いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
いつもお世話になっております、ハルソラと申します。 先日、「法華経」の原文訳解釈本を読みました。 難解とされる法華経。成立の歴史的背景や細かな用語、意味などはとりあえずさて置き、法華経の最も大切な自身の人生に活かすべき教えとは下記だと解釈しました。 『私にとって、私自身は尊く大切である。同じように他者にとっての自分自身も尊く大切なのだ。 だから他者と接する時、尊く大切な自分と接するように相手の身になって考え、思いやりで接することである。(慈悲の心) その事で無理解、差別、偏見を超えてすべてのものが調和し、平和で穏やかになる。』 私はこのように理解した時、実に心穏やかになって、より良く生きるための智慧の核心に迫ったと思いました。 この解釈、理解はお坊さま方からしたら如何でしょうか? ご回答よろしくお願い致します。
セラピストたちに読経をするようにすすめられます。 私自身も言われたので読経しますが続きません。 読経といっても「般若心経」くらいです 一時期は般若心経とお経を一巻あげていた時期もあります。 読経を薦められる理由は「霊性を高めて欲しい」という理由です。 でも、続けられません。 あげれば心も軽くなり 朗らかに毎日を笑顔と愛に満たされた心地ですごせるのです。 それらを自分自身で感じてきました。 読経という専門的な日々のおつとめに励んでおられるお坊様にお聞きしたいのですが、 やはりお経をあげることを私にすすめられますか? セラピストたちが一方的にすすめたとしても、 私は納得できる回答をうけとれていないのです。 こうして、読経したくない気持ちをここに書いているのも、 たぶん納得できない一つのあがきだと思います。 毎日を明るく過ごせたならとても幸せだと思います。 そうなりたいと思うのにできない自分が悲しいです。 どうして、私はこの世に生まれてきたのでしょう。 そんなふうに、自分自身の存在すら認められなくなってしまいます。 お坊様たちはまいにちのおつとめで何を得られていますか? 多く質問し恐れ入ります。
法華経を読みました。 法華経を求めないもの 他の経を求めるものには 説くなって 書いてありました。悪人と善人という表現でしたが 日蓮聖人は 摂受では 仏国土をつくることができないから ご自分が 謗法を犯して 折伏という法門を 開き 法華経を弘めようとしたことが やっと わかりました。 佐渡流罪で 門弟のための御心配から ご自分を 日本一の悪者だ とか 来世では 念仏者も弟子にするとか 反省されたこともありました。 日蓮聖人を信仰している方は 他宗が 謗法だからっていうから わかりづらかったです。 あとから 破折というスタイルになって 他宗を謗法としていかれたのかもしれないけど 初心が 大事ですね。 お不動さんの 勤行には 破戒者は持戒 けちだった人は 布施をしなさい ってあると思います。 どこかに きちんと 所属して 持戒と 布施をしていけばいい と思いました。 日蓮聖人の信仰をしている人に 大謗法と言われて お題目を おくっていますよ とか 罰が当たる とか 言われると 怖いです。 大丈夫でしょうか?
浄土宗の勤行をしています。 法華経は すべての人が成仏するとあるのに なぜ 説く相手を 悪人には説いてはいけない 善人に説きなさい としているのか と思いました。 法華経は 一切成仏を説く経だから 誰でも差別なく悪人も善人も救われると 説かれているのかと思っていたのに と 愕然としたことがあります。 そのうえ 法華経を謗ったり 捨てたりすると 口や体が 臭くなったり 病気になったり 障害をもつことになったり と 書かれているし そういう人を救わなくては 仏国土にならないと 阿弥陀様の救いに 法然さんは 道を見いだしたのか と 思いました。 日蓮聖人が 法華経にそって 法然さんを 悪僧としたのは 残念です。 他のお坊さんたちも 目の前の人を救いながら 日本を仏国土にしようと 布教されていたのに 題目も 念仏も 一緒だ という人は 嘘だと 思います。 悪い人でなく 善い人の項目の人になるようにするたって 難しいし そうでない人のほうが 多いし 難しいから 念仏して救われる道を歩めるようにしなさい ということかな と 思いました。 また そうならないように そこからでれるように 題目を唱え 救われる道をいきなさい とも いえるのか とも 思いました。 また 行ったり来たり です。 とにかく がんばります
ご質問させて頂いきますハルソラと申します。 私は3年以上に渡り、お寺を参拝した際には読経しています。 お経は開経偈から始まり、懺悔文、三帰、般若心経、御本尊真言などです。 しかし中々、お坊さんのように上手く読経する事が出来ません。 声の通りもよくありませんし、息継ぎ、唾を飲み込む時に読経が不自然に途切れてしまいます。 上手く読経するよりも内容を理解し、心掛けが大切とおっしゃられるかもしれませんが、その点はふまえた上で、お坊さんのように読経する方法、コツをご教授下さい。 よろしくお願い致します。
先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です) 阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。 阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。 しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている) この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。 すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。 私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。
父親の13回忌が来月中旬ですが、知人よりお経は上げたほうがいいという助言をもらいました。 宗派がハッキリしないのですが、納骨堂に収めてあるお寺は真言宗のようです。 最悪、テープでそのお経を流すだけでもしたほうが良いということなのですが、真言宗でもたくさんお経の種類があるようです。 13回忌に適したお経を教えてくただければ幸いです。
般若心経のCDを持っています。 般若心経の意味はインターネットで数回見たことはありますが、深くは分からないですし読み上げる事も出来ません。 ですが、お経独特のテンポと低い声が重なる感じは聞いていてとても心地がいいので何でも無い時でも聴きたいなーと思うことがあります。 でもそんな事をしても大丈夫なのでしょうか?バチが当たったりしないでしょうか? こんな質問で申し訳ありませんが、お教え頂ければと思います。よろしくお願いします。
棒読みなのですか?怖いイメージしかつきません 永平寺すら戦前は違うイメージで近所の子供と堂中で鬼ごっこしていたとテレビでやってました
ある新興宗教の方に 南無妙法蓮華経の題目 と 般若心経なんて一緒に唱えては絶対ダメと言われました。 もちろん、南無阿弥陀仏なんてもってのほかと言われました。 その方は 南無妙法蓮華経の題目以外唱えるなと強く言われました。 私の家は曹洞宗で 私は南無釈迦牟尼仏と唱え お経も本で勉強して少し唱えてます。 母は、昔ぶつしょごねんに入っていて 南無妙法蓮華経だけ唱えています。 どの新興宗教の方に言われたのかお分かりでしょうが 一緒に唱えててはいけないお経などあるのですか? 曹洞宗の道元の悪口まで言ってました。 とにかく批判されまくりました。
緊張したり、イライラしたり、人に怒ったり、自分でもどうしようもない感情に振り回されるのが自分でとても嫌なのです。 心が落ち着く、優しい気持ちになるお経を教えて頂けないでしょうか。 勝手ですみません。 母方は浄土宗で法事はきちんとやっていますが教義はあまり分かりません。 「南無阿弥陀仏」では短すぎて心が込められない気がして、もう少し、長いお経の方が心が落ち着くような気がします。 (般若心境は、知恵の話なので、特に気持ちが落ち着くわけじゃないような気もするので) パニックになりそうなときに、無意識に頭の中で唱えられるような、落ち着いて感謝の気持ちまで生まれるような、そんなお経を身に着けたいと思います。 「なんて勝手な言い分」と言われそうですが、教えて頂いたお経を毎日唱えて暗記して、自分の感情のコントロールできるようになりたいのです。よろしくお願いいたします。
初めて質問致します。 永平寺の昼のお勤めで聴いた読経の素晴らしさに鳥肌が立ちました。 初めて聴いたお経で陀羅尼のようですが、名前が判りません。 教えていただけないでしょうか? 日本語の意味も知りたいのですが、掲載のある本やサイトがあればご紹介頂ければ幸いです。 よろしくお願い申し上げます。
自殺した彼の供養のために、お経をあげたいと思っています。自分の部屋で彼の写真の前で。 自殺だったのできっとあの世で辛い思いをするのではないかと心配しています。彼が穏やかに過ごして行けるように祈りたいのです。 49日までは続けたいと思っていますが、どんなお経が相応しいのか分からないのでどうぞ教えて頂きたいです。それと、やはりお経は朝の時間がいいのでしょうか? 曹洞宗です。 よろしくお願いいたします。
宮城県仙台市に住んでおります。 普段、、写経、写仏、読経をします。 読経は真言宗、曹洞宗門で唱えるお経が中心です。 以前、東京に住んでまして、あるお寺で朝と夕に勤行をする際に一般の方も気軽に参加してくださいという寺があり、時間が許す時、参加していました。 今回、転勤で仙台に来ました。 近くのお寺で読経する会がありましたら、参加したいと思います。 宜しくお願いします。
浄土宗では佛說阿彌陀經の後半部分のみをお上げする場合があるということをネットで見かけました。 そこで疑問に思ったのですが、その後半というのは「舍利弗如我今者讚歎阿彌陀佛不可思議功德」から最後の「作禮而去佛說阿彌陀經」までということでよいのでしょうか? それとも(六方諸仏が証誠する対象が明確になる)もう少し手前から読み始めるのでしょうか? さらに、序分は不要なのかという疑問も湧き上がってきました。 このような疑問を感じたのは、時間の無い時のお勤めに、という邪な理由も多少ありますが、ボケ防止(^^;)に佛說阿彌陀經を覚えようと思い立ったというところにあります(誦経よりも読経が良いということは聞き及んでいるのですが、経本のないところでも時間があればお上げできるというところに魅力を感じています)。 そして、後半部分の方が覚えやすいということもあり、まず手始めに後半を、、、と思ってお尋ねした次第です。 よろしくお願いいたします。 南無阿弥陀佛
寺での修行の際に読経をすることがありますが、始める前に必ずする、もしくはしなければいけない作法・儀式的なものってあったりするのでしょうか?
理趣経について調べますとこのような事が書いてありました。『理趣経』を使った『理趣経法』は、四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則があると調べますとありましたが日常の勤行に理趣経を唱える事も四度加行を終わらせてからでないと唱えれないのでしょうか?
理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?
いつもお世話になっております。 お礼が遅くなりましたが、不動産の件は円満に行きそうです。ありがとうございます!管理担当から物凄い丁重な謝罪がありました。45度の最敬礼(笑) * さて、私は低い声が出せません。親からも「あんたは甲高い声だね!」とさんざん言われたのを覚えています。 お経や御詠歌の時は経頭(導師)に音程、テンポ、声の大きさを合わせるように。と教わり、普段のお護摩でも実践している… つもりなのですが! 経頭さん(男性僧)の声に音程を合わせる時に、 中国ロシアの軍楽合唱団の女性兵士さんみたいに自分の声を高くする要領で音程を合わせています。あそこまで高くはならないけど。 * 響かせる場所、口の開け方等々を考えて重みのある声になるよう意識はしているのですが…問題はありませんか? お智慧を貸していただければさいわいです。 よろしくお願いいたします。