浄土真宗大谷派寺院を菩提寺にしております。 昨日大叔父の2なのかに行きました。 導師様がではお経をまず読みまして…と流れの説明があり、阿弥陀経を読まれたので、一緒に読みました所、1重のお経の最後3行程を飛ばして、2重を読み始められました。 三首引きの様な物が阿弥陀経にもあるのでしょうか? 色々な方の阿弥陀経を聞いて来ましたが、こんな阿弥陀経は初めて聞いたので不思議で仕方ありません。 どうぞご教授お願い致します。
お寺やお仏壇などで読経をしているとき、読み間違えたりつっかえたりしてしまうことがあります。 そういう場合、そのまま最後まで読み続けるべきですか? それともはじめから読み直すべきでしょうか。 読経中に読み間違えた場合の正式な作法をお教えください。
読経中、息継ぎができなくて難しいです 息継ぎをせずにだんだん声がかすれてしまうか、息継ぎをして読経が途切れてしまいます よい方法はございますか ちなみに読んでいるのは如来寿量品と方便品です
時間が遅くなってしまいお経を読む頻度がここ最近減っていて、御題目は毎日あげています お経本は少し省略して読んでも大丈夫なのでしょうか? 後お経を読んでいると、 嫌なことを思い出してしまい集中できなくなることがあります どうしたらいいでしょうか? 宗派は日蓮宗です ご回答よろしくお願いします
不躾な質問をお許しください ある書籍を見て、自分も宝篋印陀羅尼の功徳にあずかり滅罪をしたいと思いました ですが自分のような在家の分際が口に唱えても大丈夫なのか心配です どうか諸大徳のご意見をお聞かせください、お願いします
またよろしくお願い致します。 私は今まで、告別式等で、御坊様があげる「お経」とは 亡くなった人が迷うことなく浄土に辿り着くようにと、 お祈りをしている感じに捉えていました。 しかし、本日、NHKのテレビを見ていたら、 「お経」とは亡くなった人のためではなく、 残された人のために、あげていると聞いて びっくりしました。 これは本当でしょうか? 私は既に終活を始めていますが、 後継者等がいない夫婦なため、最終的に一人になって 自分にとって残された人という存在が無い場合は、 「お経」は必要無いということでしょうか? もう一つ、疑問があります。 よく「亡くなった人の魂を慰める」という言い方を聞きますが、 亡くなった人の魂は、今、生きている人が慰めてあげなくては いけないほど、悲しんでいるということでしょうか? この「慰める」という言い方が気になります。 以前、テレビで見たのですが 夫が病気で激しく苦しみながら息を引きとった時、 奥様が泣きながら「あなた、やっと楽になれて良かったね」と 声をかけたそうです。この気持ち、よく分かります。 たとえ病気で亡くなった人も、痛み・苦しみを持った肉体から 解放され、浄土で安らかにニコニコしていてほしいです。 だから「慰める」という言い方は、浄土でも苦しんでいるみたいで、 違和感があります。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
前回質問への回答追加で、新規で問答立てを、、とのことでしたので質問送らせて頂きます。(別のお坊様がたも、ご意見やコメントなどありましたら、是非お待ちしております) 経典に書かれているからという根拠で、 「確かなる仏縁や功徳が、過去世、現世のどこかにおいてあったのであれば、その後の輪廻転生の中において、多少の紆余曲折があっても、必ずやその仏縁、功徳による果報により、仏の道を外れずに、善き流れを進められる場合があり得る」ということを信じておられるならば、 同じように、経典に書かれているという理由で、世尊が説示なさったという、その具体的方法も信じて実行なさったら良いのでは?と思ってしまいました。 私はその一切悪趣清浄タントラという経典を読んだことがないので、その具体的方法というのが、どんな内容なのか、実行可能か不可能かも分かりませんが、 たとえば他にも、経典に載っていて実行可能なものでいうと、十一面観音や文殊菩薩など、ご真言を○遍唱えれば悪趣へは行かない、などとされる存在があったり、陀羅尼でも、悪趣を回避できる陀羅尼が載っていたりしますよね。 地獄に落ちてでも他を救ったり慈悲や布施で功徳を積めるかも!というお考えには反対しませんし、凄いなぁ、どうかご武運を・・・!という気持ちで拝見しておりますが。 単純に、回避方法もご存知ならば、回避なさったら良いのでは?と思ってしまいました。 経典Aに載ってある内容aを信じるならば、同じ経典A内の内容bも信じるのが筋通っているのでは?と。
私は家で毎日般若心経を唱えているのですが、休日になると経本に書かれているお経を全てではないですが、唱えるようにしてます。 順番は合唱礼拝→懺悔→三帰→三竟→十善戒→発菩提心→三昧耶戒→開経偈→百字偈→観音経偈→舎利礼文→般若心経→本尊真言(大日如来様、弁財天様、大黒天様)→十三仏真言→光明真言→御宝号→祈願文→回向と唱えています。 仏前勤行次第に百字偈と観音経偈を追加しているのですが、この唱え方はやはり間違ってますか? あとお経を唱える際に心掛けるアドバイス等あれば教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
ご住職はお経の後、必ず「せしゅふしょおおー」と言われます。 「施主不詳」の意味なのでしょうが、施主は目の前にいる私だと思いますが 何故でしょうか。これまで何十年もずっと私がお墓、仏壇のお世話をさせていただいています。 その宗派ではこのように言うのでしょうか。それとも何かの社会的差別でも存在するのでしょうか。 お坊様が、施主や、ご先祖様が不安に思うような接し方をしてよいものでしょうか。
1.十三仏真言を唱える時に印は結んだ方がよいのでしょうか? 2.僧侶でもない人間が印を結んでも大丈夫なんですか? 教えてください。
毎朝、ご先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしたくお経を唱えています。 実家では祖父が毎朝般若心経をお唱えしているので、私も馴染みのある般若心経を唱えています。 そのときの心待ちについてお尋ねします。 YouTubeでお坊さんがお唱えする動画にあわせて行っているのですが、正直文字を追って口を動かしているだけでいっぱいいっぱいになってしまい、感謝の気持ちをこめることができません。こんな状態でも感謝のお気持ちはご先祖様に伝わるのでしょうか。 般若心経の内容について勉強したりしていますが、まだまだ暗記することができなくて。気持ちを込めたくてもお唱えでいっぱいいっぱいになってしまって、できない自分にちょっと悲しくなります。
先日祖父の三十三回忌の法要に行きました。 私が生まれる前に亡くなっており、一度も会ったことがなく父の話の中でしか知らない祖父のはずなのですが、何故かお坊さんのお経を聞いている時自然と涙が止まりませんでした。 父が幼くして祖父と死に別れた苦しみや、祖父の死後1人で子供を育てた祖母、そして今それらを乗り越えて私を育ててくれている感謝や、祖父がどれほどこの病気で苦しんだのだろうかという思いなど様々な気持ちが込み上げてきて焼香するまで涙が止まりませんでした。 父には「会ったことないのにね」と言われ、自分でも本当にその通りだと思いました。 私はあの時何故涙が出たのでしょうか。 自分でも分からず悩み抜いたのですが、お坊さんにお聞きするのが1番かと思い質問させて頂きました。 乱筆失礼致しました。
日蓮宗のお坊さんにお聞きしたいです。 在家信者が日蓮宗のお寺で読経するときの作法を教えてください。また、おすすめの品(ぼん)をおしえてください ご教示いただけますと幸いです。
昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。
お世話になります。 参拝で読経する時、例えお経を暗記していても経本を見て読経することとされていますが、手に経本を持つ場合お念珠はどのように持てばよろしいのでしょうか? 108の主玉のある真言宗用のお念珠を使用しています。 また、お軸に御朱印をお願いする場合は巻いたままお渡しすれば良いのでしょうか? よろしくお願い致します。
曹洞宗です。先日父が亡くなり初めて仏壇購入し檀家になりと、分からない事だらけで。四十九日は今月の30日です。お寺から修証義の経本もらいましたが、基本どこを読んでもいいですよと教わりましたが困っています。朝夕のおつとめ、朝はこれとこれと、夕はこれとこれを読んでおけば無難ですよみたいなのを教えて欲しいのです。そりゃ全部読めばいい事なのかもですが時間的に長くて20分くらいでおさまれば。但し法要の時などはしっかり時間を作りたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
1.仏教では如来、菩薩、明王、天部とありますが、天部様の役目は何なのでしょうか? 2.天部様は仏様ではなく神様と聞いたのですが、般若心経を唱える時は最初の『仏説』は読まなくていいのでしょうか? 3.神仏習合では大黒天様=大国主様となりますが、大黒天様は大黒天様!大国主様は大国主様!と分けるのではなく、大黒天様=大国主様と考えて問題ないのでしょうか? 私は神棚に伊勢神宮のお札、嚴島神社のお札、大黒天様を祀っているのですが、神様として般若心経を唱える時、『仏説』はつけていません。 詣り方は合っているのでしょうか? 少し前までは大黒天様は天部様だから仏様になると思っており、頭に『仏説』をつけ伊勢神宮(天照大御神様)、嚴島神社(宗像三女神様)とは分けて般若心経を唱えていました。 今ではどれが正しいのか分からず少々混乱しております・・・。 教えて頂けたは幸いです。
仕事柄毎日お経を聞いています。 色々な宗派のお経がありますが、どれひとつとして意味(内容)が判りません。 お経は誰に対して唱えているものなのでしょうか。 残された人に対してなら、誰一人として意味を理解していないと思います。 故人に対してであれば、個人は意味を理解できているのでしょうか。 毎日聞いているせいか、唱えるのに意味があるのかという不信感が芽生えてきました。 お経を唱える意味を教えて頂ければと存じます。 宜しくお願いします。
今、中村元先生の「原始仏典」を読んでいます。そこで色々な経典からお話を引っ張ってきて本を書いているので面白いしわかりやすいです。でも、この本を読み終わったらもうちょっと踏み込んで経典を読んでみたいとおもうようになりました。 そこで、皆様のおすすめの経典・これだけは読んでおいた方がいい経典などを教えてください! 私が読んだことがあるのは般若心経だけです。よろしくお願い致します🙇🏻♂️