寿命は自分で選べないのですか?
小学校高学年ぐらいから毎日何度か死にたくなります。
今は特に1日に何度も死にたくなります。
でも、何か理由をつけて(飛び降りるところや首を吊るところが家の近くだと家族に迷惑がかかる等)死なない軟弱な自分もいます。
しかしながら毎日こんな沈んだ気持ちでなぜ生きながらえなくてはいけないのか。
なぜ寿命を自分では決められないのか。
難病でも生きたくて仕方ない人もいるし、生きたかったのに事故や災難に見舞われて突然無念の死を迎えてしまう人もいる。
なんの不足がなくても死にたいと思って自殺する人もいる。
なぜ自分の意思で寿命は決められないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無評価ライフ & 非思量号サイクリング
まず善し悪し、〇×評価を自分にするのはやめましょう。
評価することって、高い評価、低い評価にかぎらず、実はそのまんまのまっさらな素材、そのものの持ち味に、自分の思いのペンキを塗りたくって別のカラーに変えてしまって台無しにしてしまう行為なのです。
フランダースの犬の最終部に、ネロ君がおじいさんとの素敵な思い出を描いた絵をコンクールに出して入賞しなかった、というシーンがあります(あ、ご存じで?)。
みんな金持ちボンボン君の絵が「いいね、グレイト、サイコ―、さすが坊ちゃん」と(買収されて?)高評価して、最優秀賞になります。大人ってやーね。
ところが、後日、たった一人の審査員だけがネロ君の絵こそ一番だ、素晴らしいサイコ―だと言いました。(その場で言ってやれよ)
時すでに遅し、入賞しなかった事がショックでネロ君は凹んで、それが原因でホトケになっていましたという涙なしでは観れない最終回ですが、よくよく考えてみれば、ツッコミどころ満載です。
そもそも、おじいさんとの大切な思い出なのですから、誰の評価も無しに、その絵のままで十分素晴らしいのです。
良くも悪くも評価しない。特に、悪くだけは評価しない。
AKBであれば総選挙に出ない大作戦。
死にたいって、自分を悪く評価していることなのです。
思いっきり低評価、自分に×をつけているんです。
しばらく評価、価値判断から離れてみませんか。
あなたはアナタで素敵なのです。
だからこそ、これまで自分がインナーワールド、思いの世界の住人になってきたことを自覚すれば解決に向かいます。
ここに二つの自転車があるとします。
A 考え号
B 現実号
Aの考え号に乗ってペダルをこぐと、次のようなものが頭の中に充満します。
考え、評価、イメージ、キオク、推測、感情、判断…、これらって、一日中やる事ではありません。
パソコンだって、情報量が多ければフリーズしてしまいます。
およそ、心が疲れている人はAの自転車にばかり乗って、ペダルをこいでいます。
Bの現実号は、思いの世界から遠ざかれるのです。
事実をそのままにいきること。それがBの禅ライフ、非思量です。
私的な評価や思いを交えない事です。これを道元様は非思量といっています。
無評価、非思量のペダルをこいで、毎日を生きましょう。
浜松龍泉寺、掛川少林寺様での参禅をお勧めします。私も救われました。
つらいですね。
ゆうさま
つらいですね。寿命が決められないっていうのもしんどいですよね。
人は、生まれてこようと思って生まれてくる人はいません。
いつのころから、私ってなんだろう、死ぬってなんだろうと考えるようになるんだと私は思います。
非常に俗的表現で申し訳ないのですが、寿命が決められないのは、生まれてくるときに、よし○○年きっちり生きるぞ、といって生まれてくる人がいないからではないでしょうか。
であるので、寿命を自分で決めることはできません。
いつの間にか、あるとき自分の存在に気づき、生や死について苦悩するのが人間でしょう。
ゆうさんが、寿命や死について考え、苦しんでおられるのは人間の根本的な苦悩だと思います。
死について考えるということは生きるということにについて考えることだと思います。
どうか、命を大切にされ、生きるとはどういうことかについて問いを忘れずに生きてもらえたと思います。
医療機関に相談を。寿命は生かす縁。
自殺者の9割は、自殺したときの精神状態が「うつ」であったという研究もあるそうです。
ですから、自殺願望が何週間も続くようなら、「うつ」の可能性があるので、心療内科やカウンセラーなどを受診してみてはどうでしょう。
「うつ」のせいでそのような思いが出ている可能性があるから。
さて、寿命とは、あなたを生かす因縁(条件)の総称だと思います。
空気も食べものも寿命の一部。脳出血で倒れた患者を生かそうとする家族の存在も、寿命。
あなたを生かそうとする力が地球や人々やあなた自身の中にある限り、望んでなくても生かされてしまう場合がありますね。
寿命を決めるとは死ぬということ?
仏教は輪廻を説きますから、死んだらまた生まれます。
この世の行いによって来世が決まります。
良い行いをすればいいところへ生まれますし、悪いことをしていれば悪いところへ生まれます。
六道輪廻といいます。
この命を終えることは自分の意思で出来るかもしれません。
しかし、輪廻は終わりませんから次のいのちが始まります。
始まった次のいのちが地獄にいたならば、死ぬ意味がありません。
輪廻のループから解脱し、仏になるのが仏教です。
どうせ死ぬ人生ならば解脱することが確定してから死んだ方がいい。
人はみな死にます。
来世がよきところへいけるよう仏法を聞きましょう。
するとこのいのちもいいのちだったと喜べるようになります。
「縁起」論
ゆう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
自殺願望をお抱えのご様子・・ご心配申し上げます。
この世を厭われるお気持ちは、仏教では「出離心」として仏道を歩み始めていく上での大切な気持ちとなりますが、自殺はやはりいけないこととなります。
どうして自殺はいけないのか・・このことに関しましては。これまでにも下記の各問いにても少しく扱わせて頂いて参りましたのでご参照下さいませ。
自殺・自死について
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319870.html
『・・心が煩悩や無明(根本的無知)に支配された状態においての自殺だけは決して勧められない・・』
次に、「寿命は決められないのでしょうか」・・ということについてでございますが、仏教では「運命論・宿命論・決定論」は排斥されることになるため、その範疇に入ることについては、やはり否定されることになります。
では、仏教ではどう考えるかと申しますと、「縁起」論で考えることとなります。
まず、全てのモノ・コトというものは、様々な因縁(原因と条件)によりて成り立っており、永久永遠に変わらない実体として決定されてしまうようなモノ・コトはあり得ないと考えます。
それは、更には、縁次第においては、結果を変えられるということにもなりますが、簡単には、不摂生をすれば、幾らでも寿命は縮めることはできますし、健康に留意して過ごしていれば、延ばすことだって可能になります。もちろん、災害や事故などは避けようがないかもしれませんが、しっかりと防災に気をつけていたり、不注意を減らすなどで結果を変えることもできないことはありません。どうしょうもない不可抗力によるものであれば仕方がないかもしれませんが、それも縁なるものとなります。
とにかく、この人生、そしてこの後生をより良い結果としたいとなれば、縁をできるだけより良いものへと変えてやっていく努力が必要となります。悪いことばかりを考えて日々を過ごしていては、良きご縁を迎えることは難しいこととなります。無理にはあまり申せませんが、少しでも明るく元気よく前向きな気持ちをお持ち頂けましたら有り難くに存じております。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
晃倫さま
ありがとうござます。
死を思うことは=生きることを考えることなんですね。毎日死にたいと思っている私は逆にもしかしたら「生きたい!もっとよりよく生きたい!」と心の中で叫んでいるのかも知れませんね。
覚元さま
今回もありがたいお言葉ありがとうございます。
ぜひ覚元さまのお寺に行って幸せに生きる事とはどうゆうことなのか?というお話を伺ってみたいと思ってます。
道元さまの説いていらしたお話は、心理学の療法でも取り入れられているものですね。悪いことを繰り返し考えるクセをなくし、今のことだけを考えるレッスンです。道元さまはとっくの昔にそのことを考えていらしたんですね。すごい!
しかしながら、思考の経路を変える訓練とはなかなかに辛そうですが、ネガティブ思考におちいりそうになったら覚元さまの言葉を思い出すようにしてみます。今のことだけ考える!!
願誉浄史さま
ありがとうございます。
寿命は1人では決められない。なるほどと思いました。
今私を思い留まらせているのは、
家族の存在です。私は家族に生かされているのですね。
いつかああ生きててよかったなあと思えるのもきっと家族のこと(例えば子供の就職が決まったり、結婚したりなど)かもしれませんね。
私は家族に生かされているのかもしれません。それは大変な幸せなのかもしれないと思いました。
釈心誓さま
輪廻はとても怖いです。
私は実は1度死にかけたことがあり、心拍が異常に下がったそうです。
その時の様子は全く外の呼びかけなぞ聞こえず、
自分はただ寒くて真っ暗ななかで、ものすごいスピードで底なしの中を落ちていく感覚でした。
その底なしの暗闇を今でもはっきりと覚えています。
きっと地獄というものがあるとしたらいわゆる閻魔様がいて、灼熱の地獄とかそういうものというより人間の本能で恐怖と感じる感覚を死んでしまってからも味わい続けると言う事なのかもしれません。
英俊さま
ありがたいお言葉を頂いていたのに、お礼が遅くなり申し訳ありません。しっかりと拝読させていただきました。「悪いことばかり考えて日々を過ごしていては、良いご縁を迎えることは難しい。」というお言葉、一年近く経ちましたいま、まさにトレーニング中です。自分の考えが良くない方に向いたら
それに気づき、考えを明るく持って行くその繰り返しの途中です。おかげさまで最近は希死念慮もほとんど姿を現さずに少しずつ良い方に向かっているような気がしています。
貴重なお言葉ありがとうございました。