hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

悟り

回答数回答 4
有り難し有り難し 63

悟りとは何でしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

✨ ただこれがこうある通りです。

あなたが今、この文字を見ていることです。
この時、何も知らずに全身全霊でただ、このことがあるばかり。
人間の元々の様子。❝本来性❞。心にて何かせんとし始める前の、はじめの0歩目👣と言っておきます。
今も、見ている事も知らずに、みているだけでそれ以外に何もない。
思いを使えばアレコレ脳内情報が盛んになり見過ごしてしまう。。
だから、思いの活動を休めなければ「そこ」が分からない。
そことははじめの一歩を踏み出す前。思考以前。認識以前。
坐禅はその立証の為にこそする。
何も心の中で生じていない、ピックアップの無い様子。
その事に意識も知覚もすべてが注がれていつつ、その他に何もなく、想念すら生じていない様子です。
前のことも先の事もなくただ、出会っていることになっている様子です。
ここにありながら、居ながらにここも自分も忘れていたでしょう。
人間は物事との出会い頭の最初の時点においては「はじめに事実ありき」良いも悪いもなく、ただ「それだけ」でしょう。
その時、その場で出会っていることは、その事がただそうあるだけであって、他に何もないものです。他に何かがあるとすればそれは思いの副産物・添加物。
事実に対してアイスのトッピングのように「別物」を添えてまげた様子です。
この身が物事にのぞんで、それとともにありながらそれを取り上げることや認識すらせずにいる様子をみてください。
あなたが今この文字を見ている、その眼も知らずにいる。
万事を排してただ、この文字に❝なって❞いた。
成ろうとせずとも、知らずに触れた文字がこの身心に機能せられ(される)る。
文字のみならず、部屋の明かり、音、香り、呼吸。
一切がそこにありながらも、認識上にのぼる前の様子として現じているだけの状態。
願っても頼んでもいないのに、この身心は知覚する物事に全自動で注がれている、このオートマティックな働き。
I am that I am
認識による分断や分析などの隔ての起こる前の、この身心が処するままの消息です。
「意」の活動の踏みだしをする一歩前。ゼロ歩目です。
思考や判断・分別以前は人間はどうなっているかを、自身でみてみることです。
どうなっているか。
感受・知覚。
考える以前からこの身心は物事に触れている。
生まれた時点で世界と条件なしに密接に接触している。
思考以前に世界と自分とが分別されずにいるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」は、その悟るための障りとなっている煩悩障と所知障を、仏道における智慧と福徳という二つの資糧を集積していくことにより断滅することで得られるものとなります。

その境地は、勝義知、一切知、あるいは、如量知、如実知などとも言われるものとなりますが、空性を現量で了解しながらに、如実に真実を覚知されておいでである境地と考えられています。

そのありようは、「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」というような一見すると矛盾しているような表現で表されます。

私たち凡夫においては、顕現は、まるであたかも、認識している顕現のその先に、何かそのものの実体があるかのように捉えてしまう性向があり、たとえ、修行が進み、三昧に入り、等引知としての空性の体験はあったとしても、その後、元の世界に戻り、顕現しているものを見た時には、やはりどうしても何か実体があるかのようにとらわれを起こしてしまうものとなります。

但し、二資糧の修行が進めば進むほどに、その性向は薄まって参ります。

三昧から離れても、元の世界の顕現に対しての空性を、完全ではなくてもある程度は理解している知を後得知と申しますが、三昧・等引知における空性と、三昧から出た後のその後得知における空性の修習の繰り返しにより、やがて空性の現量了解へと至りて、所知障を断滅することにより、悟りへと至れることになります。

もはや顕現における実体性にとらわれることは微塵も無くなっていながらにも、一切の真実を覚知している状態であると考えられます。

悟りへと向けて、しっかりと修行に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

悟りとは、言葉では伝えられない

言葉でお伝えすることはできないものだと感じます。
しかし、あえて言うなら、善悪、損得、好き嫌い、ねばならない思考、そうした人間特有の価値判断が存在しない、授かりっぱなし、救われっぱなしの様子を知ることだと思います。

六根という、目、耳、鼻、舌、身、意から感じる事実、そこに認識もない、自分という我が一切ない様子を知ることでしょう。

生まれながらにそうなっているのに、そこに人間特有の価値判断を付け加えることで、悟りで無くなるのでしょう。

今、ありのままの様子でいるのです。私が見てるという感覚すらないほどに、触れっぱなしなんです。
考えることではないのです。本当の自分自身を知るのが悟りと言えるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
このお坊さんを応援する

何しろ私は悟っていませんから、どのような境地なのか分かりません。ただ、悟っていたお釈迦様の教えから、悟りへの思いを巡らすのみです。

その中でもやはり重要なのは、因縁の理です。全ての物事には原因がある。全ての物事は様々な原因や縁によって存在している。そしてそれは無常であり、常に移り変わる。この世はそのような関係で成り立つ世界である。それを知り、ありのままのこの世の姿を受け入れた時、全ての苦しみを無くすことができる。

現状は過去からの原因の結果です。現状を正しく見れば過去からの様々な原因が見えてきます。そうすれば、なるほど、現状がこのようになるのも仕方がないことであった、と受け入れることができます。
また、現状を原因として未来がどうなるかも見えてきます。未来を良い未来にするには、現状にどのような良い原因を加えるといいのかが見えてきます。そうすれば、現状に良い原因を加える、例えるなら、未来に花が咲くように今の現状にその花の種を蒔いておく、ことによって、未来を良い未来に変えていくのです。
そうすれば、種を蒔いている今も楽しい、そして未来も花が咲いて楽しい、という人生を送れるのです。

悟りの方向としては、このような境地でしょうか。
私には正解は分かりません。
ぜひご一緒に悟りを探求しましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ありがとうございます🙇

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ