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大乗の三宝について(なぜ『仏』なのか)

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どうもこんばんは。
いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。

今回は大乗仏教の三宝について質問があります。
ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、
仏=釈迦牟尼(ブッダ)
法=ブッダの教え(ダンマ)
僧=僧団(サンガ)
と思います。

大乗仏教の三宝では、
仏=本尊
法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え
僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが)
であると認識しています。

今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。

例えば、大雑把に言うと
阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ)
それぞれ無限の光と無限の寿命の体現

大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ)
宇宙の真理の体現

内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。
大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。
どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。
マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。

ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

様々な解釈があるのです。

私としては、仏とは覚った人であり、お釈迦様や他にも居られる多くの仏様を指します。
法とはこの世の真理です。仏様が居なくても法は常に存在しますが、法を私達に教えてくれるのは仏様なのです。
僧とは仏様の教えを受け取り、それを体現、実践する者達だと思います。
原始仏教もこのようだったと思います。

しかし、あなたの言うように阿弥陀如来や大日如来を法と見るのは間違ってはいません。本来は法であるが、私たちに法を教えるためにあえて存在を体現したとの解釈もあります。
この本来の法である身を法身、あえて存在を体現した身を報身といいます。またお釈迦様のようにこの現世に人として降りてくださった姿を応身といいます。

何が正しいとか間違いとかはありません。私たちの心の持ちようや、環境や状況によっても変わると思います。
大切なことは、法は常にある、仏様も私たちの側に常に居られる、そう思って僧として生きていくことかなと思います。

なお、原始仏教では上記の内容でしたが、お釈迦様の入滅後に部派仏教となり、仏はお釈迦様のみ、法はお釈迦様の教えのみ、僧は男性出家のみ、というように変わっていきました。これはお釈迦様が徐々に神格化されていった為であります。
後にこれに異議を唱える者達が現れました。三宝を本来の意味に戻そうとしたのです。仏様はお釈迦様以外も居られる、法は真理である、僧は出家した女性も、在家の男女も含めると。これが大乗仏教の誕生した原因の一つになったと言われています。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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宇宙法界の一切が仏であり、法であり、僧ですね

宇宙大霊=仏
理法=法
一切衆生=僧

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遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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仏とは一切であるともいえましょう。
自らをして正覚に導く働きともいえましょう。
それが人であれば正師。導きの師です。
ですが、正師は最終的には自燈明・法燈明で❝おのれなき自己❞こそが導きの働きになります。
ゆえに自己の仏性・仏を見出す。
対象物ではなく、自己のありようの中に仏を見出せば、それが法であり、僧・サンガとなるわけです。
おのれなきはたらき。

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仏(永遠のいのち)、法(説かれる教え)、僧(ともに学ぶ)

興味深く読ませていただきました。確かにその意味での本尊は法だと言っていいかもしれませんが、私なりの理解ではそれでも仏にすべきなのだろうと思います。

三宝という言葉は、
一体三宝、住持三宝、現前三宝の3つの考え方があります。
ひろさんのおっしゃる、原始、上座部の三宝はいちおう住持三宝、現前三宝にあたるとして
もうひとつおっしゃっている大乗仏教の三宝の方は、住持三宝と一体三宝のどっちともとれますが、どちらで理解されておりますでしょうか?

『大乗仏教の三宝では、
仏=本尊
法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え
僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが)
であると認識しています。』
これは住持三宝のことをいっているのだろうと思われます。お釈迦様滅後、彫刻や絵画などで仏像を本尊としてたてて拝む対象にしてきた歴史がありますので。
それに対し、
『ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思える』
というのは、一体三宝の捉え方ではないでしょうか。

ここから私見として述べさせて頂きます。
本尊は仏ではなく法に思える、というのは阿弥陀如来も大日如来も要は真理をさしているのだから、という考えでしょう?でも『法』は「真理そのもの」というよりは「説かれる教え」として見た方がよいのではないでしょうか。
なぜなら、教えがなかったら我々はどうやってその真理を学ぶことができましょうか。真理は言葉を超えているのだから、教えも何もないし、我々はそもそも学ぶことができない。我々が生きている現実が永遠のいのちそのものなのだ、といっても説かれるべき教えがなかったらそれはわからないでしょう?
そういうわけで、仏は、「真理の体現」で構いませんが、そうしたら法は、真理ではなく「説かれている教え」と見た方がよいと思うのです。仲間と一緒に(僧)、教えに学んだり触れること(法)で、仏(真理)の世界を生きることができるのだ、というように見るのが、大乗仏教における三宝の,私なりの理解です。

一体三宝はもう一段階踏み込んでそれらがひとつに包まれている時空そのもの(?)を象徴しているように思います。
そこまできてはじめて、経典や注釈によっては法=真理として説かれる場合がありますので、そこから先、ひろさんのさらなる理解を深めていただければと存じます。

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吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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質問者からのお礼

まず回答を頂いた方々やこの質問を見た皆様に謝ります。
こんな答えのない質問は、興味本位でするもんではないなと痛感致しました。
申し訳ありませんでした。

>>聖章様
お返事ありがとうございます。
歴史の流れを見るとずいぶんと大きく変わったものだなと思いますね。
また、『気付くこと』の大事さを教えてくれている存在ですね。

>>遠藤喨及様
お返事ありがとうございます。
なるほどですね。
正直、無知な私にはわからないです。ごめんなさい。

>>丹下覚元様
お返事ありがとうございます。
つまり語弊を恐れずに言うと『鏡になるものだから』という事でしょうか。

>>吉井浩文様
お返事ありがとうございます。
正直、私は三宝はよく分かりません。
それはブッダ入滅後の原始仏教でもその後の上座部仏教や大乗仏教でも一緒です。
何故かと申しますと、宗教としての仏教ではなく『ブッダが生きてるころの、苦を滅するためのブッディズム』を探しているからです。だから私は仏教徒ではありません。
ですので、『真理』というのもよくわかりません。
ですから私には『真理』が言葉にできるのかまたは言葉にできないのかも分かりません。

ただ、ブッダのお言葉
『縁起で繋がっている』
『諸々の事象は移り行く(過ぎ去る)ものである』
『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。』

この三つのお言葉によって『私の苦が苦でなくなった』という事しか言えません。

私の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
ブッダの教えが広まりますように

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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