初めて質問させていただきます。 なぜ、耳でお経を聞くのでしょうか?文字ではなく、声に出して読まれるのは何故ですか。 それらはどんな効果があるのでしょうか? お経を読んでいただく際の心構えを教えてください。 葬式や法事など…お経を耳に入れる事は、私にとって非日常の事になります。 一つ一つの言葉の意味はわかるようでわかりません、漠然と「最後は仏様のところに行くんだろうな…」と思いながら、葬式の時は故人に思いを馳せ、時には眠気と戦ったりもしてしまいます。 一昨年、祖母が亡くなりました。祖母の葬式の際、父親は最前列で船を漕いでうとうとしていました。 父親は喪主ではありませんでしたが、祖母の一番近いところに住んでいたので、車を出したり通夜でご遺体と過ごしたり、とにかく疲れていたのだと思います。私は、父がお経を聞いている間に休息が取れているなら、安らかに睡眠が取れているなら十分だと微笑ましくなりました。 しかしそれは私の考えであり、実際には父は「早く終わってくれ」と思っているのかもしれません。 ありがたいお言葉を、故人の前で私たちに聞かせてくださっているのは理解ができます。批判の気持ちは全くありません。 聞く人間により、状況によりお経を聞く気持ちがばらばらになっているのも事実だと思います。(もちろん一人一人が違う視点を持った人間なので当然だと思います。) 長い間、この儀式が続いているということはやはり効果があるからで、一言で済むかもしれない(とても失礼なことを言っているのは承知ですが)ことを、長々とお伝えいただくのはやはり意味があってのことなのだと思います。 タイトルに戻るのですが、どのような気持ちでお経を耳に入れたらいいのでしょうか? 正解というのはあるのでしょうか? ・故人のこと、生死について考えさせられる ・安らげる、眠くなる ・だるいと感じる人もいる ・時間的な拘束で、現世から引き離す(?) ・パワーを感じる ・意味を理解し、有り難がる 全てが正解ならば、それはそれで納得します。 母親が先日難病を診断され、近々お葬式をやるかもしれません。こう言っては悪いのかもしれませんが、唯一無二の葬式ですので、後悔のないようにのぞみたいです。 面倒な疑問かもしれません、失礼だったら申し訳ないです。まとまりのない疑問ですが、ご回答頂けますと幸いです。
法華経に魅了され、法華経を読み続けていますが、一つだけ気になる点があります。 譬喩品の後半には、法華経を誹謗した者は来世において身体に障がいをもつことや、病人になり死に至ることや皮膚病になることなどが書かれています。 実際にこのような状況にあり苦しんでいる方々がいる中で、法華経のこの部分を理解することがとても難しく、苦しいです。
色々思い詰めて、開眼供養された聖天様の香合仏をお迎えする事になりました。 キャンセルにも結構なお金もかかりますし、これもご縁だ、と小さいお仏壇等も手配する所です。 所が、私はただのなんの縁もない一般人ですので、香合仏を普段はお仏壇に入れて祈願も含めてお祈りしようと思っていますが、エッポウにならない範囲での正しい拝み方や時に祈念したい時はどの様に向き合えば良いのか解りません… ご真言を唱えて感謝などの気持ちで居る程度なら大丈夫なのでしょうか? またその場合、正しいご真言が解りません… 私の安易な気持ちでのお迎えが良くなかったのは反省しておりますが、これもご縁と思い、活かしていきたいと思っています。 また、スペースの関係で横並びで大日如来様と愛染明王様の香合仏様もお祀りして、日にご真言を上げ、その時の気持ちで神様を持ち出すのは失礼に当たらないでしょうか?? お供え物も毎日はキツイので、腐らない様にお水のペットボトルとお酒の小さなカップ、時にお菓子(個装)を1日と15日にお供えしたいと思っています。 トンデモなおまつりのしかただと怒られるのは怖いので、こうした方が良い、や問題がない範囲のご真言などを教えて頂けたら幸いです また、専門的に教えて頂ける場合は、圧に凄く弱いので圧の強くない方の元で謝礼を払い、ゆっくり学んで行きたいとも思いますので、名乗りをあげて頂けたら幸いです それでは一所懸命何とかしようと足掻いているので、ご慈悲の中で助けていただけたら幸いです よろしくお願いします
亡くなった実父が元気だった頃に 何気なく葬儀の話をした際に、生家と同じ宗派での葬儀を希望していることを知りました。 数年後の父の急逝時に在住地近くの当該宗派の寺院に問合せましたが、 檀家の葬儀のみ受付との事で叶わず、 喪主の兄の知人である他宗派のご住職に葬儀を引き受けて頂きました。 無事に葬儀は済み、現在も法事でお世話になっており感謝しています。 ですが、私としては父が希望していた生家で慣れ親しんでいたお経を一度でもという思いが消えません。 私が個人的に読経をその宗派の方にお願いすることは失礼でしょうか? 私の在住地にはその宗派の寺院が 幾つかあること、 実家とは離れているので 兄やお世話になっているご住職の 耳に入ることはないので 実現できないものだろうかと 考えております。 また、檀家でなく一見の人間からの 依頼で読経をお願いする事は可能なのかも併せて教えて頂けると幸いです。 仏教用語その他の知識がないので、 間違い失礼等ございましたら申し訳ありません。 どうぞ宜しくお願い致します。
小さい頃から、お坊さんが読経される時、どうしてあんなに大きなお声で朗々と続けて出来るのだろう?と不思議に思っています。 読経中のお姿を後ろから拝見すると腰の辺りがブワッと膨らみます。そして長く唱えられます。 一瞬でグワッと息を吸われるのですか? どのようにしたら息を吸う時に前も後ろも膨らむのですか? 一緒に唱えていても私は息が続かずに苦しくなりますし、お腹は前しか膨らみません。 お坊さんの真似がしたいです…(-_-;) ごめんなさい、とりとめのないことを…(-_-;)
お世話になります。真宗大谷派の嘆仏偈、三誓偈などの偈文を読む際、息継ぎの箇所がいまいちわかりません。何行目で区切るとかありましたら、ご教示いただきたいと思います。正信偈草四句目下だと、4行一息でとか言われるようですが。よろしくお願いいたします。
仏教に関心があり、真言宗の勤行集を買って朝夕読経するようになりました。 今大体2ヶ月目となります。 読経していると最初はとても気持ちよく感じていましたのですが、最近は読経中、後に関わらずやけにイライラしたり、悪い事を考えてしまって戸惑っています。 これは読み方が悪いのでしょうか? 回数は唱えている方ですが、特別な事はしていないつもりです。 それとも潜在意識の汚れが浮かび上がっているのか? 自分には判断ができません。 僧侶の方でも同じような経験をされた方いらっしゃいますか? 何卒アドバイスよろしくお願い致します。
不安なのでご質問させてください。 謗法に関してのご質問です・・。 意味としましては、仏法を謗(そし)り悪口を言うことですが・・・・、 やってはいけない事として、一応過去に質問サイト等で、こういう事をしたらダメという事は聞きました。 正しい佛法を誹謗すること・『法華(法華経)誹謗、並びに法華経を広める者を迫害、謗る事を言う。』事など他にも・・様々おっしゃられてる方々の書いてらっしゃる内容(と言えばいいのでしょうか?)は違います・・。 やってはいけない事だというのは質問サイト等で質問した際に様々ご意見いただいて、把握はしております・・が とても不安なのです・・。謗法はしちゃだめだと自分に言い聞かせる毎日でとても不安なのです。 なので、少しでもこの不安を落ち着かせたいので・・何かこれだけはきちんと理解しておいた方がいい事などありましたら教えてください・・。
数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。 ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。 そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。 般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。 生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。 「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。 即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。 従って仏教の救いは死後にあることになります。 しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。 それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。 そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略
いつもお世話になっております。こちらでご相談を重ねるうちに、 戦い疲れた私は他人への無闇な疑念という危険な武器を捨てることに しました。疑ってしまう自分、改善していくべき言動や行動ととことん 向き合って、まさに修行をしていこうと思いました。 そこで、新たな問題が生じました。自分が汚らわしくて仕方がない のです。空気が読めない自分、人との適切な距離感がわからない自分、 列挙に暇がないほどです。 通っている近所のお寺のご住職にそれを告げ、メモを握り締めご助言 を仰ぐと、 「僕の感想を述べるけど、それはカウンセラーさんに言ったほうが いいと思う。僕が言うと越教になっちゃうな」 とのことでした。 数日後のカウンセリングで相談する予定ではいますが、できない 自分が汚らわしくて、恥ずかしくて、やはり人の目が気になります。 そこで私はカウンセリングや日々の訓練と並行し、ヒントを仏典に 求めました。通販等であらゆる経典を購入し、読もうと思います。 カウンセリングや訓練のない日はお経で勉強しようと思ったのです。 しかしそこで、 「お経を読んで解決するのは、悩んではいるけれど、医者にかかるまで ではない健常な方なのでは?」 と考えました。 私は浄土宗の檀信徒ですが、死後思想的な要素の強い三部経だけでは なく(個人的な考えですが、一時期阿弥陀経ばかり読んでいたら希死念慮 が発生して自傷一歩手前まで行きました)他宗派の…例えば理趣経、 法華経などもうまく生きるヒントを得るため読みたいと思っています。 こんな時、今は亡き親たちがしっかりしていればとつくづく思います。 思えば私が発心したきっかけは、「家庭が崩壊しているので、人として しっかり生きるヒントを仏教に求めたから」でした。 仲良くしている近所の奥さんには、 「私たちはそんなの読まなくても生きてる」 と言われましたが、それは親御さんがしっかりしているからでしょう。 (自分でも「うちの親はいいよ!あんたんとこ、酷いもんな(笑)」と 言っていました。悪意はなく、いじられているだけです) 経典を読む際の注意点、私は経典を読むのに適するのか、お言葉を 頂きたく存じます。よろしくお願い致します。
灌頂を受けていないと真言を唱えてはいけないと聞きましたが、般若心経や毘沙門天王功徳経にある真言も唱えてはいけないのでしょうか? 唱えてはいけない場合は真言の部分だけ飛ばして読めば良いのでしょうか?それとも読まない方が良いのでしょうか? また、この様な場合唱えても良い真言などはありますか?
僕は般若心経を家で唱えているのですが、いつもなら普通に読めるのですがたまにお前取りつかれたんかって言うくらい笑ってしまう時があるのですが、これはなんなんでしょう? 物凄く勝手な解釈で、ご先祖さまや神様仏様が喜んで笑ってはるから釣られて自然に笑ってんじゃないかと思うのですが、しょーじきな所、わかんないなぁ…と。 抑揚がツボにはまったとか、聞いたことの無いお経で面白かったとかじゃなくて、般若心経の上に何が面白くて笑ってんのか自分でもよくわからんのですよね。 あなたがおかしいだけですよ〜って言うのであれば全然構いません!皆様方のご意見が聞きたいです。 質問というか、意見が聞きたいってだけなので暇な時だったり他の真剣な悩みを抱えてる方の質問の後で全然大丈夫ですのでよろしくお願いします!
先日の質問へのご回答、ありがとうございました。 以降、毎日祖母に手を合わせ、そのときの気持ちを声に出して伝えたり、 南無大師遍照金剛と唱えたりしております。 ただ、ひとつ疑問に感じたのですが、 手を合わせる場所、お経を唱える場所は、祭壇(後飾り)の前でなくてもよいのでしょうか。 祖母の自宅に祭壇(後飾り)が設けられていて、 私の自宅からはやや距離があり、仕事と子育てがある中、毎日お参りするのは難しいです。 (そうやって理由をつけて 生前の祖母にあまり会いに行かなかったんだろうと 自分を責めてしまいます) いまは、自宅で家事の合間に台所で、仕事が終わった後に車の中で、寝る前に布団に入って、などのタイミングで 手を合わせて話しかけたり、お経を唱えたりしていますが、 こんなやり方で祖母に伝わっているでしょうか。 四十九日までは近くにいてくれると言いますが、 四十九日よりあとも、今のようなお祈りの仕方でよいでしょうか。 大好きだということ、祖母にあちらでも幸せになってもらいたいと思っていること、 祖母に必ず伝わってほしいのです。 ーー 追伸 先日の質問へ回答いただきまして本当にありがとうございました。 その後、非常に少しずつではありますが、落ち着いてきております。 初七日の後、祖母が夢に出てきて、にこにこと橋を渡っていました。 そのときはまだ悲しかったのですが、 ここ数日は、無事あちらに向かっているのだと、少し安心した気持ちです。 こちらでいただいたお言葉を胸に、僅かずつではありますが、 祖母を送り出す、供養する気持ちが芽生えてきており、感謝しております。 ありがとうございます。
私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。 しかし他の観音経の経本を見ると読み方が 『ねんぴかんのんりき』となっています。 『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか? 『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか? 私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。
お経を読む蛇腹の本は宗派のお寺でお金をお渡ししたらいただけるのでしょうか。 最近はネットで検索すると通販であったりしますが、私の宗派(西山浄土宗)が見当たりません。近くのお寺と連絡が取れず、遠方ですが、総本山に問い合わせをしてます。しかし、連絡が取れておりません。失礼をしてしまったのでしょうか。 余談でお経本が必要になっている理由ですが、家族が亡くなり、勤行を曽祖父などがしておりましたが、非常に古くめくるだけで破れてしまうためです。
いつもお世話になっております。 我が家の仏壇は浄土宗のものです。上段に阿弥陀様、法然上人、 善導大師をお祀りし、中段には祈願寺(真言宗智山派)のお護摩札を お祀りしています。また、経典も、浄土宗信徒日常勤行式と、祈願寺の 護摩経典が手元にあります。 新型コロナウイルスが流行する前は訓練の休みの日に祈願寺まで赴き お護摩に参列していたのですが、現在は入堂規制が敷かれており お護摩に参列することはほぼ不可能です。 そこで自宅の仏壇で護摩経典を読みたいのですが、その際のお作法 や読み方等はどうすればいいのでしょうか? 経典の順序を改変したり、たとえば開経偈の後に四誓偈を上げ、 その後護摩経典を上げて、浄土宗の経典の終わりのほうを続けるなど… ご教授のほう、よろしくお願い申し上げます。
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。
家に、神棚をお祀り(中にお札を祀り)しようかなと考えていまして、色々調べてみると 作法が多くて無理そうだしきちんとお世話的なことしないと祟られそうなんですが、最低でも何をすれば大丈夫なんでしょうか? 家では仏様(開眼した仏像、祈祷してもらったお札)に仏教のお経を毎日上げさしてもらっているのですが、神道の祝詞などはお経で済まさせてもらってもよろしいのでしょうか? お供物は、出来るだけ毎日上げことは努力したいのですが、たまに用事が忙しくてできない場合は、「すみません、今日は、出来なくてすみません」とお唱えしたら大丈夫でしょうか? (今お祀りしていただいてる仏様にはそうしています) こんなこと言って結構不安に思うなら やめた方がいいと思うかも知れませんが、それでも僕は神棚もお祀りさしていただきたいです と勝手ながら考えてます。神様は、(天照大御神様は)どんなご利益あるのか守護していただけるのか?教えてください!あと自分をもうひとおししてください!背中を押してください! 本当に、不安です、、、ですけどきちんとお祀りさしていただきたいです! 長くなりましたが御返答の方、どうぞ宜しくお願いします。
今度身内の三回忌があります。 ですが、コロナ禍ということもあり 家族だけで手を合わせ、お坊さんにも来ていただかないことにするそうです。 自分たちでお経をとなえるとすれば、どのお経をよむのがよいでしょうか?
以前ネットの動画でお坊さんが「お経はラップだ」と言っていましたが、お経というのは仰々しく読むのではなくテンポよくリズムに乗って読むものなのでしょうか?