死にたい気持ちを変えたい
私は世間的に認められた状態でなければ恥ずかしくて生きていたくありません。家族もまたそうです。
ただ、辛い事が、とても辛く感じ、誰もが出来る事を私にはできません。
死んだ方が楽に感じます。
母や兄にも迷惑をかけたくないし悲しませたくはないので、社会から消えて行方不明となり死のうかと思っています。そうすれば気にさせる事も無いかと思うので。
この暗澹たる気持ちから抜け出す事はできないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まず、止まっている所に安らぐ。
普通になりたい。普通が嫌だ。
死にたい、死にたくない。
私も昔経験しましたが、これは、定まりを求めているのだと思ってください。
考えの上での安定は効果がない。
事実の世界は無常ですから、とどまりがないのです。
私はチョイデブですが、チョイデブに安住しています。
体重は変化しますが、その変化する自分に安住しています。
昔は、太っちゃいけないと思っていました。
学生時代はいくら食べても太らないから太りたいと思っていました。今さら夢がかないました。(ToT)
今の中途半端な自分に安住してみてください。
つぼみはつぼみで今の真実。
無理して咲かなくていいと元大本山総持寺の野田大燈老師、現・四国の仙人サマはお示し下さいました
「安居」という言葉があります。
あなたは遠くばかり見ている。比較ばかりしている。
今、そこに、安住してみてください。
一呼吸、ひと呼吸は、早めようとも、ゆっくりやろうとも思っていないでしょう。
これから先のウンタラウンタカは今妄想することではないです。
私はあなたの今のつぼみを最高に讃えますよ。
どうせホメられ認められるんなら、嘘のない、娑婆っ気の無いホンモノの人間から認められた方がいいですよ。
あなたを自分で見てください。
「ニセモンから認められようと努力した結果」が「今あなたは苦しみを持っている」んだから。
それは信じるに値しない妄想の一種なのです。
「死にたい」の正体は怒りの煩悩
「死にたい」の正体は怒りの煩悩なのです。
自分や社会の現状に対して「嫌だ」と思う怒りがあるから、死にたいと思うわけです。
一方、怒りがあるからといって、本当に心底生きることへの欲がなくなったわけではないはずです。
つまり、「死にたい」というのは幻の思考で、実際には死にたいのではなく、ただムカついている感情があるだけです。
悲しみや嫉妬も怒りです。怒りは暗くドンヨリした感情なのです。
怒りの背景には、欲・怠け・プライドなどの煩悩もあります。
昔の王様よりもマシな生活、いいものを食べているかもしれませんが、昔の人とではなく現代の周りの人と自分を比べたくなるプライドの煩悩があるから、怒りにつながるのです。
まずは、自分の煩悩に気づくことが大事です。
例えば、怒りがない人なら、あなたと同じ状況でも平気で安らかに暮らせるでしょう。
自分の心が変われば悩みは消えるのです。
「よく、いかり、なまけ、ぷらいど」と唱えて心の中の煩悩をスキャンしてみましょう!
気づくだけで、煩悩は力が弱まるはず。
勝たなくていい
昔話にウサギとカメが競走する話があります。
あなたに当てはめると、あなたはカメでしょう。
あなたの周りはウサギばかり。
ウサギにとって普通の事があなたにはできない。
当然です。あなたはカメなのですから。
でも、その競走は最後にカメが勝ちました。
ウサギが昼寝したから勝てたのでしょうか?
もちろんそれもありますが、むしろ大切なのはカメが諦めなかったからです。
マイペースに一歩一歩前に進んだからです。
現実には昼寝しないウサギもいるので、カメが勝つとは限りません。
しかし、マイペースに一歩一歩前進すれば必ずゴールに着きます。
あなたの場合は、一歩一歩前進する事は、少しずつ少しずつ働く事となります。
あなたのペースでいいのです。
非正規でもバイトでも、ボランティアでも、できる範囲で働きましょう。
仕事をするという事は、誰かの為に動く事になり、それは社会に貢献する事に繋がります。
社会に貢献しているという自信に繋がります。
また、仕事すればお金が貰えます。
そのお金で生きていく事が出来れば、それもまた自分で生きていけるという自信に繋がります。
そうして少しずつ自信が付いていけば、もう周りのウサギは気になりません。
あなたはあなたらしく歩んでいけるでしょう。
ウサギに勝たなくていいのです。
あなたが一歩一歩前進することを応援します。
気持ちを変えるために・・
はら様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
自殺企図をお持ちでいらっしゃいますこと、誠におつらいことでございます・・
少しでも、そのお気持ちがhasunohaの問答にてで和らいで頂けますと有り難いことでございます。
私たちは、色々と比べだすと、あれはこうだ、これはああだと、正直、キリがありません。
嫉妬、羨み、卑下、劣等感、コンプレックス・・これらは全くプラスにならない負の感情であり、いわゆる煩悩の類となります。
また、辛いことを辛く感じることができるならば、逆に、裏返せば、幸せなことは、幸せと感じることができるということでもあります。
何が幸せかも分からなければ、感謝の気持ち、報恩の気持ちも分からない、有り難さも分からないというものとなります。
「辛」いことに、何か一つプラスになることを加えてあげれば、字の如くに「幸」せになることができます。
そのプラスのヒントが、仏教にはたくさんございます。是非、この機縁から仏教について関心を持って学んでいって頂けれましたらと存じます。
「死んだ方が楽に・・」・・そう思われていらっしゃるのでしたら、それは間違いであると、はっきりと申し上げたいと存じます。
私たちの死後の赴きを左右するのは、何よりも自分の行い、「業」となります。
業の因縁(原因・条件)次第では、また、この迷い苦しみの世界へと輪廻することになってしまうこともあり得ると考えます。
安楽・安穏なる世界、悟り・涅槃の世界、仏様の世界、浄土の世界など、死後のより善い赴きへ向けても、もちろん、そのための因縁が必要であり、そのより善き赴きへの因縁のために、仏教の習修が必要となります。
どうか、「死にたい」ではなく、「生きれるだけ生きて、善い因縁となる行いに励もう」と思われてみて下さいませ。きっとご仏縁の助けも頂いて、気持ちも変わっていくのではないだろうかと存じます。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌