法灯明について教えて下さい
お釈迦様が入滅の前に弟子のアーナンダに自灯明、法灯明を教えましたが、私は今の世の中こそ、この教えをとても大切にする必要を感じてます。
私は、この、自らを灯とし、他者を拠り所にしないという教えを自分の人生に課しています。自分を理解した上で自らを律して、自分の力で立っていることをとても大切にしているつもりです。
しかしながら、社会の中で多くの人と関わりますが、情報がありふれて混迷するこの時代に、他者との関わり方も形を変えて複雑で多様になる為、自らをよりどころに自らを灯すことも難しく感じることがあります。
そこで、法灯明、法をよりどころに、仏様の教えを学ぼうと考えておりますが、仏教の教えに頼ることは、自らを拠り所にすることになるのでしょうか?法とは、どのようなことを指すのでしょうか?
私は人生で、困難や逆境を前にした時に、自分に自信がなくなり、生き方に、選択に迷いが生じることがあります。誰かに頼らず、自らの意思で乗り越えようと思うのですが、何かの道しるべがほしくなる時があります。
法灯明として仏様の教えに頼ることに、自分が考えることから逃避する恐れを感じるのですが、法灯明の法について教えて下さい。
何の教えを、どのように学び、どのように自分に取り込むべきでしょうか?また、その方法について、何かアドバイスがあれば教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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法でないものが元々ない
まず文字文言じゃ伝わらないと思いますから、一番は「法(仏法)を明らかにされた」坐禅会に参加するとよいでしょう。
東京ならば中野坂上の成願寺、恵比寿なら福昌寺の井上貫道老師の下で参禅されることです。
埼玉で良ければうちでも構いませんが。
わかるまで問答をすることです。
でないと、頭として・知識として「法らしいもの」を認知した、思考した、頭で理解として分かっただけになるだけで、自分自身が法そのものになりません。
法とは人間が人間の頭で思考を手段に思い付いた法ではありません。教科書仏教の教科書仏教本に書いてある「法」とはお気づきの通り「リクツ」「知識」としての法です。それは仏法ではなく人法。
人間は思考が優先されていると釈尊の言われるところの「法」がわかりません。
法とは人間の思考以前の事実すべて。
ダルマ―(法)は水の中にあって水はどこにあると求めるように今触れていることのすべてが法なのです。
私は今日は休日で子供をみなとみらいの遊園地に連れて行きました。
乗り物に乗ったらものすごく濡れたのですが、水をかぶる、濡れたということも法なのです。
ただ、濡れた。
ところが思考でものごとを優先的に見る人は事実を事実の通り、法を法のままに受け止めずに
「あー、濡れた」「どうしてくれるんだ」と騒ぐものです。
それは思考で物事を扱った世界。
人間は思考以前が元々法と等しく存在しています。
元々が人間の思考の色付けが行われる前のまっさらな世界です。
それを思考で探っても「なるほど、思考や考え以前に出会っている、今触れているものが法なのか」と頭で理解するだけに陥ってしまうのです。
自己が知覚・覚知するこの世界の大きな川に流れてくるすべてのものが法ならざるものなし。法でないものが無い。今思えていることも含めて元々が人間の見解、人間の思考のタッチを受けていない様としてあるのです。
考える、という手段は絶対に法を会得できません。
ですから、考えることをやめることは逃避でも何でもありません。
法を求める手段が間違っているというだけです。
私としては
自灯明とは自分の考えに従うことですが、だからといって煩悩にまみれた状態の自分の考えに従ってはいけませんよね。冷静で落ち着いた自分の考えに従わなければなりません。
ですから、冷静で落ち着いた自分を維持するために法灯明があるのです。
法とはお釈迦様の教えです。例えばダンマパダ(法句経)、あるいは阿含経典など。
そして、さらにその教えの根本にあるものは真理ですね。自然の摂理、諸行無常、諸法無我などですね。これらも広義では法なのです。
この法に基づいて考え行動する事で、冷静で落ち着いた自分を維持できるのです。
まあ、このように書くのは簡単ですが、実践となると難しいですね。
お互い精進しましょうね。
「自灯明 法灯明」
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「自灯明」とは、本来、自分を救えるのは、自分でしかないということになります。
自分の行い(業)の責任は、他の誰も取れません、例え、お釈迦様や阿弥陀様でも取れません。それは、自分で取るしかないのであります。
「自業自得」ということになります。
「法灯明」とは、その「業」を善くするための方法論ということになります。
喉の渇いている者に、あそこにその喉の渇きを癒せる泉があると教えてくれるのが、いわゆる「法」となります。
しかし、実際にその泉に行って、その水を飲むのかどうかは本人次第となります。
迷い苦しみに喘ぐ者に、その迷い苦しみを無くすための教えとして仏法があるわけですが、それを実践するかどうか、善き行いに励むことで、善き業を調えられるかどうかは本人でなければ、そこは誰にもどうにもできないというところとなります。
また、実際にその教えは、対機説法、善巧方便として、医者が患者の症状に応じて処方するように、治療法、薬もそれぞれで異なるようなものでもあるだけに、実際に自分に合うかどうかは、実践しながらに努めていくことも必要となります。
いきなりお釈迦様の後代において分派、特化された教えから入ろうとされるのではなく、まずは、仏教の基本的な教え、共通の教えとしての四法印、四聖諦からしっかりと学ぶことより始められると良いのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
三宅 聖章様
お答え頂き、有難うございました。ちくま書店の阿含経典を読んでみようと思いました。いろいろなお話を伺うと、教えに従い救いを請うのではなく、悩み考え自ら歩むことの大切さを説かれる方が多く、自分でそれを学ぶことからまず始めようと思いました。お答えを頂き、誠に有難うございました。
丹下覚元様
お答え、有難うございました。法について、座禅会などで学んでみようかと思いました。具体的なお寺や老師まで教えて頂き、有難うございました。どこで聞けばよいか分からず、調べる術すら悩んでいたところでした。 さて、とても難しいですね。思考以前のすべて、法というもの。おっしゃる通り、私のような存在は問答を続け少しでもたどり着けるように日々精進していこうと思います。私は川口ですが、埼玉なので、機会があれば伺うかもしれません。その際は宜しくお願い申し上げます。
川口英俊様
ご回答有難うございました。「自業自得」ですね。この世で自分の業を善くする為の方法であれば是非、学び悩んでいきたいと思いますが、対機説法、やはり自分にあったものを探すことが重要なのですね。アドバイスを頂きましたように、基本的な部分からしっかりと学んでいこうと思いました。有難うございます。
皆様へ
何から踏み出し、何から学ぶべきか、興味や意欲が高まりますが、まずは、教えて頂いたことを、ひとつずつ、身に付けられるよう努力してまいります。有難うございました。