仏教との出会いについて
随分前から好きな教師がいます。
もちろん付き合ってるなどとんでもなく、たまにお悩み相談をしてくれるような関係です。この前その人が仏教徒であることを知りました。元々少し仏教の考え方には興味があったので、色々とその話をしてもらったり、自分から本を読んでみたりしました。そうやっていくうちに段々仏教の考え方が好きになってきました。私がその先生が好きだったのは先生が仏教の人だったからなのか、とも思っていました。しかし冷静に考えていくと、私と仏教との縁がその先生ではなく違う人からもたらされたものだったらここまで仏教に熱中しなかったはずで、全ての始まりが恋愛という煩悩から始まっていると思うのです。
このような状況をお寺の方々はどう思われますか? 私は自分が間違っているような気がします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
何も思い悩むことはないですよ。むしろ自然なこと。
誰かを想い、その人を知ろうとすること。また、そこから仏教に触れる ご縁をいただいたということ。とても素敵なことだと思います。
何も思い悩むことはないですよ。むしろ、自然なことだと思います。
どちらの想いも、大事にしてほしいな〜(*^^*)
きっかけより、いまの自分の心をチェックしてください
お釈迦さまの従兄弟に、ナンダ王子という方がいました。
王子は出家したものの、国に残した妻が気にかかり修行に身が入りません。そこでお釈迦さまは神通力で彼を天界に連れて行き、目が覚めるばかりに麗しい天女を見せました。
「もし修行して悟ったら、彼女たちをお前にあげよう」
ナンダ王子は一転、喜び勇んで修行しました。他の僧侶に「天女ほしさに修行している」と噂されるのを避けひとりで没頭したのが功を奏し、すぐに悟りを得ました。もちろん悟って一切の苦しみから解脱したナンダ王子には、もう天女への欲など微塵もありません。お釈迦さまはそこまで全て見通して天女を見せたのだそうです。
仏教に出会うきっかけが何であれ、それはたいした問題ではありません。人間に生まれて仏教に出会うこと自体が、とても得がたく尊いことなんです。
仏教を学ぶ前に比べて、今のこはるさんはどう違いますか?楽に、軽くなっていますか?心は変化し続けています。いつもチェックしてみてください。
ぜひ「仏教に出会った甲斐があった」と思えるお幸せをつかまれますように。お祈りしております。
恋愛=煩悩なのではありません。
仏教イコール「欲は全ていけない」というわけではありません。
恋愛がいけないならばこの世に新しい生命も誕生しませんし、我々も生まれてこなかったはずです。
人を好きになることは罪ではありません。
ただ「好き」という感情もレベル、度合いが高まりすぎると相手のことを「わたくしする」「自分の思い通りにしよう」と し始めたりします。
こういう「ワタクシ化」「わたくしナイズド」としようとする心がイケないだけです。
また恋愛にもライトなものからヘビーものまで様々。
これも自分自身、もしくは相手の、その人に対する気持ち、思い入れの度合いによって様々です。仏教は苦しみを取り除き、苦しまない生き方です。
相手をどうこうしたい、とか相手を思うことで苦しくなるのであれば、ひょっとしたら自分が相手をワタクシナイズドしていないかどうかを見つめて見る必要はあると思います。
相手を自由にさせるのも愛。相手を愛するのも愛。
ただし恋愛感情には損得意識や、始まり終わりがつきものです。
その人との関係をサラリとしたものになさりたいのであれば、あえて冷静に心の距離をとることでしょう。
永続する人間感情は恋愛感情よりも友情、敬愛心です。
きっかけは何でもいい
牛にひかれて善光寺参り、という例えがあります。信心が無い女性が、たまたま牛を追いかけて行った場所がお寺で、その後それを縁として信心深くなったというお話です。きっかけはどうであれ、仏教に興味を持たれたのはいいことです。こはるさんは間違ってなんかいませんよ。
ただ、心配なのは「熱中」という言葉を使われていることです。仏教で「愛は煩悩」というのは、そこに自分の思い通りにしたいというわがままが入るからです。思い通りにならないと苦しくなり、結果、辛い思いをすることになります。本来、「慈悲」こそ目指すべきものですが、今、先生や仏教に熱中されている、こはるさんはいかがでしょうか。
もっとも、年上の男性に10代の女性が愛ではなく慈しみの気持ちを持つ、というのは少々現実味が無いと私自身も思います。どうぞ心の片隅にしまっておいていただければ、幸いです。
縁なんて何でもいいじゃん。
こはるさん。10代なのに仏教に興味を持って頂いてありがとうございます。こはるさんの好きになった教師の方も恐らく僧侶かお寺の徒弟さんなんですかね。10代(中高生かな?!)に解りやすく興味を惹く話をしたのでしょうね。私も見習いたい。是非とも具体的にどんなことを話しているか知りたいです。機会があったらご教授願いたいものです。
恋愛は煩悩かと10代のうちから考えずにどんどんしていきなさい。これは縁です。恋愛がうまくいくこともあるでしょう。フラれることもあるでしょう。それも縁なんですよ。失敗を恐れないで恋愛に励んで欲しいです。 それだけでなく、友情、学園祭、体育祭、習い事、部活、受験、就職活動、旅行など等、縁を作る機会はいくらでもあります。でも、相手を思い遣やる気持ちは持ってください。これが仏教徒の実践行です。
「愛語(あいご)」という仏教用語があります。説明が『修証義』というお経に示されております。
「愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語を施すなり、慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如(ゆうにょ)赤子(しゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵(おんてき)を降伏(ごうふく)し、君子を和睦(わぼく)ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり。」
今私が解りやすい意味を説明するとあなたの感性を損なうと思いますので、この訳や解説は一切しません。何度も読み、人生経験を重ねるうちに解ってくるものです。私もこの意味が理解できたのは1年ほど前ですわ。
あなたが仏教に興味を持ったことは非常に嬉しいことですので、私はあなたの恋愛を応援したいと思います。しかし、好きと嫌いは表裏一体ですので、教師が嫌いになったとき、フラれたときがあったとしても仏教を嫌いにならないで欲しい。
縁は人それぞれ
こはる様へ
皆様の回答にあるように
ご縁は人それぞれ。
素晴らしいことではありませんか。
すべてのご縁にはこはる様に意味があると思います。
ぜひこれからも仏教へ触れていただければ
仏教を伝えていく、僧侶の一人として大変光栄でございます。合掌
「恋愛=仏教的には悪いこと」ではありません
こはる様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
人を好きになる、愛情を持つと言うことは人間としての大切な感情であると存じます。
仏教では、好きという感情、愛情、片想い、恋愛を全て否定するわけではありません。
むしろ、密教においては、そのような感情を悟りへの力と変えようとすることさえもあります。下記はその一端の参考例となりますが、解釈には非常に慎重さを要しますので注意が必要となります。世間一般における認識・通説・真理(広義の世俗諦)などにおいて、その内容を捉えようとしますと、とんでもない間違い・過ちを起こすことがあるため、このことは十分に前提として踏まえておいて下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/理趣経
http://ja.wikipedia.org/wiki/愛染明王
さて、ひとまず少し密教のことは脇において、感情について仏教が問題とするのは、総じて簡単に言いますと「執着」・「実体視」というものとなります。恋愛と執着との関係は、これまで下記問いにても少しく述べさせて頂いております。
http://hasunoha.jp/questions/16
http://hasunoha.jp/questions/76
特に上記の76にて述べさせて頂いておりますが、その愛情を特定の誰かだけに留めるのではなくて、やがては全ての一切衆生たちへと差別なく平等に及ぼすことができるのかどうかが重要になると考えております。
他の回答の皆様もおっしゃられているように恋愛というご縁により仏教と出逢い、仏教に夢中になられたのは、誠にそれも一つの善き「ご仏縁」でございました。
もちろん、この度の恋愛が無事に成就し、更に仏教についても精進努力を積まれて、やがて仏道も成就なさられることとなれば尚更に善きこととなります。また、この度の恋愛が成就しなくとも、善きご仏縁を頂戴致したことに感謝を持ち、仏法を学び修しつつ、このことに報恩を持って過ごされていかれましたら、また善き恋愛のご縁も戴けるのではないかとも存じます。
この度は、とにかく、「恋愛=仏教的には悪いこと」ではありませんので、このことだけはご理解を頂けましたらと存じております。
こはる様のお幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌