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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

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有り難し有り難し 67

こんにちは。
前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」
の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。

この部分は十二縁起についての言及との事ですが、
十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると
根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死)
と、言う事でしょうか。

私の考えでは、この部分について般若心経は
「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」
(「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」)

けれども
「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば)
全てが、かけがえのない真実と分かる」
(「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」)

と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように
思うのですが如何でしょうか?
字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、
これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。

この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、
腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、
本は読んでないですが)
中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。
般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」
とバッサリ斬っている書籍もあります。
そんな単純なものでもないと思うのですが・・・

解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。
何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

2018年5月18日 0:27

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諸法空相についての展開

こんにちは!

切るところにスペースを入れますと、
無 無明 無 無明尽  となります。

つまり、「無明!は無く、無明が尽きる!ということも無い」となります。

どういうことかといいますと、本来、「無明」というものが実在しているのわけではないのだから、「無明が尽きる」ということも、成り立たないでしょう、ということです。

龍樹風にいえば、すでに尽きているものが、さらに尽きるということは不合理であるから、とも言えますね。

もう少し補いますと、般若心経では、諸法(ダルマ,ブッダの教え)というものが、空であるんだよ~、教えという言葉に実体があるのではなく、一切衆生を導くための香りのようなものなんだよ~ということが説かれているのでしょう。

私が般若心経で説かれていることの意味を痛感したのは、たとえば、われわれお坊さんは、とりあえず仏教の教えというのを説きますね。たとえば、「諸行無常です!」と説くこともあるでしょう。

さて、そこで問題になるのですが、それを聴く人は、「諸行無常です!」といわれて、「あぁ、ほんとうだ」と納得できるかといえば、そうとは限らないですよね。

諸行無常  というこの言葉の中に、諸行無常を理解させるような実体があるわけではない、と、ここでわかりますね。

人が諸行無常を真に知るときは、大切の人の死に直面したり、愛する人が老いていく姿をみたり…そういった、ありのまま(諸法実相)をみたときに、「諸行無常なんだなぁ」と、法(教え)に出会ったりするのでしょう。

ですから、仏教を広めるということは、ただ仏教用語を使うということではないんですよね。

般若経では、仏教用語(法)を「空」であるとみて、それらの「無明」とか「煩悩」といった用語にこびれついた手垢のようなものを取り除いてくれようとしているのでしょう。

人のためになるように、自由自在に!言葉を使うことが出来ているとき、それを「法」と呼び、その様を「空」というのでしょう。こういう人にとって、仏教用語というものは存在せず、また、仏教用語でないものはひとつもないとも言えましょう。

菩薩を志した大乗の人たちは、釈尊の教説から、こういう背景、論理構造を見事に抜き出しました。

ぎゃーてーぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわかー

空の言葉で終わります。

2018年5月18日 9:36
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有り難し
おきもち

田舎のお寺の副住職です。 菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうに...

「無」とは❝認識上にのぼらない❞の意

無を「無い」と訳すとへんてこりんな方向へ行ってしまうとおもいます。
アリながらになくナイながらにある。
部屋の隅っこに目を向けてみませう。
ちゃんと存在してるのに忘じられていた。
見てるもの、聞いているモノ、香るもの、味わい、感覚、想念…、
その時それを感知・知覚・感受した時は確実にこの身にそれが生ずる。
確実にこの身に生じた言っても即、それを離れる。即離の法則。即離といってもそれも一方から眺めたもの。此方からみれば「今、真新しいことに出会って・生じている」ともいえるでしょう。ですが、それも認知。認識。振り返りというアタマの眺めなのです。
今の真実実相という体感はたとえそれを高速実況中継をしても間に合わない。
当時も訳語、言葉が足りなかったのだろうと思います。
その分、体感している人が多かったから、そのぐらいの情報でも用が足りた時代だった。
訳というものは、体感者が訳さないと言語的な死に訳にしかならないものです。
たとえ解説上手の池〇彰さんでもこれを訳そうとするとまるで別物にされてしまう。
世にある般若心経の訳本の多くは訳したい人や本を出したい人たち訳されたものですから、ものによっては訳しきれていないものも多いです。
調理をしたことが無い人がレシピ本を書いても語れない。
演奏者でない人が楽曲の評論をしてもどうしても分かったような気になって評論する。
お経本の訳も同じことが言えましょう。
禁断トークと言えば禁断トークかも知れませんが、仏教学者さんたちはそれで食ってるもんですから、割とテキトーな人もいるもんです。
そのニュアンス、その感覚、そのフィーリングをあらわすのに「無j」や「空」というワードでしか当てられなかったから後世の人は困惑するのでしょう。
言語から理解しようとしても般若心経はわかりませんでした。
体験・体感が無いと「ああ、これか。」「ああ、このことか。」と会得できませんでした。
自己の働きを分析知で眺めれば十二因縁という説明が成り立つ。
ところが「実相」はどうでしょう。そのような分析思考や哲学的な説明とは別のことをしているはずです。箸を持ち上げるのにもお茶を飲むにも無明や老死ということがあってもそれを取り上げていないでしょう。不識、不知、不思量なる時には一切を空じているのですから認識上にのぼらない。生じないのです。それが法相。法の様相。悟りの眺めなのです。

2018年5月18日 14:40
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おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

卓袱台返し

ご質問を拝読させて頂きました。
大乗仏教は自らを正当化させるために、上座部仏教教説を卓袱台返しする傾向があります。
例えば、法華経では、釈尊が「私の事死んだと思ってたでしょ?残念、本当は生きていました!(久遠実成)」とこれまで教えをひっくり返す事を主張しています。
般若経はその傾向が顕著です。
上座部において十二支縁起は実体化した過去・現在・未来の三世にまたがり、十二項目を配当して考えています。
それに対して、空の大成者である龍樹は、言語は我々の行為の結果でしか無いと主張しました。
例えば、椅子は私たちが座るから椅子であり、座らなければ椅子でも何でもない。椅子自体に実体はない。それなのに、椅子という名称が独り歩きして、あたかも行為の主体者と独立したものとして存在していると我々は錯視をしていると言う事です。これは現在の脳科学でも言われている事ですね。
だから、十二支縁起に関わらず、解脱も業も煩悩も分析的な思考により、名称が与えられた時点で実体視同然であると断じているのです。
その事を踏まえて読んでみるとわかります。
「そもそも無明はないから、尽きようがない。」となります。
アンチテーゼにはなりません。
お気付きかもしれませんが、龍樹は無明を言語機能だと言っています。そのように置き換えて十二支縁起を読むと、あなたの理解する十二支縁起はそれに近いと思います。

2018年5月18日 8:39
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おきもち

臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。

背景知識も一緒に

(閲覧者さん向けに前回のご質問を貼っておきますね)
https://hasunoha.jp/questions/26599

いや、十二縁起そのものですよ。古い世代の学者さんは滅茶苦茶な人が多いです。ワタシャ実際に東南アジアの上座部で修行して「何でこんなに今まで聞いてた話はことごとく嘘っぱちなんだ!?」と腹が立ちました。あの人たちは経典を元に図上演習をして「大乗や上座部はこうなっているハズだ!」と想像していたに過ぎません。あと単純に専門外の人がしゃしゃり出て専門家ヅラして小遣い稼ぎしただけの本も莫大にあります。

さて、かなりの文字数になってしまいますが、十二縁起についてはこちらの私の回答をご覧ください。それに沿って書きます。
https://hasunoha.jp/questions/26295

まず無明尽はこれで1つの単語くらいに思った方が分かりやすいです。要するに無明の逆が無明尽なんですね。だから平たく読めば「NOじゃない、同時にYESでもない」と同じ論理で「無明100%ジュースでもなく、また、無明0%ジュースでもない」ということです。

これはどういうことかと言うと、結局のとこ、「この状態は無明100%だ。あの境地は無明0%だ」みたいに考えること自体が、十二縁起で言うところの「取」に当たるわけです。つまり「評価や取捨選択の煩悩」。
その評価というものを所得(俺のモン!)しちゃってるわけなんですね。「そういう発想が当たり前になっている自分の心の習慣(十二縁起で言う有。言い換えると業)に気付き、止めちゃいなさい」という話なわけですから、やっぱりその読み方はミスリードなんです。

じゃあどう読むかと言うと、結局のとこ言いたいことは「無明0%とか100%とか脳みそでどう考えようと、本来は空だぞ」という話ですから、「無明は本来、空。亦、無明尽も本来、空。脳みその中でストーリーを展開しなさるな(遠離一切転倒夢想)」なわけです。
ここに於いて「無=空=全」なんですよ。
https://hasunoha.jp/questions/3160

だから結局、ギャーテーギャーテー云々の『あえて訳していない部分』が般若心経の核になるわけです。渇愛でもなく、取でもなく、読んで読んだまんま、聞いて聞こえたまんま。それが仏の心だから。あるいは誰かのためにお経を上げる真心が菩薩の心だから

2018年5月18日 21:33
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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

般若心経の「無」は実体の否定

詠春童子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

般若心経が、繰り返し「無」にて否定しているものは、「実体」というところとなります。

「実体」とは、他に依らずに、そのものがあたかもそれ自体において独立自存的に成り立っているようなもののあり方のことを申します。

その「実体」は否定されても、十二縁起の「縁起」は否定されるものではないのであります。

「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 は、実体としての「無明」も「無明尽」も、「老死」も「老死尽」も無いということで、縁起としてでは、「無明」も「無明尽」も、「老死」も「老死尽」もあるということを示しているのであります。

そして、実体としての「四諦」もなければ、「智慧」も無い、「得る悟り」も無いとしてますが、否定されているのはあくまでも「実体」であって、「四諦」も「智慧」も「得る悟り」も(縁起としては確かに)あるのであります。

倶生の諦執(生まれながらにして、自分や顕現しているものが実体的にあるかのように囚われを起こしてしまっていること)により、どうしても実体として、それらがあるかのように囚われを起こしてしまっている中では、いくら仏道修行を進めていっても、悟りへと至れることはないのだよ、ということを、般若心経では示されているのであります。

十二縁起は非常に大切な教えであります。大乗仏教の祖でもある龍樹大師も根本中論において、そのまま重要な教えとして示されておられますので、大乗仏教でも大切な教えであることは変わりありませんので、しっかりと理解して参りたいところとなります。

川口英俊 合掌

2018年5月18日 12:12
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おきもち

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私のミスリードだったようで、お恥ずかしい事ですが
般若心経や12縁起、空について色々考える
きっかけとなりました。感謝いたします。

柳原貫道 様
>「そもそも無明はないから、尽きようがない。」
目から鱗が落ちました。まさに卓袱台返しをくらった気分です。(良い意味で)
また無明は言語作用との龍樹の言説も、ハッとしました。
少し教条的と思ってた12縁起でしたが、それぞれの点が一本の線で繋がるような感じです。
ご教授ありがとうございます。

Shunkai 様
>すでに尽きているものが、さらに尽きるということは不合理
うーん、さすがの龍樹ロジックですね。(龍樹マジックと言うべきか)
無明、煩悩と言った仏教用語から手垢を取り除くと言う事、参考になりました。
手垢を除いた後に残る、空の真言。まるで爽やかな風が吹く感じです。
大変貴重な示唆、有難うございます。

川口 英俊 様
実体としては存在しないが、縁起としては存在しているという事、
奥が深いですね。「倶生の諦執」肝に銘じておきます。
そしてまたもやの龍樹!やはりここはきちっと押さえて
おかなければと痛感しました。ご指摘ありがとうございます。

丹下覚元 様
禁断トーク、有難うございます。読む書籍も慎重に選ばなければなりませんね。
私は少し理屈に傾いているので、諸法実相と言うか、
あえて考えない、「知覚以上認識未満」の訓練も必要かと感じました。
ご指摘ありがとうございます。

大慈 様
0か100と言う判断をしない、無私の境地。(この場合、無俺と言うべきか)
大変参考になりました。無俺の境地、日々意識して実践したいと思います。
未だに上座部仏教が軽視されがちな事は、私も疑問を感じています。
具体的な話からの貴重な示唆、有難うございます。

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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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般若心経とキーマカレー

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 63
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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

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