊を否定する書き方をしましたが、私は今の自分の考えを必ず正しいとは思っていませんし お坊様方から間違いを指摘して下さる事を通じて学ばせて頂きたいと思っておりますので何卒宜しくお願いします。

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愛犬を殺してしまった。生まれ変わる時愛犬は罰を受ける?

私は今日薬で愛犬を殺してしまいました 今年の初めにガンがわかり手術がそこではできないとの事で、高速で三時間の大学病院へ行きました 癌がかなり進行してるし、老犬なので寿命と考えたほうが良いと言われましたが諦めきれずに頼むと抗がん剤をしてもらえる事になりました。 しかし結果は腫瘍の拡大、二度目のCTで気管チューブに血がついていてそれががん細胞なのでもう無理だと言われましたがそれでも諦めきれずに別の抗がん剤をしました。 どんどん立つのがやっとになって、車で往復6時間かかる為車に乗ってる体力がなくなってしまい無理させすぎたと反省し抗がん剤をストップしました 余命は一ヶ月と言われ薬のみ飲ませていました 肺腺癌なので最後は苦しむから苦しみだしたら安楽死をする予定でした。 夜中に苦しみだした時様に睡眠薬をもらいました。 飲んだら目を覚まさない子もいると言われました。 そして今日突然全く立てなくなり寝たまま排便排尿をし、一日苦しそうに息をしていました。が、触ってと顔を上げたり横に寝ている私を顔を見て撫でてと顔を上げてみたりしてくれていました 呼吸が苦しそうなのとたまにキャンと鳴いたり(あんな痛がった声を聞いたのは初めてでした) 朝から夜まで全然寝れてなかったのと、寝ると呼吸が楽そうになるので睡眠薬を飲ませようと思いました 1錠だと目を覚まさない可能性があると言われたので半錠飲ませました。 そしたら寝るだろうと思いましたが、それから10分後に意識がなくなり呼吸が遅くなり5分位ゆっくり大きく苦しそうに呼吸をし亡くなってしまいました。 意識はなかったと思います。    殺すつもりはなかったのに結局は私が殺してしまいました。 なんの疑いもなく薬をちゃんと飲んでくれました。 愛犬もまさかそのまま死ぬとは思ってなかったと思います 辛い治療を頑張ってくれたのに、治すのは無理だけど延命の為にと副作用に耐えてさせたのに、結局は私が寿命を短くしました。 薬を飲ませた事をとても後悔しています。  前、仏教では殺されると次生まれ変わる時に罰をうけると聞いたことがありますがそれは本当ですか? もしそれが本当なら!私が殺すつもりじゃなくても結果殺してしまったので愛犬は罰を受けるんですか? また24時間以内に火葬すると魂まで熱さを感じると聞きましたが本当ですか? よろしくおねがいします。

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結局仏教は人間が作ったマヤカシですよね?

ある仏教は、踊って念仏を唱えれば極楽往生ができるとかなんとか。 ある仏教を考えた人は苦行をするなといってるのに、ある人達は千日回峰◯をやり。 ある仏教を考えた人は欲を断念してこのクソ(この世界はクソです死も欲も病も苦しみも弱肉強食というルールもうえつけたクソな存在が作ったクソな世界)にまみれた世界から逃れようと考えた。 しかし今いる仏教の人達は、結婚もして死んだ人にお経を唱え、大金をもらい。 そして無知な人達は、それをありがたいと思い仏教をますます勘違いさせる。 仏教は政治に使われ、金儲けに使われ。 ナンジャコリャって感じ。 いや仏教道を貫いたとして、この世界の理をわかる仏教の偉い人はいないし、みんなを幸福にしてくれたり教えたりする仏教の人もいません。 例えば、説教みたいな形で君は考えが甘いとか言われてしまいます。その甘い考え(脳や思考回路の伝達物質やらなんやら)を作ったのはその仏様じゃね?と思うのです。 またじゃあ知能が低くて仏教すらわかんない存在に生まれた健常者って苦しむだけ?人間界に生まれたのに解脱できずに苦しむの?って感じです。 私は仏がもし存在するのなら私の全存在をかけて恨み通します。それだけ極悪非道な存在だと思います。 結局仏教って、一部の恵まれた人しか心理には辿り着けず、一部の生まれてきた親が仏教系の人が金儲けのために仏教を難しいことにして他人を説教して世の中のおかしな所をみてる若者に対して考えが甘いとかいって批判するのが仏教?

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感興のことば第26章13の内容について

仏典についての質問です。 正式に仏教の知識を学んだこともありません。 己の体験と仏典を照らし合わせて仏道に勤しんでいます。 浅学でお恥ずかしいのですがお答えいただければ幸いです。 感興のことば第26章 安らぎ(ニルヴァーナ)の13です。 僧侶であればだれでもが親しんでおられる仏典だと思われます。 「13 ①前にはあったが、そのときには無かった。②前には無かったが、そのときにはあった。③前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」の内容をお知らせください。 個人的な一考察ですが、 ①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、 A:前には「認識している私」という意識があったが、そのとき(=安らぎ)ではすでに「私」というものは無い。 B:前には「渇愛」があったが、そのとき(=安らぎ)では「渇愛」はない。 ②「前には無かったが、そのときにはあった。」とは、 前には「智慧」は無く「無明」であったが、そのとき(=安らぎ)には「智慧」があった。 ③「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とは、 前にも「魂」は無かったし、のちにも「魂」はないであろう。また今も「魂」など存在しない。  という勝手な考察ですが、お坊さんの体験された内容をご伝授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

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