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修行をすると魂が扱えるようになる?

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お墓を建てるときに入魂式のようなものをして頂きました。
修行をすると魂を取り扱うことができるようになるということでいいのでしょうか?
僧侶はそういう特殊な能力を身に着ける為に修行しているということでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

広島県は浄土真宗の寺院が多いですね。

 浄土真宗であれば、「入仏式」や「御移徙(おわたまし)」と言いますが、僧侶の力で仏さまを入れたり移したりするのではありません。

 僧侶は仏さまの力を御門徒さんの元にお取次ぎするお使いに過ぎず、特殊な能力などありません。皆さんと一緒に聞法していくだけです。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...

なりますよ

魂と言うのはあなたの心の作用の事。
あなたの中のあなたの大事な亡き方を想う、その心を霊やタマシイと言うのです。
そこらへんに飛んでるものではないです。飛んでたら困りますでしょ?
チャンとした修行者は心性を徹見する。自心自性を悟る。心の本来のサガというものを坐禅修行、仏道修行して見つめている。
だから心がワタクシ・エゴ・自我のカラッポの状態に到ることで無私の心、無心の中で人間が一念・思いを発生させる瞬間を感知する心眼が開かれる。だから、自分が思いに動かされる瞬間が分かる。そういう意味ではおよそ人間は思い(タマシイ)に振り回されていると言っていいでしょう。
他人様がどういう事で悩み、どんなものをつかまえてタマシイじゃとか勘違いしてるのも良く見抜ける。
だから当然、その勘違いのタマシイ、思い誤り、自分の思いにあやつられている状態の軌道修正をして正しい理性に導き、確かな明晰性、成仏、悟りに導ける。だから優れた禅者、修行者は人天の大導師と言われています。絵空事の魂を扱ってはいません。そういうタマシイであれば扱えません。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

浄土真宗にそのような考えはございません。

お墓を建てた時には「建碑式」を行います。
お墓を建てて一番最初に手を合わせる儀式です。
今日からここで手を合わせお念仏申す信仰を始めますという決意の儀式と言えます
魂を入れたり、仏様を宿らせたりするような意味はありません。
真宗僧侶にはそのような特殊能力はありません。

浄土真宗では命尽きると同時に阿弥陀様のはたらきによって成仏すると考えます。
仏様となって下さったお方はお墓におられるわけではありません。
仏様は自在な存在ですから、常に私達のそばにおられお守り下さる存在です。

他宗はどのように考えておられるか存じ上げませんが、浄土真宗ではお墓は魂を安置する場所ではなく仏となられた大切な方を偲び後世に伝えていく場所です。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

執着をオンオフする儀式では

お墓・位牌・仏像などの拝む対象となる物には、魂というより、拝む人の思い入れ、執着、概念が入ってしまいます。
単なる物体と思えなくなるということ。そうすると、修理や処分する際にも面倒です。
八百万の神という感覚がある日本人は、特にそうかもしれません。
なので、単なる物から拝む対象にオンしたり、逆にオフしたりするほうが、気持ちを切り替えられてよいのでしょう。
不思議な力を持ったお坊さんもいるかもしれませんが、一般的には、あくまで儀式だと思います。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...

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夏休みを利用した参禅の可否について

こんにちは 私は現在海外の大学にて哲学を学んでいますが、その興味の分野はもっぱら西田幾多郎や鈴木大拙などの俗にいう「東洋思想」にあります。そこで私は大学の夏休みを利用して、臨済宗のお寺に数ヶ月間参禅したいと考えているのですが、そういった短期の修行は可能なのでしょうか?また、もし可能であれば鈴木大拙の思想を深く学べるところを紹介していただけると幸いです。 上記の質問だけだとただ思想に魅了されただけの青二才という印象が否めないので、もう少しだけ「禅」を志す理由を明記させていただきたく思います。 私は幼少期の頃から嗜んでいた少林寺拳法と、中高で出会った先生方の影響により教育者になることを志しています。しかし現代教育におけるあまりにも多くの問題はロゴス的思考力ばかりを求め、心のあり方や感覚などのレンマ的なものを忘れ去ってしまっているように思われます。学問とは本来「学ぶことの楽しさ」を追求すべきなのに成績や偏差値と言った数字だけで縛りつけ、「合理的」という一点のみを求めてただの点取りゲームのようになってしまっている現状は、「歪んでいる」としか形容ができないものです。 「禅」の教えが、それは古くから日本文化が、そして日本人が慣れ親しんできた教えですが、そうした教えが「歪み」を直し、子供たちに「学ぶ」ことの楽しさや「健全な心」の育み方を教える大きなヒントになるではないかと西田幾多郎や鈴木大拙の著書を読んで感じ、より彼らの思想への理解を深めるために、修行をしたいと思い立ち、現在に至ります。 教育者を志しているので出家をし本格的に臨済宗の僧侶になることはいささか迷いがあるのは事実ですが、それでも自らの思想を育み、未来の少女少年たちに「禅」の教えを、そして「学び」の楽しさを教えることができる人間になれたらと思います、長々と失礼しましたが、何卒ご意見やご紹介のほどをよろしくお願いします。

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人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

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