回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教は「怖い」問題を通して幸福を考える
こんにちは。
以前もご縁ありましたね。
自分の考え方を押し付けてしまった
https://hasunoha.jp/questions/47072
あのあと、仏教担当の先生とはどうなりましたか。
気になるなー。
前回の質問では、「大学で仏教の授業を受けてから、統合失調症になってしまいました。私にとっては、とても人間に厳しく、怖い教えに感じました。仏様は私にとって潜在的に恐怖の対象になってしまいました」と書いています。他の回答僧さんが応えてくださっていましたが、今回も同様の主旨での質問かもしれません。
ただ、「仏教の授業」のどういう内容についてなのかが今ひとつ分かりません。私もかつて大学で同様の講義を受け持っていましたが、どんなことを「怖い」と感じたのでしょう。
試みに一つだけ勝手に推測して取り上げてみます。
例えば、四苦、生老病死の苦でしょうか。
死という問題は、「怖い」と感じやすいのかも知れません。
でも、いたずらにそれは恐怖を煽る目的ではなく、死という誰もが通る問題について考え、死を通して生きるということ考えていくためのものです。死を考えないように、見ないように生きることも可能ですが、普段から向き合っていないといざという時に対処が難しくなります。また、生きるということは、死という区切りがあってこそ鮮明になってくることもあるのです。つまり、仏教は「怖い」問題を敢えて正面から取り組み、そこから生きる道筋の探求や命終わったあとに受け止められていく世界(極楽浄土)との出会いという幸福を考える教えだとも言えます。
推測で勝手に一つ取り上げました。
また、御縁あったら、あなたの思いを聞かせてください。
怖い教えでは無いと思います。むしろ、おおらかな宗教です。
世界的な宗教と言っても、ユダヤ教キリスト教イスラム教は砂漠の文化から誕生した一神教です。こういう一神教では、人々は神と契約し神の命令に従って生活します。それ故、戒律は厳しく、神の命令に従わない者には厳しい罰が下されます。
仏教はアジアモンスーン地帯で生まれた宗教です。砂漠から生まれた宗教に比べるとおおらかです。仏教の「戒」は禁止項目ではありません。努力目標と言った方が実情に近いのです。戒を守ることの意義をわかりやすく説明するために、「仏様の罰(ばち)が当たる。」という言葉が使われたりもします。でも、仏教における「罰が当たる」とは「自業自得」ということです。自分の行為が周囲のいろんな条件によって、結果を生み出します。其の時その時の条件(仏教で言う「縁」)によって結果は異なることも多いですが、自分の行為がそもそもの発端です。それ故、今自分が置かれている状況は自分自身の行動に原因が有るので。受け入れなければならないのです。それが自業自得です。ネガティブな意味で用いられることが多いかもしれませんが、努力し善根功徳を積むことで素晴らしい果報が得られることもあります。これも自業自得です。
大学の仏教の講義で、基本的な仏教語が説明される思います。「一切皆苦」とか「四苦八苦」という言葉を聞くと、良いイメージは持ちにくいかもしれませんね。現実をしっかり見据えましょうという意味の教えだと私は理解してます。ですから、「四苦八苦を、当たり前ということばに変換」という回答をしたことがあります。
https://hasunoha.jp/questions/46593
世の中の現実から目を背けても、幸せや満足は得られません。如実知見ー如実にあるがままにものごとを見る、洞察する智慧ーが大事なのです。仏教の経典は、世の現実をきちんと捉え怠ることなく自分の人生を歩むよう、説かれています。時には厳しい言葉もあるかもしれませんが、やさしい激励なんです。
檀家さんの葬儀の際に授戒という儀式を行います。懺悔(さんげ)と仏戒を故人に伝えます。完璧な人なんていません。誰もが失敗と後悔を繰り替えす人生を歩んでしまいます。「失敗したっていいんだよ。反省し、何度でもやり直そう。この世でうまく出来なかったら、来世で頑張ろうよ。」という仏様からのメッセージを伝える気持ちで葬儀を勤めております。
仏教は慈悲ある教え
ikuさま
真理というのは、その内実、厳しいものであり、どうしても受け入れ難い気持ちが出てしまうものであります。世間と真逆の考え方をしなければならないという面もあり、そのため、怖い、難しい、分からない、しんどいというご意見をikuさまと同様に、このhasunohaでもこれまでたくさん頂いています。
仏教の教えというのは、たくさんあるように見えて、ただ通底するものは、四つの聖なる真理としての「四聖諦」となります。
苦諦・集諦・滅諦・道諦
そして、大抵の方は、最初の苦諦にて、しんどいな、つらいな、嫌だな、怖いな、という気持ちを抱かれて、それが仏教全体の印象となってしまうところがあります。
もちろん、そこが一番受け入れ難いというところがあるため仕方がないのですが、次の、集諦、滅諦、道諦と学びを進めれば、苦をいかに無くしていくための有り難く、慈悲ある、つまり、優しい教えであるのかが分かるようになって参ります。
是非、仏教に関しては、四つの聖なる真理から、じっくりと学ばれていって頂けたらと存じます。
川口英俊 合掌
仏教が怖いと感じさせてしまいごめんなさい
もう3年くらい前の話ですが、新しく車を買おうと思っていろいろな会社の車を見て回っていたことがありました。本来なら車の性能などで選ぶべきなのでしょうが、私は機械に詳しくないので、営業さんの人柄で選んでしまうところがあるんですよねぇ。(お坊さんが「車を買いました」なんていうと、どんな高級車を買ったのかと勘ぐられる事があるので念のため書いておきますがスズキの軽自動車を求めました)
このように私たちは、あまりわからない事について話を聞くときに、内容に関係なく、教える人の人柄で好き/嫌いが出る場合もあると思います。中学生や高校生の時に若い先生が授業をする科目が好きになったり頑張ったりした経験はありませんでしたか?
もしかしたら、その仏教の先生が、あなたに合わなかった、またはあなたに恐怖心を与えるような講義だったのかもしれませんね。大学の授業ということなので、今年はその講義は受けずに他の科目で単位をカバーするようにしてはいかがでしょう。もし必修科目であるなら、来年度は同じ講義名の他の先生の授業を受けるようにしたらいかがでしょうか。
他のお坊様の回答にあるように、仏教は逃げることができない現実を目の前に突きつけ、この突きつけられた時に出てくるイヤな気持ちをいかにコントロールしていくか、という教えです。お釈迦さまは天からするすると降りてきて悩み事を解決してくれる存在ではなく、自分で解決する手立てを教えてくれる存在です。その過程で怖いと感じる事があったのかもしれません。
質問者からのお礼
仏教がやさしい教えだということがわかりした。
回答してくださりありがとうございました。