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慈悲とは、共感、広い心?

こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。

私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。

題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。

仏教
有り難し 54
回答 5

質問投稿日: 2018年4月29日 12:40

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

「無所縁の慈悲」

L.M様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の慈悲は、他の苦しみを自分の苦しみとして捉えて、どうにかしてその苦しみを無くしてあげたい、救ってあげたいという心にて行うところとなりますが、それには、「無所縁の慈悲」と申しまして、慈悲を行う側も、慈悲を受ける側も、また慈悲の行為にも、「実体が無い」という「空性」を理解した上での功徳が求められるところとなります。

この「無所縁」を「三輪清浄」や「三輪空寂」とも表現しますが、もちろん、「空」と言えども、何も無いということではなくて、あくまでも「実体が無い」ということで、慈悲を行う側、慈悲を受ける側、また慈悲の行為においては、例えば因縁(原因と条件)によっての効果的作用というものはありますが、そのいずれにも実体視して囚われてしまってはいけないということを示すところとなります。

どうしても、利他行(あるいは自利行も含めて)を行う際に、「これをしたから、これが報いとしてあるはずだ」というような見返りを求める欲の心、煩悩の心を持って、その行いをしてしまう場合があります。

それでは、真の功徳にはならないということに気を付けることが必要となって参ります。

ただ、最初から煩悩を完全に排除した功徳など、私たち凡夫においては、とてもできるものではなく、少しずつ、仏教を修習しながらに、努力して煩悩を少なくしつつ、囚われを外しつつに行なえるように調えていくことが大切となります。

「愛」の実践というものも、仏教と同様に「無所縁の愛」として行うものであるならば、仏教と大差はないものではないだろうかとは存じます。

川口英俊 合掌

22日前

カルチャショックで学んだ慈悲の心

インドの仏教遺跡を訪問。お経を読経し供養の旅を経験しました。
今でも、インドでは、カースト制が残っており、シュードラ(奴隷)の地位の人達は日本の縄文時代の様な家に住み、生活環境もすこぶる悪く、カルチャーショックを受けました。
この情景を目にして、まず心に憐れみと悲しみが湧き涙がにじみました。そして、何とか救ってやりたいという慈しみの心がとどみなく、頭をよぎると共に胸が痛くなりました。この心境こそ、現代の文明が進んだ国の日本人であれば、お釈迦様でなくても、抱くであろう「慈悲の心」と確信しました。所が我々と違い、非凡のお釈迦様は哀れみ慈しみの心が高揚され、カースト制度に矛盾を感じ衆生を救われと欲して、立ち上げられたのが仏教であると思いました。中村元訳 岩波文庫「ブッダのことば」や「ブッダの真理のことば・感興のことば」には、バラモンは人間として最高の聖者であることを認めながら、「生まれによって<バラモン>となるのではない。生まれによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのであると述べられています。また、苦しみもがく人間をも哀れみに思われ、仏教に取り入れ、苦の現象をつき止めて、その解消策を経典にし、布教されました。慈悲の心は人間、誰もが持つ最高の心である仏性であるとお悟りになり、この心を持って「世の為、人の為」尽くすことにより、住みやすく、より良い世の中になることをお示になりました。残念ながらインドでは広まらず、東南アジアや東アジアの国に伝搬し、日本も仏教国として現在に至っています。

20日前

呻き

ご質問を拝読させて頂きました。
実は私も捉えかねているのですが、今のところの私見を申します。
色んな書籍を読むと、大乗と上座部で捉え方が違うように感じます。大乗のほうが大らかに捉えているというか定義が広いです。これは慈悲の言葉に限らず、仏教術語全般に言える事だと思います。
一方で、上座部ではもっと厳密に、慈悲は悟りの風光からもたらされると表現されます。
つまり、死という究極の苦しみを克服した先に悟りがあり、そこに至って初めて、まだ悟りに至っていない衆生に対して心からの憐れみの情が湧いてくるという事です。
なので、悟りに至らないと真の慈悲ではないと極言される方もいます。
たぶん論理的には、子を失った親の苦しみは、同じく子を失った親しか分からないように、自分が経験していない苦しみは、真の意味で理解する事は出来ない。その中で死苦は究極の苦である。だからこそ、それを克服して悟りに至った者は衆生すべての苦を理解する事が出来る。という事かなと勝手に解釈しています。

ただ慈悲の原語であるパーリ語の「メッター(慈)」と「カルナー(悲)」はそれぞれ「友」と「呻き」という意味を持ちます。
だから、私は「呻き声をあげるような苦しみを味わった者は、同じ境遇の者に心を配ることが出来る」と理解しているので、悟りに至っていない者でも自らが経験した苦しみの範疇で、心を配ることは慈悲だと思っています。
それを悟りに至った方から、「そんなもん真の慈悲じゃねー!」と言われれば、それはそうかなとも思いますが。
重ね重ね申しますが、あくまで浅学の私見です。ご参考程度にご覧下さい。

21日前

慈悲といっても様々ですが

慈悲という言葉はいろんなところでいろんな意味で用いられます。そのなかにはキリスト教の愛に近い使い方もあるのでしょう(キリスト教をまったく勉強していませんし、仏教のすべてを学びつくしているわけでもないので断定的には言えません)。

ただ、愛と違う使い方の典型は、広い意味で困っている人を助ける博愛ということではなく、迷っている者を覚りに導こうとする心という用法です。仏教は、仏さまの教えであると同時に仏になる教え、つまり成仏に至るための教えなので、迷いの闇のなかで苦しんでいる者を仏にさせて救おうとするのが慈悲ということです。真に苦しんでいる者を救うためには仏にさせるしかないわけです。この文脈で働くのが慈悲ですね。

さて、慈悲は慈と悲なのですが、慈は悲より積極的かつ具体的な行動をともなうような心です。仏法を教えようとする心とでもいいましょうか。これに対して内面的に迷いの中にある苦しんでいる者のありようを覚りの智慧にてらして悲しむ心です。あくまで例えですが、跳び上がって木の枝に引っかかってもがいている者を救おうとしたとき、ひざを曲げて状態を丸めるのが悲で、跳躍して手をいっぱいに伸ばすのが慈と表現できるかと思います。

慈悲には衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の三つがあります。衆生縁の慈悲は自分に縁ある具体的な誰かに注がれます。要は親兄弟や知人などです。法縁の慈悲は省き、無縁の慈悲は仏さまの慈悲で、この場合の縁は対象の意味で、誰彼という対象がなく水が上流から下流に流れるように救おうという思いがなく自然に働く慈悲とされます(初めての方には理解しづらいかも)。

22日前
回答僧

大慈

応病与薬

慈悲とは辞書的に言えば「抜苦与楽」(ばっくよらく)です。苦を抜き楽を与える。楽とは楽しいの楽ではなく、安楽。心の平穏です。つまり究極的には、慈悲は悟ること&悟らせること。

ここまでは単純明解。問題はここから。
共感すること?人の為に祈ること?と列挙していくと、それらは全て正解であり、全て間違いです。

キリスト教ではまず聖書という絶対のお手本があり、聖書の教えを実践できるように目指しますね。

でも仏教は目の前の相手の目線に合わせてやる事を判断します。例えば人の為に祈るのは基本的には慈悲です。しかし一昨年だったかな?ダライ=ラマは「中東での戦乱のために祈るのはやめなさい!『この件については』戦乱を止めるための具体的なアクションを起こさなきゃダメです!」とおっしゃっていました。
つまり慈悲とはこうする事!とルール化したらダメなんですね。でもケースバイケースでルール化すべき時も…
これを病に応じて薬を与える、「応病与薬」(おうびょうよやく)と言います。お坊さん泣かせのスタイルです。ケーススタディとしては(つまり表面的には)経典の時点で矛盾だらけです。

とは言え、究極的には悟りというのはどこで何しても同じ。結局、その行いを何のためにするか?という方向性が大切なんですね。その方向性は「出家者を支援してフィードバックしてもらう」or「自分が悟る(悟りを目指す)」で体得していきます。

それを踏まえて結局、慈悲って何なの?と言うと、「自他の分別を取っ払うこと」です。つまり以前のご質問で書きました「繋がり」です。
https://hasunoha.jp/questions/26499
俺が俺がの〔個〕の生き方から、【繋がり】の在り方へ帰る。その上で具体的に動くという【個】に戻る。

まぁ、これでいきなりナルホド!と思えたら逆に怪しかったりもするのですが…特に最後の部分。
仏法とは「霧の中を歩くと袖が自然と湿るように」人から人へと自然に感化され、伝わるものと言われます。ぜひお坊さんとの出会いを大切になさって下さいね。

最後に蛇足ですが、みんなで大きな1つという繋がりからの【個】というのは、神の意志の完成と私の使命という感覚に、やっぱり別物ではあるんですけど親近感は湧きますよね。いや、やっぱりこういうこと書くとミスリードしちゃうかなぁ…

21日前

質問者からの有り難し - お礼

川口英俊様
いつもありがとうございます。慈悲とは、他人の苦しみを自分の苦しみとして感じて何とかして助けたいと思う心 – ここまではわかりました。無所縁の慈悲の無所縁のイメージが難しいけれど、もしかして無償ということでしょうか….なかなかついていかれなくてすみません。確かに、見返りを考えた時点で人間のビジネスっぽくてもう仏様の慈悲ではなくなっていそうですね。

仏教の考えは一切の執着を諦めれば苦しみが無くなる究極の方法だと人から聞いたことがあります。お坊様のお言葉ではないので事実と違っていたらすみません。私は、全部諦めたら愛もなくなっちゃうじゃないの….と思いました。この場合の愛は恋愛系ではなくて、人間を助けたいと思う気持ちのことです。これがなくなったら、助けられなかった時の苦しみはなくなるけど生きがいもなくなってしまいます。本当に煩悩を全部なくせたらすごいけど、もう人間らしくなくなってしまうのかなとか、仏教に関して考え出すともうきりがないです。知りたいと答えを求めるのも煩悩なのかもしれないけど....それでもいつも教えてくださってありがとうございます。

藤岡俊彦様
仏教的な慈悲と他でもたまに使われる慈悲という言葉と区別がつかなくなってしまっていた感じなのですが、苦しんでいる者を悟らせて救うことが慈悲というご説明でやっとああそういうことか、とわかりました。ありがとうございます。衆生縁とか法縁まではついていかれなかったです....すみません。一度に理解するのは私には難しいです。それでも、説明してくださってありがとうございます。もう少し勉強が進んだら理解できると思う。

柳原貫道様

友と呻きという意味だったのですか、それでイメージし易くなりました。ありがとうございます。究極の苦を経て悟りに至った者からでなくとも、同じ呻き声をあげるような経験をした友からの心配りは慈悲と呼んでもよいのではないかということ - そうかもしれませんね。私は自分と全然違う境遇の人に同情されてあなたの気持ちわかるわとか言われると、おなかの中が煮えるような感じになります。慈悲深い言葉をかけてくれた人に対してそんな気持ちになってはいけないから、感情を抑えて気遣いに感謝するようにしているけど….本当のとこ、あなたの気持ちがわかるって自分では絶対に他人に言わないセリフです。

慈悲とは仏教の大きな特徴の一つだと思って、理解したくて色々考えていて迷ってしまったところを、新しい視点でのご説明ありがとうございました。

大慈様
親切に読み仮名をつけてくださってありがとうございます。実は読み方わからなかったんです。抜苦与楽、ここまでは理解できました。

繋がりの話、初めて聞いた時に比べたら何となくそういうものなのかなと思えるようになりました。でも、それから個に戻って行動するという時点でもう私の理解力や想像力の限界を超えました….やっぱり無理だったか、とがっかりされましたか?でも本当に難しくて。以前ハスノハでお坊様に紹介していただいた私向けの易しい本をアマゾンで注文してもうすぐ手に入るから、私まずそれを読んで勉強するんです。それでもわからなかったら、質問させてください。仏教はキリスト教に比べてつかみどころがない感じがして難しいです。でも勉強し始めてよかった。

(不殺生戒について)
おととい掃除していてうっかり小さな虫を潰してしまったのだけど、あっごめんねという気持ちに初めてなりました。罪悪感を持てば正解とかそういうわけではないけれど、少なくとも害意を感じることが減ってきたみたいでよかったと思います。

清水道心様
慈悲を感じた体験のお話、ありがとうございます。仏様の慈悲は無限で無償、と今までのところ私は想像していますが、人から人への慈悲もあると思います。インドに行かれたことがあるのですね。昔、素朴で気立ての優しいインド人の友達と一緒に暮らしたことがあるのですが、思い出して何だか懐かしくなってしまったので、久しぶりに連絡してみようかと思います。身分差のお話は、確かに彼女がいつだったか少し話していた記憶があります。当時本人が悲しんでいたからこっちから深く色々訊きだそうと思えなかったけれど、本当に根強い階級制度があるのですね。

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