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老死→生→有→取→渇愛、今のところここまでが限界みたいです

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有り難し有り難し 36

おはようございます。苦の生起と消滅の観察なのですが、お暇な時に、もしよかったら教えてください。老死から無明まで(十二支縁起説)を一気に理解するのはちょっと無理で、今回渇愛のところで立ち止まりました(五支縁起説)。間違えていたら直していきたいです。

老病死の苦があるのは生まれたから(生まれたらいつか死ぬ)

有があるから生がある(有は境遇のようなもので、そういう立場に生まれた、みたいな?)

取があるから有がある(自分の境遇を受け取る)

渇愛があるから取がある(渇愛とは求める心で、名前や形のあるもの、自己を追い求めて自分のものにする)

この渇愛が消滅すると老病死の苦が消滅する。自分の立場とか手に入れたもの、自分を示すものを求める心がなくなると苦しみがなくなる、ということでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

教科書の看板娘が地雷という罠

この辺はガンガン読み飛ばした方がいいですよ。
私が紹介した教科書で言うとp.128に「すべては縁起している」という項目があります。これが縁起の結論でありメッセージなわけで、個々の項目はそれを論証するためのロジックに過ぎないわけです。だから三支縁起、四支、五支とか色んなバージョンがあるわけで…

それに教科書では理論の十二支縁起、実践の四諦八正道という風にセットで紹介するのが定番です。しかし実はコイツが地雷で、八正道は本来、四念処→四正勤→四神足→五根→五力→七覚支→八正道というカリキュラムの最後に当たるものなんです。さらにこれは戒→定→慧の最後の慧にあたり、それ以前に出家して正しい師の下で身に付けなければならない…という代物です。
各縁起説の一支一支の項目も本来、禅定による内観の中で実感していくものであり、理屈で理解するものではありませんしね。

その辺をスッ飛ばして階段の最後の一段だけ紹介する教科書の構成って、僕はもの凄く問題アリアリだと思うんです。結局スッ飛ばすなら大乗仏教の方が完成されてるじゃん、何のためにアンチ大乗してたんだよ…っていうね。おまけに今の学者さんは十二支はお釈迦さま直伝ではなく、上座部による編集の完成形って言ってる始末ですし。

「私は在家ですが独学で八正道をしており…」と言っている人がよくいますが、この一言だけで八正道の禁止事項(独学)も前段階の修行も全部スルーした、八正道を全然実践してない人と分かってしまうのです。そういう勘違いを日本中に常態化させた昔の学者さんは本気で反省せねばなりません。ありゃただの俺分かってるんだぜアピールです。本気で仏教を伝えようとする人が取るべき手法ではありません。

こういう事情があってお坊さんは教科書をお勧めせず、読み物系をお勧めすることが多いということは押さえておいて下さい。単語の理解よりも仏教的な発想を身につける、つまり仏教的センスを身に付けるのが大切です。
もちろん教科書も目の付け所を間違えねばセンスを磨くのに役立ちますけどね。

と、前置きが長くなりましたが書けるときに書いておかないと書けるかどうか分かりませんので(笑)本題は↓の回答をご覧下さい。
https://hasunoha.jp/questions/26295

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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私が学んだことは、下記の通りですが、私自身も理解に苦しい点が多々あります。参考までに。

老死とは、老い衰えること、命が終わることであり、生によって起こる。
生とは、生まれることであり、有によって起こる。
有とは、欲界、色界、無色界に存在することであり、取によって起こる。
取とは取著であり、欲に対する執着、我に対する執着、戒に対する執着、など何かに対する執着であり、愛によって起こる。
愛とは渇愛であり、物、声、香り、味、感触、想像に対する渇愛であり、受によって起こる。
受とは感覚であり、目で見て美しいなどと感じたり、耳で聞いて心地よいなどと感じたり、鼻で嗅いで香ばしいなどと感じたり、食べて舌で美味しいなどと感じたり、身で触れて硬いなどと感じたり、想像して楽しいとか苦しいとか感じたり、という様々な感覚であり、それらは触によって起こる。
触とは接触であり、目による接触つまり見ること、耳による接触つまり聞くこと、鼻による接触つまり嗅ぐこと、舌による接触つまり味わうこと、身による接触つまり触れること、意識による接触つまり想像することなど。それらは六処より起こる。
六処とは認識であり、目の認識つまり見えること、耳の認識つまり聞こえること、鼻の認識つまり嗅ぐことができること、舌の認識つまり味が分かること、身の認識つまり触れることができること、意識の認識つまり想像できること。これらは名色より起こる。
名色とは五蘊ともいい、心と体のこと。これらは識によって起こる。
識とは識別であり、目による識別をしようとすること、耳による識別をしようとすること、鼻による識別をしようとすること、舌による識別をしようとすること、身による識別をしようとすること、意識による識別をしようとすること。これらは行によって起こる。
行とは意思による動きであり、身による行い、口による行い、心による行いがある。これらは無明によって起こる。
無明とは無智ともいい、四諦八正道を実践しないことである。

つまり端的に言えば、四諦八正道の実践によって老死は滅するということです。
四諦八正道の実践とは、山奥ではなく、日常生活の中にこそあると言われています。
あなたが、明るく、正しく、仲良く、生活していくこと、そこに答えがあると思いますよ。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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理屈では学べない!

LMさん、こんにちは。

 凄いですね。十二支縁起を頭で理解しようと思ってできるものではありません(笑)。それは理屈であって、実践項目ではないからです。実践してから振り返って分析のための教えなので、そこの理屈を頭で考えても無理なのです。

 たとえば、LMさんも計算の時に電卓を使うと思いますが、なぜ電卓が答えを出すかはコンピュータの計算原理はわからないと思います。わからなくともボタンを押すことで答えの結果をもらっているわけです。仏教の教学もそれと同じで、まずは実践してみる。そして答えをもらうことが大切です。それができたら、なぜ答えが出るのか中身を調べて見るのも良いでしょう。
 まずは笑顔で挨拶をという実践の教えをもらったら実践してみる。笑顔で挨拶をすれば、いろんな人付き合いの展開が変わります。それを何年も続けると、LMさんは笑顔の挨拶をする素晴らしい人だと信頼が生まれる。自分が十二支縁起を知っていようがいまいが、知らず知らずに十二支縁起は働いているわけです。

 すると自分の実践体験を通して、十二支縁起がわかるようになります。そこから応用編で、逆に自分から理論で十二支縁起を使って物事を見ることができるようになるのです。

 いろんな仏教宗派があるので、そのテキストの目的がわかりませんが、私はそのように理解して仏教教理を学んでいます。

参考までに。合掌

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質問者からのお礼

大慈先生、読み飛ばすって言ったってそんなぁ....と思いながら数ページ先をめくってみたら、四聖諦と八正道が同じ章の少し先に載っていました。すみません、一つ一つ言葉の意味を理解しようとして最初のほうでつまずいてしまったみたいです。全体がわかっていらっしゃる先生から見たらそんな感じだったのですね。やっぱり訊いてよかったです。ありがとうございます。

リンク先で大慈先生がまずご説明していた、自分というものがあると思っているから他人は他人、自分は自分って....これまさに私がやっていることで思い当たり過ぎて笑ってしまいました。我ながらどうしようもないです。私は、イエスが人にはこうしなさいと言われたとかこれをしてはいけないと言われたという教えで自分の素行を抑えていただけだ、と最近気がつきました。信仰がないともっと悪い人間になってしまうから手放せないという感じです。お寺で座禅を組んで性根を叩き直してもらったら悪い心が少し変わるかと思ったけど、本性だからどうしょうもないのかな....。

仏教は教科書を読んでもやっぱりつかみどころがない感じが残ります(でもちゃんと読み通します)。答えがふわふわした感じ、何とかならないものだろうかと思っていたのだけど、仏教は感覚が大事なのですね。

三宅聖章先生、無明まで丁寧に説明してくださってありがとうございます。
仏教は内観的な感じがするから、きっと自分の内面を正せるのではないかと前から思っていたんです。特に苦の観察の章を読んで理解できれば自分の心の状態がつかめるようになるんじゃないか、と少し期待していました。でも、やっぱり難しいですね....。

わけあって今はあまり正しく生活できていないけれど、頑張ってみます。良い方向へ行かなきゃって頑張り過ぎるとそれが強い執着として余計に苦を生み出してしまうかもしれないけど、まだ自分にできることあるからやってみたいんです。

染川智勇先生、こんにちは。おっしゃる通り、仏教は理屈では学べない感じがすると最近思い始めていました。わかり易い例えをありがとうございます。もちろん教科書は大切に全部読み通しますが、実践を通してふとあれはこういうことだったんだ....と気づくのかな、と思います。色々あるうちに私は悪い実践(素行)の積み重ねを作ってしまったけれど、良い先生(ここのお坊様方のことです)と機会に恵まれたのはありがたいことだし、仏教を学び始めたのを機に自分の内面を正していく時期なのではないかと思っています。

合掌(これは何の意味があるんだろうとかまたつい考えてしまうのだけど、考え出すとこれは?あれは?となるので今はやめておきます)

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YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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