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諦めること

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有り難し有り難し 35

仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか?

よろしくおねがいいたします。

2017年7月13日 2:55

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諦とは明らかに見極めることです

諦という文字は仏教では大切な言葉です。語呂的にいうと物事の真実を明らかにし、見極めるという意味であって、途中で放り出してしまうことではありません。私の何代か前の住職の名前は立諦(りゅうたい)と言いますが、名前に付けたいほどの文字です。
では、何を明らかに見極めるかというと「人間が努力すれば報われることと、そうではないこと」を見極めなさいということです。世の中には人間がいくら努力しても、どうにもならないことがあります。お釈迦様はその代表的なものとして「老病死」をあげられました。
人間の努力ではどうにもならないことに対して、何とかしようとするところに苦しみや悩みが生まれると見抜かれました。いくら努力してもどうにもならないことは、他にも多くありますが、ここの質問で多いのは「過去の出来事」や「他人の心」です。これも自分がいくら努力しても変えることは出来ません。そこにこだわることで苦しみ悩みが生まれます。
ではどうすればいいかと言いますと、ありのままを受け入れるように、自分の心の在り方を変えるという方法があります。簡単そうですが、実際はなかなか出来ません。出来ないのは自分に煩悩があるからです。
しかしお釈迦様は煩悩を消す方法についても詳しく説かれています。そこからはご自分でも勉強して見て下さい。

2017年7月13日 17:13
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おきもち

鳥取市にある浄土真宗のお寺の住職です。36年間のサラリーマン生活を経て20...

あきらめる、とはちょっと違う

rinrinrinさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

rinrinrinさんは、仏教の教えは自分の感情はおさえて他のために尽くし、何事も諦めることと捉えておられるのですね。

1.自分の感情を抑えて他のために尽くす
rinrinrinさんは、利他について書いておられると拝察いたします。
しかし、仏教では利他の前に「自利(じり)」が付きます。まずは、自分を大切にしなさいと説きます。

自分が精神的に一杯になっているときに、見返りを求めず他に尽くすことはできません。
まずは、自分を見つめ直しクリアになってから他に尽くすのです。そうでなければ、「自分はこんなにがんばっているのに」とむさぼりの心が起きたり、「どうしてあなたは何もしてくれないのよ」と愚痴の心が出てしまいます。

仏教においてむさぼりの心や愚痴の心は毒であると説きます。毒を吐き続けている人に、何かをしてもらおうと思う人はいません。

つまり、自分の感情を抑えるのではなく、自分の感情を見つめてクリアにしてから他に尽くすというのが正しい解釈です。

2.何事もあきらめる
rinrinrinさんは四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を指しているのでしょうか。
漢字であきらめると書きますが、あきらめることではありません。
困難にぶつかったときに、本当の姿を見つめて原因を追及し、正しい道を歩いて行くことを指しています。

つまり、何事もやめてしまうという意味のあきらめるではなく、今まで歩いてきた道を見つめ直して正しい道を歩くという意味です。

rinrinrinさんが、自分を見つめて正しい道を歩いて行くことができるよう祈念しております。

2017年7月13日 11:49
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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...

明らめることです

すべてのことは、無理に抑え込まなくても、事実を明らかにすることで楽に生きることになります。
虚しいとか、我慢ということとは違います。人間の力が及ばないところで事実は流れ変化しています。昨日のことは今はもうありません。手をつけなくても消えていくのです。消そうとかしなくても、消えていく、新しものを見ようとしなくても、常に新しい今に触れっぱなしなんです。
記憶や考えは事実を歪め、事実を見えなくさせます。
考えごとをしながら車の運転していると、事故に遭いやすくなります。目の前の様子が見えなくなるのです。目を開いていても見えないほどに、妄想は恐ろしいものです。

ですから事実に目を向け、手をつけないで事実のままに生きると、善も悪もなく、損も得もなく、好きも嫌いもない、今の様子があるのです。そこでそうした価値判断を下すことが手をつけるということです。迷いの道です。

明らかにできると手をつくなくなります。見たら見た様子になる。音があれば音があったようになる。コーヒーを飲めばコーヒーの味になる。飲み終われば綺麗さっぱり消え去る。
それが救われた事実でしょう。

2017年7月13日 22:27
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

大変わかりやすく教えて下さり感謝致します。

他のためにとか、自分本位になってはいけないとか、人に悲しい思いをさせてはいけないとか正しいことを言われるのですが、私自身、満たされない、報われない嫌な思いをさせられているのに、どうすればそんな思いになるのかとずっと疑問でした。

考えた結果、では自分の感情をなくすほかない、何事も自分が我慢し、あきらめることではないかと思っていました。

間違った解釈をするところでした。

ありがとうございました。

りゅうよう住職様、コメントありがとうございます。

煩悩を消すというのは大変難しいです。
自分は特に死ぬまでにできるかどうか

勉強していこうと思います。

ありがとうございました。

邦元住職様、コメント感謝致します。

明らかにすることとは、難しいことですね。
これからは、いただいたお言葉を思い返しながら、色々な場面で考えて行こうと思います。

ありがとうございました。

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仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

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初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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四苦八苦とどう付き合うかー怨憎会苦

 いつもお世話になっております。お久しぶりの先生方はお久しぶりです。  近況報告ですが、職業訓練のとある利用者の行動が気になりすぎて、とうとう 体にまできてしまい、入院を余儀なくされてしまいました。今は退院して しばらくは家で治療と言う方針です。  人生には8つの苦しみがあると聞きました。これにあてはめると、 私の場合、「怨憎会苦」に振り回されているのではないかと推察しました。 ほかの7つは今のところなんともありません。  たとえば、私の訓練所に、自らも訓練生、つまり当事者でありながら 周囲に挑発的な言動や態度をとる、30〜40代くらいの男の子がいます。  普通に歩いていても、社会的マナーを守らない高齢者など…  とても怖いですし、悔しささえ感じる時もあります。 「二士はいつも0,100、白黒、善悪で考えようとするけれど、世の中には 100までの数直線で表したら、0から100までびっしり人がいる。 いつまでも『みんな悪い人、みんな怖い』じゃ訓練所にも復帰できないし、 就労からどんどん遠くなっていくよ」と支援者から言われています。  なにしろ、この、「みんな怖い人思考」は自分も一番苦しいです。  どうやったら、怨憎会苦、「みんな怖い人悪い人思考」から少しでも 離れられるものなのでしょうか?  お知恵をお貸しいただきたく存じます。

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