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悟り

悟りとは何でしょうか?

仏教
有り難し 48
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」は、その悟るための障りとなっている煩悩障と所知障を、仏道における智慧と福徳という二つの資糧を集積していくことにより断滅することで得られるものとなります。

その境地は、勝義知、一切知、あるいは、如量知、如実知などとも言われるものとなりますが、空性を現量で了解しながらに、如実に真実を覚知されておいでである境地と考えられています。

そのありようは、「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」というような一見すると矛盾しているような表現で表されます。

私たち凡夫においては、顕現は、まるであたかも、認識している顕現のその先に、何かそのものの実体があるかのように捉えてしまう性向があり、たとえ、修行が進み、三昧に入り、等引知としての空性の体験はあったとしても、その後、元の世界に戻り、顕現しているものを見た時には、やはりどうしても何か実体があるかのようにとらわれを起こしてしまうものとなります。

但し、二資糧の修行が進めば進むほどに、その性向は薄まって参ります。

三昧から離れても、元の世界の顕現に対しての空性を、完全ではなくてもある程度は理解している知を後得知と申しますが、三昧・等引知における空性と、三昧から出た後のその後得知における空性の修習の繰り返しにより、やがて空性の現量了解へと至りて、所知障を断滅することにより、悟りへと至れることになります。

もはや顕現における実体性にとらわれることは微塵も無くなっていながらにも、一切の真実を覚知している状態であると考えられます。

悟りへと向けて、しっかりと修行に努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

回答僧

円通寺

邦元

悟りとは、言葉では伝えられない

言葉でお伝えすることはできないものだと感じます。
しかし、あえて言うなら、善悪、損得、好き嫌い、ねばならない思考、そうした人間特有の価値判断が存在しない、授かりっぱなし、救われっぱなしの様子を知ることだと思います。

六根という、目、耳、鼻、舌、身、意から感じる事実、そこに認識もない、自分という我が一切ない様子を知ることでしょう。

生まれながらにそうなっているのに、そこに人間特有の価値判断を付け加えることで、悟りで無くなるのでしょう。

今、ありのままの様子でいるのです。私が見てるという感覚すらないほどに、触れっぱなしなんです。
考えることではないのです。本当の自分自身を知るのが悟りと言えるでしょう。

✨ ただこれがこうある通りです。

あなたが今、この文字を見ていることです。
この時、何も知らずに全身全霊でただ、このことがあるばかり。
人間の元々の様子。❝本来性❞。心にて何かせんとし始める前の、はじめの0歩目👣と言っておきます。
今も、見ている事も知らずに、みているだけでそれ以外に何もない。
思いを使えばアレコレ脳内情報が盛んになり見過ごしてしまう。。
だから、思いの活動を休めなければ「そこ」が分からない。
そことははじめの一歩を踏み出す前。思考以前。認識以前。
坐禅はその立証の為にこそする。
何も心の中で生じていない、ピックアップの無い様子。
その事に意識も知覚もすべてが注がれていつつ、その他に何もなく、想念すら生じていない様子です。
前のことも先の事もなくただ、出会っていることになっている様子です。
ここにありながら、居ながらにここも自分も忘れていたでしょう。
人間は物事との出会い頭の最初の時点においては「はじめに事実ありき」良いも悪いもなく、ただ「それだけ」でしょう。
その時、その場で出会っていることは、その事がただそうあるだけであって、他に何もないものです。他に何かがあるとすればそれは思いの副産物・添加物。
事実に対してアイスのトッピングのように「別物」を添えてまげた様子です。
この身が物事にのぞんで、それとともにありながらそれを取り上げることや認識すらせずにいる様子をみてください。
あなたが今この文字を見ている、その眼も知らずにいる。
万事を排してただ、この文字に❝なって❞いた。
成ろうとせずとも、知らずに触れた文字がこの身心に機能せられ(される)る。
文字のみならず、部屋の明かり、音、香り、呼吸。
一切がそこにありながらも、認識上にのぼる前の様子として現じているだけの状態。
願っても頼んでもいないのに、この身心は知覚する物事に全自動で注がれている、このオートマティックな働き。
I am that I am
認識による分断や分析などの隔ての起こる前の、この身心が処するままの消息です。
「意」の活動の踏みだしをする一歩前。ゼロ歩目です。
思考や判断・分別以前は人間はどうなっているかを、自身でみてみることです。
どうなっているか。
感受・知覚。
考える以前からこの身心は物事に触れている。
生まれた時点で世界と条件なしに密接に接触している。
思考以前に世界と自分とが分別されずにいるでしょう。

回答僧

圓常寺

聖章

何しろ私は悟っていませんから、どのような境地なのか分かりません。ただ、悟っていたお釈迦様の教えから、悟りへの思いを巡らすのみです。

その中でもやはり重要なのは、因縁の理です。全ての物事には原因がある。全ての物事は様々な原因や縁によって存在している。そしてそれは無常であり、常に移り変わる。この世はそのような関係で成り立つ世界である。それを知り、ありのままのこの世の姿を受け入れた時、全ての苦しみを無くすことができる。

現状は過去からの原因の結果です。現状を正しく見れば過去からの様々な原因が見えてきます。そうすれば、なるほど、現状がこのようになるのも仕方がないことであった、と受け入れることができます。
また、現状を原因として未来がどうなるかも見えてきます。未来を良い未来にするには、現状にどのような良い原因を加えるといいのかが見えてきます。そうすれば、現状に良い原因を加える、例えるなら、未来に花が咲くように今の現状にその花の種を蒔いておく、ことによって、未来を良い未来に変えていくのです。
そうすれば、種を蒔いている今も楽しい、そして未来も花が咲いて楽しい、という人生を送れるのです。

悟りの方向としては、このような境地でしょうか。
私には正解は分かりません。
ぜひご一緒に悟りを探求しましょう。


質問者からの有り難し - お礼

ありがとうございます🙇

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