勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう
こんばんは
最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で
「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず
「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます
例を挙げると
1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている
「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。
即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある
教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる
信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない
2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし
これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの
については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか
3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう
勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります
法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは
間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか?
矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
学べば学ぶほどに、仏様に照らされた自分が明らかになってくる。
こんばんは。亀山純史と申します。私自身も仏様の教えに耳を傾ける者として、浅学ながら、回答させていただきます。
1.第41願について
「他方国土の菩薩」とは、「他方国土」つまり、「阿弥陀仏の極楽浄土以外の仏様の悟りの世界」に住する菩薩さまたちでしょう。それに対して、「信心を得た人を菩薩」と申しても、それは「迷いの世界」に住する菩薩ということです。「必定の菩薩」の「必定」とは、裏を返せば、「まだ迷いの中にある」ということです。
そして「信心決定した人は五体満足である。」という見方はありません。もしも、「信心決定した人は五体満足である。」ならば、目が見ない人が信心を得たならば、目が見えるようになるはずですが、そのようなことは起こりません。またもしも、「信心決定した人は五体満足である。」ならば、所謂、障がいを持った人は信心を得ることが出来ない、ということになってしまします。しかし、阿弥陀如来の本願においては、そのような身体的なことが信心の有無にかかわってくることはありません。
2.正法を謗る者は救われないと18願に書いてあることについて
本当の親というものは、どんな我が子をも見捨てることはありません。しかし、見捨てることはなくても、「こんなことをしたら許しませんよ。」という発言はありますよね。十八願の「正法を謗る者は救われない」という文言も、そのような阿弥陀如来のお心を表したものと言えるでしょう。
3.最後に。
「勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。」とは、勉強する前の自分よりも、勉強している今の自分のほうが、実は、自分自身、仏様の願いに照らし出されている証ではないでしょうか。阿弥陀如来の願いとは、「〇〇だから救われない自分」にこそかけられた「願い」なのです。そういった願いに、これからも耳を傾けていきましょう。
疑ってもいいのですよ。
南無阿弥陀仏と唱える、ただそれだけで誰もが救われるのです。
信じていても疑っていても救われるのです。
阿弥陀仏は名前を呼ぶ全ての人を救おうとされているのです。
名前を呼ぶことは南無阿弥陀仏と唱えることなのですから。
救いを求めて唱えてもいいし、救いに感謝して唱えてもいいですからね。
あなたが念仏を唱えれば、それは信心の証なのですからね。
南無阿弥陀仏
疑いを持つことは誠に大切でございます
のち様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
浄土真宗さんではないため、最初の二つの問いそれぞれへの回答は差し控えますが、疑いを持つことは誠に大切でございます。
拙生も、疑いから、一から仏教を学び直すことにより、論理的、合理的にも理解を進めることができ、より信心を高めて、より納得して仏教を修習していけるようになりました。
焦らずに、経典はもとより、先師方による論書、註釈書等も頼りとして、しっかりと納得できるまで、確かめていかれますことをお薦め申し上げたいと存じます。
三つ目の問いのことですが、如来の教えには、了義(真理そのままの教え)と未了義(真理とは別に真理へと至るために説かれた教え、方便の教え)があり、字義どおりに捉えては、誤解してしまうこともございます。いったい、どの教えが、了義であり、どの教えが未了義であるのか、そのあたりの弁別は非常に難しいところがございます。
一つの視座としての参考としては、チベットのツォンカパ大師が著わされました「了義未了義・善説心髄」がございますので、そちらを学ばれますのも。(但し、唯識の章と中観の章があり、それぞれ訳文、解説があるにはありますが、入手は難しいかもしれません・・中観の章「ツォンカパ 中観哲学の研究2」(文栄堂)・唯識の章「インド唯識説の研究」(文栄堂)。でもあと数年内には、全体の訳・註が出るのではないだろうかと考えています。)
川口英俊 合掌