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仏教徒に対する疑問パート5

回答数回答 5
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お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね
因果の法則についてですが
前回の質問の答え見て思ったんですよ
蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果)
ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果)
理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果)
過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地
これって因を無視した果の法則ですよね
前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか?
きっと煩悩の塊の無明でそれは
何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ
永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる
因を無視した果の法則
悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら
悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか?
というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に
因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか?
だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか?
悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが
お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて
輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って
煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします
お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「釈尊」-煩悩に目覚めた人

いつも問答を大変興味深く読ませていただいております。

私は、お釈迦様は悟って煩悩がなくなったのではなく、煩悩を悟った。煩悩に目覚めたのだと聞いております。煩悩があることを気づき、煩悩の原因の無明に気づかれた。
よって娑婆の縁尽きるまでは煩悩の身にありながら、その「気づき」により煩悩に煩い悩み苦しむことがなかったのではないでしょうか。
輪廻からの解脱とは、輪廻などしない縁起による「いのち」に目覚めた。

全ての始まりもやはり縁起である。あらゆる複合的因縁によりすべてが生じた。それはわけが「わからない」のではなく、なんらかの原因により生じた結果であるという法則によることは「わかった」。ただその原因は人知が及ばない不可思議なものである。「わからない」のではなく「かなわない。」「及ばない。」
それはもしかするとこれから科学の発達によってあきらかになるかもしれないが…。

釈尊は涅槃を証しながら娑婆に生きた。そして娑婆の縁尽きて大般涅槃を証していかれた。

根拠はありません。

人間釈尊に思いを馳せる時、このように感ずるだけです。また諸先輩方にもこのようにおっしゃる方がいて、私がそのように聞いただけです。

たくさんの諸師の回答が得られるといいですね。私も楽しみにしております。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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無茶苦茶ですねこりゃあ…

前回の「この世の最初の最初にあった無明」とか「この娑婆の世界を作った」の時点でブッ飛んでます。そもそも前々回のけんじゅ様の回答は「個人の輪廻が無明によって廻っている」という意味ですよ?「この世界の最初」に関しては吉武様も川口様も心誓様も皆「分からない」=「無記」=「無始」と書いているでしょう…けんじゅ様だって「極端な言い方をしますと」とわざわざ釘を刺しています。
なのに勝手にストーリーでっち上げて、斜に構えた解釈をブチ込むから煽っている印象を与えるんです。対機説法うんぬん以前にコミュケーションが全く成立していません。そんなことをされたら回答する意味が無いではありませんか。

丹下様の回答にしても
>蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果)
ではなく、「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」です。そして「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)そういう自分の心のあり方に気付き、頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)です。

しかも今回のご質問では「業は悪玉」と思っていらっしゃいますよね?でも3つ前のご質問に対する川口さまの回答をちゃんと読めば「悪い業もあれば善い業もある」と分かります。「勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか」という発想は根っこからナンセンスです。まるで神のような速さで他人の話をねじ曲げていらっしゃいます。

これ、正直なところ哲学にすらなっていませんよ。哲学を学ぶというのは自分の意見は一切持ち込まないで、とりあえずその人はどう考えているかをそのまま理解するところから始まります。でも、阿防羅刹夜叉さまは相手の回答をそのまま理解する段階で話をブッ飛ばしています。これじゃあ何十回何百回質問してもますますブッ飛ぶだけです。まずは他人の話をまっすぐ受け止めることから始めましょう。お釈迦さまは言いました。「私はゴールに向かう道を説明することはできます。でも、それを聞いた人がその通りに行くか行かないかは自己責任です」と。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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そうやってまた思考のペダルをこいでいることの自覚がない

別に怒らせるつもりもないですが、とりあえず、飽きるまでそういう「思考」をトコトンやってみて、オレの諭は正しいと思ってやってみるとイイです。
昔、私もそうだったのですが、その結果幸せでも安らぎでも何でもないのです。
「諸行無常?だから何なんだよ?SO WHAT?」
&ネクスト &ネクスト
次を求める。
求めの炎がやまないでしょ。
あなたがやっているのは仏教ではなくて哲学なのです。
思考活動なのです。
それをやってみて「ああ、オレは本当に心底幸せになれた」と思える日が来るかどうか実験してみてください。(*'▽')
今の因を無視しちゃってるのはわかりますか?
今だって因なのです。
今、きちんとした因、縁を加えなければ、確かなる結果は出ない。
カップラーメンを作るにあたって(こんどはラーメンかい)お湯を入れるべき所サイダーを入れたら世界の人がウマいと思うものは作られないのですよ。
あなたは、サイダーがいいと思われるでしょうが、手段が三センチずれているので勿体無いと思います。
純粋な疑問なのでしょうが、本当に仏教の説く安心、安らぎを会得したいのか。
それとも、オレオレな所があって、オレの諭は正しいだろうと、坊主どもを論破したくなっちゃってるのか。自分の欲求、願望に正直に眼を向けた方がいいと思います。
本当に、物を聞く、ならう、学ぶ態度であれが、こちらの言わんとしている所を「どういうことをいっているのであろうか」とよくよく考えて、こちらがお伝えして、もっと楽になれるあり方があるのだったら、それは「私のやっているこの方法ではなくてごういうことなのだろう」と物の分かりの早いは問うものです。
ん?わたしのこの姿勢は、この丹下とか言う坊主はやたらとダメ出ししてくるが、何がどう、ダメなのか?そこをちょっと考えてみてください。
もう一度言いますが、あなたのその考えや論証の方法が本当に本当に適切であれば、あなたはここでこんなことを問う前に、本当にスッキリしているのです。
なんだか、矛盾が残るなー、というのであれが、もう少し「オレはこう思う」とかいうのを引っ込めて、こちらが本当に言わんとしていることを吸収しようとする、姿勢でナイスキャッチをしてみましょう。
打ち返すことより、まず、キャッチ。
答えはすでに出ています。またどうぞ。他の人の言葉も耳を傾けつつ。

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思考の実験

 こんばんは。初めまして。イヤイヤそのお年で坊さんたちに自説をぶつける勢い、若さあふれるなぁ。
 正直、前回の問いぐらいからしか見ていないのですが、「思考の実験・追い求めること」としては嫌いじゃないなと思います。けどね、こういった「言葉のこねくり回し」は自慰行為に近くなりがち。常に(こうやって)先達に仰ぐのは、大変すぐれたバランス感覚だと思います(誉めてます)。
 さて、私がひっかかるのは「世界の・宇宙の・歴史の」…何でもいいんだが、「最初を作った人・物・理」を仮定しているところです。それってキリスト教的な発想でっせ。「世界は神が作った」、まぁ日本神話も「日本(の土地)は神が作った」ですけど…。仏教では「全てのスタートについては、語らない」立場だったはず(うろ覚え。じゃーいいかって、その後スルーしちゃったから)。
 で、それって突き詰めると「時間はいつから始まったんだろう」的な、ちょっとスリリングでワクワクするような、「こんな事考えてる俺様、スゲーかも」って(昔思った)所まで行けるかも知れません。けどね、一昨年、僕のこの夢は打ち砕かれました。一冊の本との出会いで。
 それはね、ヴィトゲンシュタインさんっていう人。何せ「全ての哲学の問題は、言葉の誤解である(意訳)」ってんですもの。言葉の元々を無視した用法が、哲学の問題(答えの出ない問題)の姿なんだって。日本語にはなっているけれど、問い自体が成立していないから答えが出るわけがないという。がーん。勘違いだったのか…てなことで、NAVERまとめ。リンクしときます。「そういう考えもあるのか」で構わないので、ちょっと囓ってみて。
http://matome.naver.jp/odai/2143976015874294601

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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お釈迦様は悩み苦しみを解決する名人だった

仏教は、悩み苦しみの原因を制御したり消したりして、悩み苦しみを制御したり消したりする教えです。
お釈迦様に出会った多くの人々が、悩み苦しみを解決できたのです。
だから、お釈迦様は人々から敬愛され、尊敬されたのです。
お釈迦様は、80歳で、弟子達に囲まれ穏やかに亡くなりました。
周辺国の国王達もお釈迦様を尊敬しました。だから、張り付けにされたり処刑されたりしなかったのです。
あの有名な救世主さんでさえ処刑されましたが、お釈迦様は処刑されるどころか尊敬されたのです。
そこらの宗教家や神様達とはレベルが違っていたのは、事実ではないでしょうか。

仏教は、具体的な人生の悩みと隣り合わせです。
同じガラスでできていても、水を飲むときに窓ガラスは役立ちません。
水を飲むときはガラスのコップが役立ちます。
食器店のコップに向かって、「こんなガラスならうちの窓にもあるわ!こんなコップなんてものは、わざわざ買う必要ないわ!」と言っても、おかしいのです。
必要なときに必要な役に立つことが大事です。
仏教は、悩み苦しみの解決に役立ちます。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お坊様 
滝に打たれる修行よりも娑婆の人間の屁理屈を論破することで
文殊菩薩の知恵を会得する機会になると思ってこれからの質問もどんどん答えてください 
お願いします
仏教徒が嫌いだからこんな屁理屈をいってるわけじゃないんです 仏教徒が本物なら 
仏教徒が築き上げた立派な石橋を叩いても屁理屈の屁をこいても壊れないはずだからですよ
回答してくださったお坊様ありがとうございます 

あと吉武文法様 実はお釈迦様は悟りで煩悩を消したのではなく
煩悩に目覚めたというその答えが少しピンッと来たみたいです

「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ