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修行をすると魂が扱えるようになる?

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お墓を建てるときに入魂式のようなものをして頂きました。
修行をすると魂を取り扱うことができるようになるということでいいのでしょうか?
僧侶はそういう特殊な能力を身に着ける為に修行しているということでしょうか?

2015年4月13日 10:49

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

広島県は浄土真宗の寺院が多いですね。

 浄土真宗であれば、「入仏式」や「御移徙(おわたまし)」と言いますが、僧侶の力で仏さまを入れたり移したりするのではありません。

 僧侶は仏さまの力を御門徒さんの元にお取次ぎするお使いに過ぎず、特殊な能力などありません。皆さんと一緒に聞法していくだけです。

2015年4月16日 20:09
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有り難し
おきもち

和田隆恩
 1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱...

なりますよ

魂と言うのはあなたの心の作用の事。
あなたの中のあなたの大事な亡き方を想う、その心を霊やタマシイと言うのです。
そこらへんに飛んでるものではないです。飛んでたら困りますでしょ?
チャンとした修行者は心性を徹見する。自心自性を悟る。心の本来のサガというものを坐禅修行、仏道修行して見つめている。
だから心がワタクシ・エゴ・自我のカラッポの状態に到ることで無私の心、無心の中で人間が一念・思いを発生させる瞬間を感知する心眼が開かれる。だから、自分が思いに動かされる瞬間が分かる。そういう意味ではおよそ人間は思い(タマシイ)に振り回されていると言っていいでしょう。
他人様がどういう事で悩み、どんなものをつかまえてタマシイじゃとか勘違いしてるのも良く見抜ける。
だから当然、その勘違いのタマシイ、思い誤り、自分の思いにあやつられている状態の軌道修正をして正しい理性に導き、確かな明晰性、成仏、悟りに導ける。だから優れた禅者、修行者は人天の大導師と言われています。絵空事の魂を扱ってはいません。そういうタマシイであれば扱えません。

2015年4月13日 16:51
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おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

浄土真宗にそのような考えはございません。

お墓を建てた時には「建碑式」を行います。
お墓を建てて一番最初に手を合わせる儀式です。
今日からここで手を合わせお念仏申す信仰を始めますという決意の儀式と言えます
魂を入れたり、仏様を宿らせたりするような意味はありません。
真宗僧侶にはそのような特殊能力はありません。

浄土真宗では命尽きると同時に阿弥陀様のはたらきによって成仏すると考えます。
仏様となって下さったお方はお墓におられるわけではありません。
仏様は自在な存在ですから、常に私達のそばにおられお守り下さる存在です。

他宗はどのように考えておられるか存じ上げませんが、浄土真宗ではお墓は魂を安置する場所ではなく仏となられた大切な方を偲び後世に伝えていく場所です。

2015年4月14日 13:47
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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

執着をオンオフする儀式では

お墓・位牌・仏像などの拝む対象となる物には、魂というより、拝む人の思い入れ、執着、概念が入ってしまいます。
単なる物体と思えなくなるということ。そうすると、修理や処分する際にも面倒です。
八百万の神という感覚がある日本人は、特にそうかもしれません。
なので、単なる物から拝む対象にオンしたり、逆にオフしたりするほうが、気持ちを切り替えられてよいのでしょう。
不思議な力を持ったお坊さんもいるかもしれませんが、一般的には、あくまで儀式だと思います。

2015年4月14日 21:20
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おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

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修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

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この世は魂の修行場と言いますが

この世は魂の修行場と言いますが、自分の人生の汚点を作りつづけている人生の魂は汚れきっている事に気づきました 五年くらい前からネット上の掲示板などに不平不満をぶちまけたり、煽って来た人に煽ったり。いわゆる荒らしという行為 勿論いつもではありませんがストレスが溜まると息を吐くようにしている気がする 元々悪いんでしょうね悪役として生まれたんですね。   しかも自分は潔癖症なところがあり、ネット上と記憶ににこれらの汚点が残りつづけることが不快でたまりません。 相手に仕返しするために煽る際、汚い言葉を考える脳の思考回路が太くなって来る感じ 恥ずかしい話ですが、小説等創作物の登場人物を無意識に自分の理想にしてる事があり、その理想の登場人物と 自分の汚れきった自分を比べてひどくひどくひどくひどくひどく落ち込みます。 できればこの点をどう思うのかお聞きしたいのですが、ネット上のサービス(知恵袋)を使う際、本名で登録するのですが、 そのサービスを管理している人は自分がどんな事を書き込んでいるか知っているわけですよね? 勢い余って言ったことも残るし例えば仮に自分が有名になったら、あの人こんなこと書き込んでいたのかと しられますよね?自分の中を知られるのが急に怖くなるんですが、死ぬしかないんですかね 高校からネットなんか触れなきゃよかったと後悔していて、そのせいで人格も更に歪みましたし良いことがありません いまさら気づいてもネット上に何かを残すのがいつからか習慣になっているんです。 自分のしてることが全て悪手なんです 某動画サイトのコメント欄にレッテルを貼り言論弾圧してるやつがいたから 正論言ったら人格攻撃して来るしヒートアップして最終的には障害者扱いされてとても気分が悪い。 極論しか言えないのか 最終的に煽り合う事になりこれならその人にに最初から話しかけなきゃよかったと思うのですが。 この際ネット上にろくなやついないんでいい機会だと思い動画サイトのアカウントを 消したのですが、自分のコメントが消えるため向こうからすれば逃げたように見えますよね? ストレスがハンパないのですがどうすりゃいいんでしょう。  特定して個人的に会って潰さないかぎりおさまりそうも無い。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 50
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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

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