他力本願の心構え
「他力本願」という言葉を、先日法事でのお説教で聞きました。とてもありがたい考え方だなと思ったのと同時に、少し腑に落ちないところもありました。
現代人のためか、「自分で努力して得た結果は自分の功績」という考え方が自分でも世間でも当たり前のようになっています。支えてくれる周りの環境や近しい人々の支えがあってこそという考えももちろんわかりますし、それがなければ絶対一人では何一つできないだろうと自分でも実感があるのですが、自分で何かをしたことも紛れもない事実なのに、それをまるでなかったことのようにしてしまうととてもがっかりすると思います。ひどい時は卑屈になることもあります。
他力本願という考え方をちょうどよく受け入れていくために、「自分自身」というものと「自分の行い」とをどのように折り合いを付けて考えていけばいいのでしょうか。心構えのようなものを伺いたく存じます。よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自分で努力して得た結果は自分の功績」は、
間違いではありません。
因(自分の努力)が報われて、
果(自分の功績)につながったわけですから。
では、
果たして自分の努力だけで成功したのでしょうか?
失敗したら自分の努力不足なのでしょうか?
「因」と「果」の間には、
「縁」という有形無形のいろいろな作用があったはずです。
周りのサポート、家族の下支え、幸運・不運、・・・
それらを「おかげさま」といって、
その見えないものに我々は感謝していました。
それらを当てにすることを意味しているのが、
現代の「他力本願」の使い方です。
本来の仏教用語としての使い方ではありません。
他力本願(仏さまが願われていること)は、
その人の成功ではありません。
成功しようが失敗しようが、
常に支えていることなのです。
出来ることを頑張って、
その結果がどう転ぼうがしっかり受け止められる構えが、
他力本願によって自分の中に生まれるのです。
他力とは仏様。
エルスさん、ご質問ありがとうございます。
どのようなお説教をお聴きになったのかなということを少し思うのですが、
私が気になるのは、あなたがお書きになったものに仏様が出てこないことです。
周りの環境や人々があなたを支えているというのは正しいのですが、
「他力」とは「他の力」ではなくて「仏の力」です。
自分がなにかをしたとかしなかったとかいうのは、そういう意味から
すると、大して問題ではないように思います。
阿弥陀様は衆生を救うとお誓いになられました。
そのお誓いはすべての人に向けられています。
人間が何かをした、とか、しなかったとかいうような小さなことではないのです。
清沢満之という方は「天命に安んじて人事を尽くす」と言われました。
自分ができることが人事です。
自分ができる限りのことをやればよい。
他力は「あなたを救う」というお誓いによって、あなたを下支えする仏様の
お力です。
他力本願の意味が違いますね
他力本願の意味が違いますね。
本来の意味は、阿弥陀様の力によって極楽浄土に連れて行って貰う、という意味です。
それ以外の意味はありません。
他力とは、阿弥陀様の力。
本願とは、全ての人々を救うという阿弥陀様の誓い。
一般の方々が間違った使い方をされるので、あなたも勘違いをしているのだと思います。
他力本願レボリューション
やぁ、こんばんは、翔玄だよ
「他力本願」ということにおいて自分でやったことが無意味かのように思う、というところに疑問と腑に落ちないモヤッとしたものを抱えてらっしゃいますねぇ
「自分の行い」があるのならばそれは「他力」やなくて「自力」やないかい!ビシィッ、とまぁそういう疑問も多分あるのかと思います
この辺は宗派の解釈などでも変わったりもしますが私から言わせていただくことはこちらです
あるところに勇者翔玄がいました
Lv1の翔玄は盗人、踊り子、遊び人をパーティーに加え魔王の城へ辿りつきました
戦闘が始まります、メンバーは1撃でやられていきます、瞬殺です
翔玄「こんなん勝てへんやん、無理、まぢ無理」
そこでゲームを操作しているプレイヤーはチート行為を行って味方の体力が減らないズルをします、結果魔王に勝てました、大して努力もしてないけど「他力本願」で不思議な力で勝ちました、ゲームクリア
次のシチュエーション、略しながらいきます
翔玄めっちゃ頑張ってLv100、これ以上上がらない
仲間もみんなLv100,明らかに強そうな職業ばかり、魔王と戦闘
奮戦するも勝てない、武器も防具もめっちゃ強いのに勝てない
翔玄「こんなん無理ですやん、俺めっちゃ頑張ったのに」
プレイヤーは同じくチート行為で<中略>「他力本願」
どちらも結局はプレイヤー(阿弥陀様の佛力)に助けられています、努力してる方もしてない方も
すべてひっくるめて「他力本願」なんです
分かりやすくゲームで例えると余計分かりにくくなったのでズバッと言います
「他力本願であるということは、ただ何もせずにお任せする」ということだけではなく、「やれることはやったけどそれでも駄目だった、だからお任せしよう」というものも含まれているのです
ですから自分の行いが否定されたり無かったものになったわけではなく、「それがあったから佛力による他力で今の状態に助けられた」となるわけです
そしてその際に培った自らの努力は自らに蓄積されます、見えるその場の結果として反映されていなかったとしても確実に当人の中にはあるのです
結果とは目に見える結果だけではありません、見えない己の中の結果だってあるのです
あえてパーティーに僧侶を出さなかったのは私が基本、回復無視で殴り続けるタイプのプレイスタイルだからです、かなり辛いですが
質問者からのお礼
藤堂尚夫様
お早いご回答ありがとうございます。
なるほど、そういう深い意味の教えだったのですね。無知で見当外れの質問をしてしまい、申し訳ありません。
仏様のお誓いを信じて、できることを頑張っていこうと思います。ありがとうございました。
聖章様
ご回答ありがとうございます。一般の、仏教をちゃんと学んでない者だと俗世の意味で捉えてしまうのですね。「自力」についても間違った用法がされているという話を聞いたことがあります。これを機会に、少し勉強してみようかと思います。ありがとうございました。
和田隆恩様
ご回答ありがとうございます。本文は反映されていないのですが、サイトのシステム不具合か何かでしょうか……。
和田隆恩様
改めてありがとうございます。「おかげさま」と「他力本願(現代語)」の関連についても、とてもよくわかりました。自分の行動の結果はそれはそれで受け止めるとして、支えてくださったすべての縁も忘れず、感謝する心がけをして行きたいと思います。そして、仏様のありがたさも常に心にとどめ置いておける人間になりたいと思います。ありがとうございました。
翔玄様
ご回答ありがとうございます。ゲームにたとえていただいたので、イメージしやすくなりました。私も基本、レベルを上げて物理で殴るタイプです。
どちらも他力、でもレベル1と100では確かに蓄積されたものに違いがある。そこへ至るまでの過程や努力なども確かにある。なかったことにはならないと言っていただけて、とても安心しました。世の中は結果主義、目に見えるものしか評価されず、結果を出せない限りは何もないのと同じと言われ続けるのが辛かったです。自分の中に今あるもの、これから身についていくものを信じて、そして仏様や他のすべてのものからのご縁を信じて、頑張っていきます。ありがとうございました。