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南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経

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菩提寺が浄土宗です。
菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無へだてるな仏 南無同胞変化教

「日本仏教の〇〇宗」という宗派色・宗派の教義教学を一切除いて、世界的(客観的)に純粋に仏教学の観点で(宗派カラー無しで)捉えると阿弥陀仏も妙法蓮華経も自己の本来性の異名、人間の仏心の異名ともいうことができます。
人間の本当の宗教性、真の仏教性とは、今の日本の宗派宗派した壁のあるような(別にないですが)派閥のあるような仏教と異なり、原点はお釈迦様ですから仏心を敬う、お参りする、人間の無我性・本来性を自覚する「拝む」という行為の上においては何を何とおとなえしても隔てはないという面もあります。
お釈迦様が「南無○○」と言っている姿を想像すると違和感すら覚えるはずです。
そもそも日本仏教の原点がみなお釈迦様なのですから、お釈迦様が体得されたご境涯に到達することが仏教の理想であり、お釈迦様の智慧・慈悲の心にみずからの心を等しくするという上においては「〇〇宗だから」「○○宗だから」という垣根で隔てて「べつもの」にするというのは、深い意味においては仏教ですらなくなるというものでしょう。

ですが、それでも100歩下がってみれば人間の世界で人間のやることです。いくら仏教といっても仏教世界もいまだ宗派が分かれて、それぞれが別々に単独で存在しているという今の現実があるのですから、そういう枠組みの中で、個別なものとして「分けて」生きている人もいるのだという配慮を持つことも大事です。互いに尊重、尊厳を認める姿勢があってこその真の宗教性というものです。
反対に的な侵略的な宗教、戦争や喧嘩をする宗教は他の宗教まで弾圧するので宗教と言えません。思想団体と称されるものです。
優れた宗教は他の宗教性を尊重するものです。
某お寺では境内に神社のヤシロがありますが決して壊しません。
〇〇宗大本山〇〇寺ではかまどの神様であった荒神さまやアナグマ稲荷をお寺境内を守護する鎮守様として尊重しています。
他の宗教であったらとっくに壊されているところでしょうが共存しているのです。
昔ながらの土着の神様を尊重してあがめているわけです。
今の永平寺の禅師猊下の住職せられた豊川稲荷も稲荷様をまつっています。
日本のお寺にはそういう❝度量❞があります。
そういう姿勢は「あらそいがおこらない」ということです。
そういう争いや隔ての起こらない心でナムナムされることで、宗祖様やお釈迦様もお喜びになられるのではないでしょうか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

無言で拝むのが万能です…と無言を好む禅宗のお坊さんがボソッとつぶやいてみます
…と要らんこと言ったのは置いておきまして…

アレやったら間違い、コレやったら間違いと減点方式のお参りをするのではなく、
アレやったら有り難し、コレやったら有り難しと加点方式のお参りをしましょう。
そんなお参りが出来る人が増えれば、きっと住みやすい社会になるでしょう。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

こんにちは。

 数年前に、長野の善光寺さんにお参りに行ったとき、ガイドさんが、「善光寺さんは無宗派なので、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、はたまたアーメンでも良いですよ」と言ってました。そういう例外的なお寺もありますが、多くの人は神社では柏手を打ち、お寺では合掌、キリストの教会では指を組んでお参りすると思います。
 そういう意味では、日蓮宗のお寺さんに行き何かをお唱えするのであれば「南無妙法蓮華経」と唱えるのが良いと思います。
 尚、お寺のご本尊さまの前で何かをお唱えしなくてはいけない、という事ではありませんので、静かに手を合わせるだけでも良いと思います。宗派の分からないお寺さんをお参りすることもありますものね。
 
 ちなみに数珠は宗派によって違いますが、これをお参りする宗派に合わせる必要はないと思います。自分の信仰する宗派の数珠をひとつ持っていれば良いです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

良いですよ

カタチより キモチだと思います。

カタチは、所詮人間が決めたものです。

手を合わせてください。

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ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

日蓮宗のお寺なら南無妙法蓮華経とお唱えするのがいいと思います。浄土宗だからどこでも必ず南無阿弥陀仏と唱えなければならないというわけではありません。その場に合わせるのがいいと思います。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

悟りという目的へと向けて

Kimi3様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

宗派という違いはありますが、それは悟りへと向けた方便の違いであり、目指すべきところである悟りは同じとなります。

自分の宗派が一番、最高ということでもなく、仏様の教えである仏教として各宗派の教えも尊重することが大切となります。

各ところへ行っては、各ところの教えを尊重し、悟りという目的へと向けて学び修することが求められるものとなります。

是非、日蓮宗さんのお寺にお参りになられましたら、「南無妙法蓮華経」とお唱えになられて、その教えからも色々と学ばれて下さいましたらと存じます。

川口英俊 合掌

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