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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

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こんにちは。
前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」
の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。

この部分は十二縁起についての言及との事ですが、
十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると
根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死)
と、言う事でしょうか。

私の考えでは、この部分について般若心経は
「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」
(「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」)

けれども
「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば)
全てが、かけがえのない真実と分かる」
(「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」)

と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように
思うのですが如何でしょうか?
字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、
これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。

この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、
腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、
本は読んでないですが)
中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。
般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」
とバッサリ斬っている書籍もあります。
そんな単純なものでもないと思うのですが・・・

解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。
何だかマニアックな質問になってしまいすいません。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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諸法空相についての展開

こんにちは!

切るところにスペースを入れますと、
無 無明 無 無明尽  となります。

つまり、「無明!は無く、無明が尽きる!ということも無い」となります。

どういうことかといいますと、本来、「無明」というものが実在しているのわけではないのだから、「無明が尽きる」ということも、成り立たないでしょう、ということです。

龍樹風にいえば、すでに尽きているものが、さらに尽きるということは不合理であるから、とも言えますね。

もう少し補いますと、般若心経では、諸法(ダルマ,ブッダの教え)というものが、空であるんだよ~、教えという言葉に実体があるのではなく、一切衆生を導くための香りのようなものなんだよ~ということが説かれているのでしょう。

私が般若心経で説かれていることの意味を痛感したのは、たとえば、われわれお坊さんは、とりあえず仏教の教えというのを説きますね。たとえば、「諸行無常です!」と説くこともあるでしょう。

さて、そこで問題になるのですが、それを聴く人は、「諸行無常です!」といわれて、「あぁ、ほんとうだ」と納得できるかといえば、そうとは限らないですよね。

諸行無常  というこの言葉の中に、諸行無常を理解させるような実体があるわけではない、と、ここでわかりますね。

人が諸行無常を真に知るときは、大切の人の死に直面したり、愛する人が老いていく姿をみたり…そういった、ありのまま(諸法実相)をみたときに、「諸行無常なんだなぁ」と、法(教え)に出会ったりするのでしょう。

ですから、仏教を広めるということは、ただ仏教用語を使うということではないんですよね。

般若経では、仏教用語(法)を「空」であるとみて、それらの「無明」とか「煩悩」といった用語にこびれついた手垢のようなものを取り除いてくれようとしているのでしょう。

人のためになるように、自由自在に!言葉を使うことが出来ているとき、それを「法」と呼び、その様を「空」というのでしょう。こういう人にとって、仏教用語というものは存在せず、また、仏教用語でないものはひとつもないとも言えましょう。

菩薩を志した大乗の人たちは、釈尊の教説から、こういう背景、論理構造を見事に抜き出しました。

ぎゃーてーぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわかー

空の言葉で終わります。

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菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうにすばらしい教えだと思います。...
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「無」とは❝認識上にのぼらない❞の意

無を「無い」と訳すとへんてこりんな方向へ行ってしまうとおもいます。
アリながらになくナイながらにある。
部屋の隅っこに目を向けてみませう。
ちゃんと存在してるのに忘じられていた。
見てるもの、聞いているモノ、香るもの、味わい、感覚、想念…、
その時それを感知・知覚・感受した時は確実にこの身にそれが生ずる。
確実にこの身に生じた言っても即、それを離れる。即離の法則。即離といってもそれも一方から眺めたもの。此方からみれば「今、真新しいことに出会って・生じている」ともいえるでしょう。ですが、それも認知。認識。振り返りというアタマの眺めなのです。
今の真実実相という体感はたとえそれを高速実況中継をしても間に合わない。
当時も訳語、言葉が足りなかったのだろうと思います。
その分、体感している人が多かったから、そのぐらいの情報でも用が足りた時代だった。
訳というものは、体感者が訳さないと言語的な死に訳にしかならないものです。
たとえ解説上手の池〇彰さんでもこれを訳そうとするとまるで別物にされてしまう。
世にある般若心経の訳本の多くは訳したい人や本を出したい人たち訳されたものですから、ものによっては訳しきれていないものも多いです。
調理をしたことが無い人がレシピ本を書いても語れない。
演奏者でない人が楽曲の評論をしてもどうしても分かったような気になって評論する。
お経本の訳も同じことが言えましょう。
禁断トークと言えば禁断トークかも知れませんが、仏教学者さんたちはそれで食ってるもんですから、割とテキトーな人もいるもんです。
そのニュアンス、その感覚、そのフィーリングをあらわすのに「無j」や「空」というワードでしか当てられなかったから後世の人は困惑するのでしょう。
言語から理解しようとしても般若心経はわかりませんでした。
体験・体感が無いと「ああ、これか。」「ああ、このことか。」と会得できませんでした。
自己の働きを分析知で眺めれば十二因縁という説明が成り立つ。
ところが「実相」はどうでしょう。そのような分析思考や哲学的な説明とは別のことをしているはずです。箸を持ち上げるのにもお茶を飲むにも無明や老死ということがあってもそれを取り上げていないでしょう。不識、不知、不思量なる時には一切を空じているのですから認識上にのぼらない。生じないのです。それが法相。法の様相。悟りの眺めなのです。

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背景知識も一緒に

(閲覧者さん向けに前回のご質問を貼っておきますね)
https://hasunoha.jp/questions/26599

いや、十二縁起そのものですよ。古い世代の学者さんは滅茶苦茶な人が多いです。ワタシャ実際に東南アジアの上座部で修行して「何でこんなに今まで聞いてた話はことごとく嘘っぱちなんだ!?」と腹が立ちました。あの人たちは経典を元に図上演習をして「大乗や上座部はこうなっているハズだ!」と想像していたに過ぎません。あと単純に専門外の人がしゃしゃり出て専門家ヅラして小遣い稼ぎしただけの本も莫大にあります。

さて、かなりの文字数になってしまいますが、十二縁起についてはこちらの私の回答をご覧ください。それに沿って書きます。
https://hasunoha.jp/questions/26295

まず無明尽はこれで1つの単語くらいに思った方が分かりやすいです。要するに無明の逆が無明尽なんですね。だから平たく読めば「NOじゃない、同時にYESでもない」と同じ論理で「無明100%ジュースでもなく、また、無明0%ジュースでもない」ということです。

これはどういうことかと言うと、結局のとこ、「この状態は無明100%だ。あの境地は無明0%だ」みたいに考えること自体が、十二縁起で言うところの「取」に当たるわけです。つまり「評価や取捨選択の煩悩」。
その評価というものを所得(俺のモン!)しちゃってるわけなんですね。「そういう発想が当たり前になっている自分の心の習慣(十二縁起で言う有。言い換えると業)に気付き、止めちゃいなさい」という話なわけですから、やっぱりその読み方はミスリードなんです。

じゃあどう読むかと言うと、結局のとこ言いたいことは「無明0%とか100%とか脳みそでどう考えようと、本来は空だぞ」という話ですから、「無明は本来、空。亦、無明尽も本来、空。脳みその中でストーリーを展開しなさるな(遠離一切転倒夢想)」なわけです。
ここに於いて「無=空=全」なんですよ。
https://hasunoha.jp/questions/3160

だから結局、ギャーテーギャーテー云々の『あえて訳していない部分』が般若心経の核になるわけです。渇愛でもなく、取でもなく、読んで読んだまんま、聞いて聞こえたまんま。それが仏の心だから。あるいは誰かのためにお経を上げる真心が菩薩の心だから

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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般若心経の「無」は実体の否定

詠春童子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

般若心経が、繰り返し「無」にて否定しているものは、「実体」というところとなります。

「実体」とは、他に依らずに、そのものがあたかもそれ自体において独立自存的に成り立っているようなもののあり方のことを申します。

その「実体」は否定されても、十二縁起の「縁起」は否定されるものではないのであります。

「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 は、実体としての「無明」も「無明尽」も、「老死」も「老死尽」も無いということで、縁起としてでは、「無明」も「無明尽」も、「老死」も「老死尽」もあるということを示しているのであります。

そして、実体としての「四諦」もなければ、「智慧」も無い、「得る悟り」も無いとしてますが、否定されているのはあくまでも「実体」であって、「四諦」も「智慧」も「得る悟り」も(縁起としては確かに)あるのであります。

倶生の諦執(生まれながらにして、自分や顕現しているものが実体的にあるかのように囚われを起こしてしまっていること)により、どうしても実体として、それらがあるかのように囚われを起こしてしまっている中では、いくら仏道修行を進めていっても、悟りへと至れることはないのだよ、ということを、般若心経では示されているのであります。

十二縁起は非常に大切な教えであります。大乗仏教の祖でもある龍樹大師も根本中論において、そのまま重要な教えとして示されておられますので、大乗仏教でも大切な教えであることは変わりありませんので、しっかりと理解して参りたいところとなります。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私のミスリードだったようで、お恥ずかしい事ですが
般若心経や12縁起、空について色々考える
きっかけとなりました。感謝いたします。

柳原貫道 様
>「そもそも無明はないから、尽きようがない。」
目から鱗が落ちました。まさに卓袱台返しをくらった気分です。(良い意味で)
また無明は言語作用との龍樹の言説も、ハッとしました。
少し教条的と思ってた12縁起でしたが、それぞれの点が一本の線で繋がるような感じです。
ご教授ありがとうございます。

Shunkai 様
>すでに尽きているものが、さらに尽きるということは不合理
うーん、さすがの龍樹ロジックですね。(龍樹マジックと言うべきか)
無明、煩悩と言った仏教用語から手垢を取り除くと言う事、参考になりました。
手垢を除いた後に残る、空の真言。まるで爽やかな風が吹く感じです。
大変貴重な示唆、有難うございます。

川口 英俊 様
実体としては存在しないが、縁起としては存在しているという事、
奥が深いですね。「倶生の諦執」肝に銘じておきます。
そしてまたもやの龍樹!やはりここはきちっと押さえて
おかなければと痛感しました。ご指摘ありがとうございます。

丹下覚元 様
禁断トーク、有難うございます。読む書籍も慎重に選ばなければなりませんね。
私は少し理屈に傾いているので、諸法実相と言うか、
あえて考えない、「知覚以上認識未満」の訓練も必要かと感じました。
ご指摘ありがとうございます。

大慈 様
0か100と言う判断をしない、無私の境地。(この場合、無俺と言うべきか)
大変参考になりました。無俺の境地、日々意識して実践したいと思います。
未だに上座部仏教が軽視されがちな事は、私も疑問を感じています。
具体的な話からの貴重な示唆、有難うございます。

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