自殺することは罪なのでしょうか
ハッキリ言うと 死にたいです。
自分には悪い性格というのがあって、我慢が出来ない
正直に本当のことを言ってしまう(相手にとって嫌なことでも)
その性格が子供のころからず~と続いていて、あるとき
ADHDという言葉を見かけて検索してみると
自分の悩んでいた問題がそれに当てはまることを知りました。
頭がいい訳でもなく、人とトラブルになりやすいです。
友達もハッキリ言うと自分の悪い性格のせいでいません
仕事をしていても 人との会話が苦手で問題ばかりで辞めてしまう
どうしてもうまくいきません
ハッキリ言って致命的なくらいに
人は自殺をすると罪という言葉が根強くあって死にたいという気持ちの反面
死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます。
自分は死後の世界について インターネットを利用して沢山調べました。
臨死体験、前世さまざまな事例について
今では人は死んでも魂というものがあると関心はしていますが今悩んでいる死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ないです。
かといって自分の生まれ持った悩みは一生変えられません
どうしたらいいのかという答えは間違いなくないでしょう
死んで人生をもう一度生まれ変わりでやり直したいのに
どうしていいのかまったく分かりません
世の中を見てみると 戦争、貧困と不幸な人、そうでない人がいますが
動物の世界は喰うか喰われるかの命にかかわる世界
自分はそれを見ると、まだ不幸じゃないんだと思う時期もありました。
だけど自分の持つ悩みが自分を苦しめている現実からは逃げることは出来ません
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自死・自殺は、罪ではありません。
「質問者からのお礼」が届いた後ですが、1点だけお伝えしたいので回答します。
以前、浄土真宗本願寺派(お西)の教学伝道研究センターは、原始仏典と大乗仏典にさかのぼり仏典を読み直し、自死に関する数百カ所を分析しました。その結果、釈尊は自死について価値判断をしていないことが判明しました。例えば「雑阿含(ぞうあごん)経」にヴァッカリという弟子の話があり、重い病の苦しみから死を考える彼を、他の弟子たちは献身的に介護する。釈尊はどう仏法を学んでいたかを問うのみ。結局、ヴァッカリは自死するが、釈尊は弟子たちの前で「亡くなり方」そのものについて非難していない。かといって自死を容認している訳ではなく、釈尊が死を考えている弟子に対応する場面などでは「生きていてほしい」との強く願っておられました。
毎日生まれ変わっています
大変な人生を歩んでこられたのでしょうね。
今後も色々胸の内を全部打ち明けてください。
私は敵ではありませんので、何でも話してください。
このサイトは沢山の和尚さんがあなたの悩みを読んでくれます。
悩みは公言しただけで半減すると言ってもいいでしょう。
あなたは人生の中で打ち消し&打ち消され、自己否定の連続だったのでしょうね。
その結果自分を愛せなくなって、信じられなくなってしまった。
でも本心は肯定されたい、認められたい、でも周りがそうしてくれない。苦しいでしょうねぇ。ご安心ください。ぶっちゃけADHDに当てはまる人はほとんどです。特殊なものとして考えなくてよろしいと思います。診断表みて何でもかんでも「あ、こりゃ自分だ」と、結び付けちゃダメ。アレはあなたに薬を売るための釣りだと思えばいいですよ。
無責任な人間は勝手に人間に病名つけてしまいますから、その手法にばかされない冷静さも大切ですよ。営業妨害になりますので、これはあなただけに申しあげることです。
あなたには優れた資質があります。瞬時にいろいろな事に関心を持てるということです。
自分にとって本当に必要な事が何かを見分けることができる力です。
自分の本当の姿を求めるべきです。
分類屋はあなたの事をADHDだのなんだの命名するでしょうが、心というものは常に変化をしています。生まれ変わっているのです。今、こうしている時もきちんと私の回答をゆっくりと冷静に読んでいられるでしょう。人間の心は名前なんかに縛られない自由な在り方なのです。それが仏教です。
24時間ずっと悩んでいるわけではないでしょう。
嫌なことも言われたでしょうが、いま、耳は今の音しか聞こえていないでしょう。
フラッシュバックが起きても、体のどこかから血が出てるわけでもないでしょう。
あなたの心は今後も大きく、生まれ変わります。
それは、自分の思いに傷つけられないぞ、という強い決意を持つことによってのみ、変わります。
★他人の暗示にかかってはいけません。
☆自分の暗示にかかってはいけません。
そんなものただの脳内情報です。実態はありません。つかみようもない影にも劣るオモイノチラツキです。多くに人間がそのチラツキをリアルだと思ってばかされているのです。
あなたはあなた自身の思いにばかされなくなりたいと願うべきです。
それによって人生が幸せになります。
小さなコトから はじめましょう
「全身」というハンドルネーム、
あなたの身、全身が苦である、という意味でしょうか?
「死にたいです」と言いながらも
「死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます」
「死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ない」
まだまだ「生」への執着・葛藤があるみたいですね。
どんな人も大小はあれど、みんなそんな気持ちを心の片隅に持っています。
「生」への気持ちがあるうちは大丈夫!
「悪い性格というのがあって、我慢が出来ない 正直に本当のことを言ってしまう」
対話が苦手でトラブルメーカーになってしまうと言うなら、
今の人間関係を対話で修復することに苦心すると、
返って悩みが大きくなるかもしれません。
そこでまず、「小さな親切」的なことから始めてみては如何でしょう。
道で転びそうな人がいたら、そっと手を差し伸べる。
お年寄りの重い荷物を持って一緒に歩いてあげる。
「行動」のみであなたの優しさを示す。対話なんか必要ないです。
若しかしたら相手に疎ましがられる事も多いかも知れません。
でも何回か繰り返すうちに、
「ありがとう」
の言葉を頂くはずです。
それこそ、あなたの「全身」が優しさに満ちるときです。
仏教は「利他」のこころを説いています。
自分の利益「自利」より、他の利益「利他」を優先するように行動する。
結果としてそれが自分の利益になって戻ってくるのです。
自分がトラブルメーカーだと思い込んでいても、
そのあなたの気付かぬうちに、
言葉ではなく行動で
そっと手を差し伸べてくれた人は
必ずいたはずです。
今度はあなたが、言葉ではなく行動で
そっとやさしさを表わしてみて下さい。
光が見えてきますよ。
「自殺」に関して・・
前進様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「自殺」に関するご質問・・これまでも幾つかございましたが、誠にナーバスな難しい問題であり、回答させて頂く側におきましても非常なる慎重さが求められるものであるかと存じております。
まず・・
問い「自殺してはいけない理由」
http://hasunoha.jp/questions/330
その中の拙回答における見解から、無明・煩悩による原因での自殺は、やはり、「悪業」となってしまい、次の輪廻に悪い影響を及ぼすことになるのは避けられないであろうというのが基本的な拙生の考え方となります。かと言って、無明・煩悩によらない自殺があり得るのかと言いましても、非常に難しいとして、問い「自らの死について」 http://hasunoha.jp/questions/98 における回答にて、少しこのことを述べさせて頂いております・・
正直に、「自殺することは罪なのでしょうか」のお答えとしては、「無明・煩悩による原因での自殺は、罪=悪業となる可能性が非常に高いため、とても勧めることはできない」と拙生はお答えさせて頂きたいと存じております。
また、下記の問いでは、輪廻との関連についても少しだけ述べさせて頂いております。
問い「躁鬱病と乳ガンによる治療拒否」
http://hasunoha.jp/questions/282
御礼欄にて、「釈尊についてチョット調べてみました。」とございますが、誠にそれこそが解決へ向けた大きな「前進」への第一歩であるかと僭越ながらにも存じております。この機会から是非ともに仏教の学びを少しずつでも進めて頂けましたら誠に有り難いことでございます。きっと前進様の苦しみを癒やすことのできる教えとも出会えるのではないかと存じております。下記の問答の拙回答もご参照下さいませ。
問い「これからどうすべきか。助言をください。」
http://hasunoha.jp/questions/457
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
日本という国は本当に平和だな~と感じています。
なぜかというと 一部の国は戦争で無慈悲に人が殺され、食べるものが少なくて餓死して死んでいるとこもあります。そういった人を思うと心が痛むことがあります。そんな姿の中でもこれが自然の姿であることは自分には分かります。光があれば陰が出来るように
宗教の教えの中に輪廻転生という言葉があります。 20年くらいまえですか゛NHKの臨死体験という番組をみて死後の世界があるのかなと思うようになりました。そして生まれ変わりの記憶を持つ子供たちとか、インターネットでいろいろと調べていきました。
人は死んでも魂というものが生まれ変わり成長していくということがあるのではと思うようになりました。
そうすると世界で起きている戦争、貧困という姿がまるで生き地獄のように見えてしまっているのです。
自分は死んでも、もしかするとそういった苦しみの元に生をうけるのかもしれない
それが死ぬことえの恐怖として死ねないだけなのです。
僕は死えの恐怖はまったくありません、輪廻転生が怖いだけです。
回答の中に”そっと手を差し伸べてくれた人は必ずいたはずです。”
はい、そのとうりです。ぼくもそういった人がいたのを感じていました。
ですが会話がうまくできない、このことが昔から何度もありどうしても変な人として見られてしまいます。
それが自分を苦しめているのです。 人とうまく会話が出来ない事はとても苦しいことで、ADHDをもつ人はそれで苦しんでることも知りました。
生きていくうえで、人とうまく付き合えないことがこれほど苦しいものなのかと40年も生きているとその思いが強くなっていきます。
最後に、自分は得を積むという考え方が好きです。自分が得するために何かをするのではなく奉仕の気持ちで何をできるか
そんな考えをしていてもそれは気持ちだけで下手な生き方をしている自分はかえって迷惑なことをしていることもあります。
長い文章になりましたが、回答ありがとうございました。
一つ書き忘れていました。 前進というのは、今までその気持ちで生きてきたという意味です。
進んでる先には小さな石ころがありましたがそれが進んでるうちに次第に大きくなり進むことが難しく感じるように・・
釈尊についてチョット調べてみました。
ヤフー知恵袋にこんなのがありました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10110686770
自分は頭もよくないですし物覚えも悪くなっています。
物事を理解しようとしてもなかなか理解できない部分があり、多分この知恵袋に書かれてることなんでしょうね
和田隆恩さんありがとうございます。