回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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南無へだてるな仏 南無同胞変化教
「日本仏教の〇〇宗」という宗派色・宗派の教義教学を一切除いて、世界的(客観的)に純粋に仏教学の観点で(宗派カラー無しで)捉えると阿弥陀仏も妙法蓮華経も自己の本来性の異名、人間の仏心の異名ともいうことができます。
人間の本当の宗教性、真の仏教性とは、今の日本の宗派宗派した壁のあるような(別にないですが)派閥のあるような仏教と異なり、原点はお釈迦様ですから仏心を敬う、お参りする、人間の無我性・本来性を自覚する「拝む」という行為の上においては何を何とおとなえしても隔てはないという面もあります。
お釈迦様が「南無○○」と言っている姿を想像すると違和感すら覚えるはずです。
そもそも日本仏教の原点がみなお釈迦様なのですから、お釈迦様が体得されたご境涯に到達することが仏教の理想であり、お釈迦様の智慧・慈悲の心にみずからの心を等しくするという上においては「〇〇宗だから」「○○宗だから」という垣根で隔てて「べつもの」にするというのは、深い意味においては仏教ですらなくなるというものでしょう。
ですが、それでも100歩下がってみれば人間の世界で人間のやることです。いくら仏教といっても仏教世界もいまだ宗派が分かれて、それぞれが別々に単独で存在しているという今の現実があるのですから、そういう枠組みの中で、個別なものとして「分けて」生きている人もいるのだという配慮を持つことも大事です。互いに尊重、尊厳を認める姿勢があってこその真の宗教性というものです。
反対に的な侵略的な宗教、戦争や喧嘩をする宗教は他の宗教まで弾圧するので宗教と言えません。思想団体と称されるものです。
優れた宗教は他の宗教性を尊重するものです。
某お寺では境内に神社のヤシロがありますが決して壊しません。
〇〇宗大本山〇〇寺ではかまどの神様であった荒神さまやアナグマ稲荷をお寺境内を守護する鎮守様として尊重しています。
他の宗教であったらとっくに壊されているところでしょうが共存しているのです。
昔ながらの土着の神様を尊重してあがめているわけです。
今の永平寺の禅師猊下の住職せられた豊川稲荷も稲荷様をまつっています。
日本のお寺にはそういう❝度量❞があります。
そういう姿勢は「あらそいがおこらない」ということです。
そういう争いや隔ての起こらない心でナムナムされることで、宗祖様やお釈迦様もお喜びになられるのではないでしょうか。
無言で拝むのが万能です…と無言を好む禅宗のお坊さんがボソッとつぶやいてみます
…と要らんこと言ったのは置いておきまして…
アレやったら間違い、コレやったら間違いと減点方式のお参りをするのではなく、
アレやったら有り難し、コレやったら有り難しと加点方式のお参りをしましょう。
そんなお参りが出来る人が増えれば、きっと住みやすい社会になるでしょう。
こんにちは。
数年前に、長野の善光寺さんにお参りに行ったとき、ガイドさんが、「善光寺さんは無宗派なので、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、はたまたアーメンでも良いですよ」と言ってました。そういう例外的なお寺もありますが、多くの人は神社では柏手を打ち、お寺では合掌、キリストの教会では指を組んでお参りすると思います。
そういう意味では、日蓮宗のお寺さんに行き何かをお唱えするのであれば「南無妙法蓮華経」と唱えるのが良いと思います。
尚、お寺のご本尊さまの前で何かをお唱えしなくてはいけない、という事ではありませんので、静かに手を合わせるだけでも良いと思います。宗派の分からないお寺さんをお参りすることもありますものね。
ちなみに数珠は宗派によって違いますが、これをお参りする宗派に合わせる必要はないと思います。自分の信仰する宗派の数珠をひとつ持っていれば良いです。
良いですよ
日蓮宗のお寺なら南無妙法蓮華経とお唱えするのがいいと思います。浄土宗だからどこでも必ず南無阿弥陀仏と唱えなければならないというわけではありません。その場に合わせるのがいいと思います。
悟りという目的へと向けて
Kimi3様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
宗派という違いはありますが、それは悟りへと向けた方便の違いであり、目指すべきところである悟りは同じとなります。
自分の宗派が一番、最高ということでもなく、仏様の教えである仏教として各宗派の教えも尊重することが大切となります。
各ところへ行っては、各ところの教えを尊重し、悟りという目的へと向けて学び修することが求められるものとなります。
是非、日蓮宗さんのお寺にお参りになられましたら、「南無妙法蓮華経」とお唱えになられて、その教えからも色々と学ばれて下さいましたらと存じます。
川口英俊 合掌