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勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

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有り難し有り難し 36

こんばんは

最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で
「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず
「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます

例を挙げると

1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている
「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。
即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある
教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる
信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない


2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし
これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの
については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか 

3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう
勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります
法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは
間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか?

矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

学べば学ぶほどに、仏様に照らされた自分が明らかになってくる。

こんばんは。亀山純史と申します。私自身も仏様の教えに耳を傾ける者として、浅学ながら、回答させていただきます。

1.第41願について
「他方国土の菩薩」とは、「他方国土」つまり、「阿弥陀仏の極楽浄土以外の仏様の悟りの世界」に住する菩薩さまたちでしょう。それに対して、「信心を得た人を菩薩」と申しても、それは「迷いの世界」に住する菩薩ということです。「必定の菩薩」の「必定」とは、裏を返せば、「まだ迷いの中にある」ということです。
そして「信心決定した人は五体満足である。」という見方はありません。もしも、「信心決定した人は五体満足である。」ならば、目が見ない人が信心を得たならば、目が見えるようになるはずですが、そのようなことは起こりません。またもしも、「信心決定した人は五体満足である。」ならば、所謂、障がいを持った人は信心を得ることが出来ない、ということになってしまします。しかし、阿弥陀如来の本願においては、そのような身体的なことが信心の有無にかかわってくることはありません。

2.正法を謗る者は救われないと18願に書いてあることについて
本当の親というものは、どんな我が子をも見捨てることはありません。しかし、見捨てることはなくても、「こんなことをしたら許しませんよ。」という発言はありますよね。十八願の「正法を謗る者は救われない」という文言も、そのような阿弥陀如来のお心を表したものと言えるでしょう。

3.最後に。
「勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。」とは、勉強する前の自分よりも、勉強している今の自分のほうが、実は、自分自身、仏様の願いに照らし出されている証ではないでしょうか。阿弥陀如来の願いとは、「〇〇だから救われない自分」にこそかけられた「願い」なのです。そういった願いに、これからも耳を傾けていきましょう。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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疑ってもいいのですよ。
南無阿弥陀仏と唱える、ただそれだけで誰もが救われるのです。
信じていても疑っていても救われるのです。
阿弥陀仏は名前を呼ぶ全ての人を救おうとされているのです。
名前を呼ぶことは南無阿弥陀仏と唱えることなのですから。
救いを求めて唱えてもいいし、救いに感謝して唱えてもいいですからね。
あなたが念仏を唱えれば、それは信心の証なのですからね。
南無阿弥陀仏

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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疑いを持つことは誠に大切でございます

のち様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

浄土真宗さんではないため、最初の二つの問いそれぞれへの回答は差し控えますが、疑いを持つことは誠に大切でございます。

拙生も、疑いから、一から仏教を学び直すことにより、論理的、合理的にも理解を進めることができ、より信心を高めて、より納得して仏教を修習していけるようになりました。

焦らずに、経典はもとより、先師方による論書、註釈書等も頼りとして、しっかりと納得できるまで、確かめていかれますことをお薦め申し上げたいと存じます。

三つ目の問いのことですが、如来の教えには、了義(真理そのままの教え)と未了義(真理とは別に真理へと至るために説かれた教え、方便の教え)があり、字義どおりに捉えては、誤解してしまうこともございます。いったい、どの教えが、了義であり、どの教えが未了義であるのか、そのあたりの弁別は非常に難しいところがございます。

一つの視座としての参考としては、チベットのツォンカパ大師が著わされました「了義未了義・善説心髄」がございますので、そちらを学ばれますのも。(但し、唯識の章と中観の章があり、それぞれ訳文、解説があるにはありますが、入手は難しいかもしれません・・中観の章「ツォンカパ 中観哲学の研究2」(文栄堂)・唯識の章「インド唯識説の研究」(文栄堂)。でもあと数年内には、全体の訳・註が出るのではないだろうかと考えています。)

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗のお念珠を教えて頂きたいです。

私は真言宗のお坊さんを目指している中学生です。 将来おばあちゃんが亡くなった際、おばあちゃんは浄土真宗(代々の)で供養し、 私と母は真言宗に改宗して、おばあちゃんのお墓は墓じまいする。と決めました。 (おばあちゃんと母は苗字が違います) お寺とのお付き合いもないので、おばあちゃんの葬式は新しいお寺さんになるかと想像しています。 しかし浄土真宗は浄土真宗です。私達が真言宗でもお墓参りと法事にはしっかり浄土真宗で臨みたいね。と母と話しました。 そして私は来年高野山の高校(通信)に行きます。急に仏教学校に入りたいとお願いし、認めてくれて応援してくれた。今まで育ててくれたお礼に、仏教好きな私なりに、お念珠をプレゼントしたいと考えています。 その際、今後使える真言宗の念珠+ おばあちゃんの供養や墓じまい後のお参りの時に使える浄土真宗の念珠をプレゼント予定なのですが、 Amazonで見ていて、いいのは見つけましたが2連の念珠が多いように感じます。 しかし浄土真宗本願寺派や真宗大谷派は公式には略式念珠、単念珠を紹介しています。 しかし葬儀サイトにはみな女性用は2連なんです。 そこでお聞きしたいのは、お坊さん的に浄土真宗の女性用のお念珠は2連なのか単念珠なのか、どちらをおすすめだとお考えでしょうか。 西本願寺、東本願寺共にサイトで2連は蓮如結び、単念珠なら松房と書いていたので、そのものを購入予定です。

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厭離穢土欣求浄土の意味

「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。 凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。 ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。 できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。

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私の宗派は、選民思想の厭世主義?

 いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。  前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。  なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。  お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。  これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。  しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。  確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。  しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。  だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか?  それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか?  浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ