生まれたら死ななきゃいけない約束
こんにちは
何度か「死への恐怖」について質問させていただいてます。
あれから自分でも哲学書を読んだり宗教やオカルト、脳科学、神経科学などを調べてみましたが、自我や意識、記憶についてますますわからなくなって来ました。
死んで自我や意識が失われることが一番怖いです。
海外では死後蘇生のため遺体の冷凍保存や意識をネットワーク上にアップロードして不死を得るような試みがされています。
ただ、神経科学的には肉体と精神は不可分であり、死ねば意識が失われ、その意識自体も個体を生存させるための幻という説が出ています。
私はますます怖くなってしまいました。
「自分」というものを失いたくないです。日々変容していますが、確かにここに存在しているのです。死にたくない、滅びたくない、眠るのがこわい、と思ってしまいます。
病院で不安障害と診断されましたが、治ればそんなことを思わなくなるのでしょうか?
何度もしょうもない質問をしてしまってすみません。ただ、怖くて仕方がないのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なぜ怖いのか。それは本当に怖れるべきものか。
全くしょうもない質問などではありません。とても大事な問いです。この問いをごまかすと誰もが不安を抱えたままであり、時には人生が虚しく感じてしまうものともなるでしょう。
しかし一つ疑問があります。
自我や意識が失われること、自分が失われることがなぜ怖いのでしょうか。
失われずに永遠に存在していたいとしたらそれは何故でしょうか。
ちなみに仏教では「自我」や「意識」、つまりは「心」やあるいは「肉体」あるいはまた別の「何か」など、特定の本体をもって「自分である」とは考えません。
そして死についても、仏教では死後世界が「有る」ととらえるのも邪見(間違った見解)とし、「無い」ととらえるのも邪見とします。そうした「有無の見」を超えて「中道」をいくのが仏教です。
あなたは怖いから存在していたのか、存在していたいから死ぬのが怖いのか、そしてなぜ存在したいのか。
ごまかしたり、漠然としたもので済ましてしまったりすることなく深く深く問い確かめていきましょう。
あなたの先祖も死んでいきました。歴史上の偉人たちも死んでいきました。名もなき人々(あなたが出会うことも見聞きすることもなかった人)も死んでいきました。
その人たちの生の意味は死で失われたでしょうか。あなたは彼らから何一つ何かを受け取っていないでしょうか?あなたは次の誰かに渡すものを何一つ生み出していないでしょうか?
これは子孫を残すとか、社会で役に立つとかそういう問題ではありません。
誰のどんな人生でも、あなたがあなたにとっての意味を見出す限り、そこから大事なものを受け取ることが出来ます。
自分が大事なものを受け取っていることに目が覚め気がついた時、あなたはあなたの死にも大事な意味を見出していくことができるのではないでしょうか?
妄想雑念
今考えても仕方ないことは、今考えないようにしましょう。
過去や未来について妄想雑念を膨らませても、何の得にもならないでしょう。
目な前の現実を大切にしましょう。
もちろん、生き物はみな、死が怖いのです。
動物はいつも天敵に気を配っています。
しかし、危険が差し迫っていないときには、死を忘れることも必要です。
「今考えても仕方ないことは、今考えない」
と心の中で確認するようにしましょう。
円満
拝読させて頂きました。
あなたが眠っているときに様々な思いや夢があるように亡くなったとしてもあなたの心 魂はあるのですからね。
それも安心して穏やかにあなたは存在するのです。
仏様にお任せなさってくださいね。
あなたがその人生を心豊かに皆さんと幸せに充実して生き抜いていかれ素晴らしい天寿を全うなさていかれますように、そして亡くなられてからも必ず仏様に導かれていかれ心から安心して穏やかになられ円満な心 魂となられてご成仏なさっていかれますようにと心よりお祈りさせて頂きます。
ちなみに仮に自分だけが死なないならばもっと怖いかと思いますね。限りある時間限りある人生ですから大切にできるのですからね。
死後の意識の有無を考えるよりも大切なことがある。
私の愛する人たちが往ったあの世は、どんな世界なのでしょうか。もしかしたら、私たちの意識はなくなるのかもしれません。もしかしたら、私たちの意識は残るかもしれません。それは私たちにはわからないのです。そのようなことは、わからないように出来ているのです。わからないように出来ている、ということは、実は、死後の意識の有無などは重要ではない、ということではないでしょうか。お釈迦様も「無記」と言って、死後の世界の有無については答えられなかったそうです。
でも、浄土教では死後の世界として、極楽浄土という世界を説いているように思うかもしれません。極楽浄土は、悟りの世界であり、死後の世界という限定されたものではありません。また、この世だけに限定される世界でもありません。ですから、極楽浄土は、死後の世界としても説かれるのです。(つまり、極楽浄土=死後の世界ではありません。極楽浄土=悟りの世界です。)したがって、死後の世界において、私の意識がどうなるか、ということを考えることよりも、今をどう生きて、将来、悟りの世界である極楽浄土に生まれて往くか、ということを考えることが大切ですよ、と浄土教は教えてくださっているのです。
「三身修道」
ごん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ごん様だけではなく、「死」に対する恐怖は皆どこかで持っているのではないだろうかと存じます。
拙生も以前は持っておりましたが、今ではある意味で、「楽しみ」に待っているところがございます。
その大きなきっかけとなりましたのは、「チベット生と死の書」(ソギャル・リンポチェ大師/講談社)、「ゲルク派版 チベット死者の書」(ヤンチェンガロ大師/学研文庫)の二つの本の内容であります。
以来、ご仏縁もあり、チベット密教、無上瑜伽タントラを学び、更には、ダライ・ラマ法王様より無上瑜伽タントラ・チッタマニターラ尊灌頂を拝受することができ、以後、成就法の実践において、死の過程を悟りへと向けた修行として利用する「三身修道」についても修行を進めている次第でございます。
そうする中で、やがては当然にやむなくに死を迎えますが、その死の過程が一つの楽しみになってきております。
もちろん、だからと言って、今の尊く有り難い、仏道を修するに最適となる有暇具足としての生をないがしろにしては、うまく死の過程を修行に役立てることなどできなくなるため、その点は十分に気を付けないといけません。
いかに死の過程を経るのか、また、どのように死の過程を仏道修行に役立てるのか、上記の二書と共に、「秘密集会タントラ概論」(平岡宏一先生著/法蔵館)においても是非、理解を深めて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答くださりありがとうございます。
私は世の中がこれからどんどん変わっていくのに、それをいつまでも見られないのが残念です。
同時にいままで何人の人が地球上で亡くなってきたかと考えるとぞっとします。わたしたちは誰かの死の上に立っていると思うと怖いです。
宇宙とか死とか考えるとわあああ!となってしまいます。
今は不安障害の治療に専念して、それから死生観についてじっくり考えようかな、と思います。
人生いつも不安だらけでしたのでこれを期に方向転換していけたらなぁ、と思います。