「空」とはどういう意味でしょうか?
分かりやすく教えて下さい。
物質はあるのに空であるっていう意味がよく分かりません。
こちらの思い一つで物質の意味が変わるというようなニュアンスでいいのでしょうか?
「空」だと知ることに何の意味があるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ドーナツの穴
ドーナツの穴みたいなものと言われます。あるけど無い、無いけどある。
ドーナツが大きければ穴も大きい、小さければ穴も小さい。オールドファッションの穴より、チョコファッションの穴の方がちょっと高く見える(^^)
私たちが感じるもの見ているものは、実はどれも周りからの影響を受けています。シャ家族さんから見れば私は僧侶だし、女性から見れば男性、子どもから見れば大人、動物から見れば人間、、、、
つまり、絶対的な「私」はいなくて、常にいるのは相対的な「私」です。それのこと空(くう)とか空性といいます。
この身心がいつでも 空ぜられている ことを知る
空っていくら理論を知った分かったからといっても、あまり実生活に役には立ちません。
こういう仏教の道理というのはアタマで知識的に❝知る❞事ではなく、自ら覚する、直証する、じかにそのものになるライドオンすると良いでしょう(^<^)
私たちの身心は一切を空じています。
一切を頂いては流し去っていて、いつでもすがすがしいのが私たちの本来の姿=空なのです。
分かりやすくいえば、どんな出来事に遭遇しても、どんな物事をみたり聞いたりしても、アナタに何ものこっていない、障りが何も無く安楽ということです。
あなた以外の物質が、存在しながら変化しているといっても、へぇ、そうか、という程度ですよね。
仏教は 自分の事 として捉えていってみてください。でないと生きた空、生きた救いになりません。
よく自分の今の様子に心の目を向けてみましょう。
この身も心も、前の事、さっきのことが全く残っていないでしょう?
〇
体験したことを、どんどん全自動で流し去っていて、思い起こすことはできたとしても、見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、触れた物事、体感した物事がきれいさっぱりアトが何もないでしょう?
△
鏡に何を映しても残り物が無い様に、身心は何も残さない。
〇 を 見た時は 絶対に〇。
△ を 見た時は 絶対に △ ということが脳(身心)に行われているでしょう。
△ を見た時に 前の事 〇 が残っていたら大変です。
残っていないからこそ今のものが見える、聞こえる、感じられるのです。
それが私たちがいつでも救われている空なる様子です。
全自動で私たちはいつでも真新しい世界を生きているし、過去のイヤな事も苦しみからも、抜け出して生きているという人間の真実の様相を説いているのが空の真意なのです。
身心はいつでも❝空ぜられている❞
一切を❝空じて流し去っている❞から、私たちはいつでも救われているのです。
何故救われているかといえば、今まで体験した苦しみも、ひとつ残らず、そこで完了しているからです。
人間の見解を除外すれば、そこにあるのは人間の本質的在りよう、真実の姿です。
それを理屈ではなく!
「ああ、本当に私たちの身心は、いつでもきれいさっぱり洗い流されているんだ」と悟り、そのように生きていくことで一切の苦しみから自由になれるのです。
智慧の開発における最大の要諦が「空と縁起」の理解
シャ家族様
hasunohaに参加させて頂きまして以来、この問答にていよいよ500回答となりますが、この間、拙生の取り組んで参りましたテーマとも言えますのが、まさに「空」、そして「縁起」でございました。
仏教は、「智慧と福徳(方便)」を両輪として、確かに修習していくことが求められます。その中でも、智慧の開発における最大の要諦が「空と縁起」の理解となります。
「物質はあるのに空である」とは、般若心経の「色即是空」のことを言及されているのではないかとお察し致します。しかし、それは、次の「空即是色」という理解も併せて行うことが必要となります。
もちろん、「空と縁起」の理解は、非常に難しいですが、とにかく、私たちは、般若心経の中にも出て参ります、「顛倒夢想」の中、あるいは難しい用語となりますが、「倶生諦執」、「有染汚無明」、「二(人我執と法我執、倶生我執と分別我執)我執」の中にあり、常に誤った認識状態で、モノ・コトを実体視執着してしまい、それで迷い苦しむことになってしまっております。
「空」というのは、つまり、無実体・無自性・無自相ということなのですが、要は、そのモノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているモノ・コトとして有り得ているのかどうかということであります。もう少し詳しく述べるならば、他に(例えば、要因や条件等に)依存せずに独立自存として成立しているものが果たして有り得るのかどうかということを考えてみる必要がございます。
更に分かりやすく述べるならば、もしも、他に依存せずに独立自存として存在するものがあるならば、一応、この宇宙の始まりと言われているビッグバン以前からも、それはそれとして存在していなければならないのであります。もしも、シャ家族様のその現在の心身が実体として有るとするならば、その現在の心身そのものが、ビックバン以前から実体として有るということにもなります。しかし、もちろんそんなことはあり得ないのですが、その理解を一つ一つに及ぼしていくことで、これで間違いないという心底からの了解が必要となります。
字数制限の関係上ここまでにて、関連の過去問答も是非ご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起
川口英俊 合掌
ストレートにいえば、満ちている
「空」は、竜樹尊者に深く説かれて以来、それを表そうとして、
さまざまな言葉や動作が生まれたものだと思います。
好雪片々、別所に落ちず
雪のひとつひとつ、おちるべきところにおちている。
こういった禅語などもまた、空を表すものと心得ます。
小生が題に述べたのが、小生としての「空」になります。
物質に物質としてのいのちが満ちみちている。
ゆきのおちたところに、ゆきが満ちみちている。
これらのもとには、おしゃかさまの「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
といった、教えがあって、それをあらわそうと試みて、
「空」
と置いたものだと思うのです。
ただし上記のこれらは、あくまで小生の感じるままのものであります。
空を感じるか、あるいは知ることに意味があるかどうかというのは、
仏教においてはそれこそ「意味」を得ないのではないかと思います。
なにくそと 雪割り芽吹く 福寿草
この福寿草に、ほとけが満ちている。
福寿草といういのちが、「いのちにみちた」ときに、「空」である。
それでいて、福寿草である、それを「空即是色」というのではないか。
小生は、それをいかに自身で「感」じることが出来るか、というのが
修行なのだろうと思い、禅宗に身を置くゆえに坐禅をするものであります。
自分にも、ほとけとしてのいのちが満ちているはずだ、と信じて、
ゆっくりと呼吸をして、すわるのです。
合掌
質問者からのお礼
御礼が遅くなして申し訳ありません。
皆様のご教導を何度も読ませて頂きました。
少し「空」が分かったような気になってまいましたが、それもまた間違っているのかなとか思ってしまいます笑
丁寧にお答えいただきありがとうございました。