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自殺についての捉え方

回答数回答 2
有り難し有り難し 23

初めての質問で、ずっと考えていた、人に話したことの無い私の人生観の相談になります。
表題からまず、誤解せずに頂きたいのは、私は別に苦しいからつまらないから死にたいとは思ってません。
逆に、なぜ皆、自殺=悲劇、悪、禁忌という考えなのか理解出来ません。

私は自分の人生において、ある年齢に達した時に自ら死のうと決めております。
それは人生がつまらないだとか苦しいからだとかという理由ではなく、そこを自分の終着と決めたからです。
やり残したことや後悔などはきっとすると思いますが、それは生きている以上無くならないですし、無くしてはいけないものだとも思っているので、それも受け入れて自分に幕を引きたいと考えているのです。
その行為によって、自分が納得しているか否か関係なく周囲に必ず迷惑がその後にかかるということも承知してます。
それでも、人に気を使って私の自分で決めた終わり方をやめようとは思えません。

それゆえの、表題での根本的問いです。
本人が満足し、納得した自殺をなぜ悪く言うのですか?
そもそも死が忌避される理由すらもわかりません。
世界の一つの理に対して人は勝手に忌避を覚えることに疑問です。
絶対に抗えない世界の理に対する意識とは『忌避』ではなく、どう捉え、受け入れるべきかなのではと考えています。

自然死を待つ、というのも考えてはいました。
幼い頃は長寿を望んでいましたが、なぜ長寿を望んでいたのかを考えた時、特に理由もないことに気がつきました。
で、あるならば、私はいつ死ぬべきなのか。
現時点で私は事故で死んでも、後悔、やり残しがありますが、それでも納得して死ねると思っています。
誤解されそうですが、死を美化して捉えているわけではありません。

自分自身で終着を決めることで日々生きているのだという実感を得ることが出来、そして自身で決めた終着にて、私という存在に幕引き、人生が完成を迎えるのだと思っているのです。

だから問いたい。
自殺への忌避と悪、そして逃避という捉え方は違うのではないかと。

仏教において、聞きかじりで申し訳ないですが、仏教は自殺が=で罪ではないということから、このような形で長年の疑問をご相談させて頂いております。
お坊さん方は、みなさん、自殺をどう捉え、そして生きているのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

難しい話ではなく

自殺自体に良し悪しは無いです。
現実として迷惑がかかる。
そして、とても自己中心的行動であることから、悟りとは程遠い行動とも言えます。

坊さんは、法に従い生きることで自分という存在、自我がないということに気づき救われる生き方をしています。
ここでいう法と言うのは法律ではなく佛法です。人の見解が差し挟まる前の事実。自然の摂理、法則を言います。

音があれは、聞こえ、目を開けばものが見える。当たり前の法。しかしここに救いがあります。生まれたものは、命を全うし必ず死にます。

しかし、ここにジブンと思っている自我の働きのままに命を絶ってしまうことは悲しいです。
生きながらに仏となり救われ、生き生きと生きたいと思いませんか。
生きている今ここに救いがあるのに、そこに目を向けずに命が終わるのは悲しいですよ。

死んで仏となるといっても、その時には何にも分かりません。後悔すらできないのですから。

坊さんからしたら、こっちに救いがあるよ。と教えたいと言う話です。そっちにいったら苦しいよ。と。

追記 

怒りの感情、悲しみの感情、喜びの感情など、確かに事に触れて自然と沸き起こるものがあります。しかし、それは「思えた」という働きがあっただけなのです。そこに手をつけないのです。ワタクシという自我フィルター越しに物事を見ているとどこまで行ってもジブン勝手な考え方の上での話になってしまい仏道ではなくなります。
自殺さしてもいいのではないかというのは考え方の問題。仏道は思想や思考の話ではなく、仏法の話なのです。人間が手をつける前の様子、仮に死にたいと思っても、思っただけ、そこに手をつけて行動してしまうのは自我によるジブン勝手な行動ということです。

ご自身の思いや考えとはちがう「今ここ」にある目の前のリアルがあります。まるでワタクシとは関係なく活動している宇宙全体の大きな働きがあるはずです。静かに目を開け意識を向けて見るだけで、少し感じることがあるはずです。

またわからないことがあったら聞いてください。

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おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す...
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仏教と自殺

よーみさま

自殺=悲劇、悪、禁忌というのは、ある一定の世間において(その傾向が強い、割合が高いといった程度)の価値観であり、もちろん、それが絶対的に正しいというわけではありません。

また、価値観というものは、人それぞれにおいても異なるものであります。このことは下記拙回答をご参考下さい。

https://hasunoha.jp/questions/54103

価値観に縛られすぎてはいけません。

釈尊の「自殺」に対する態度につきましては下記の拙回答にて書かせて頂いております。

https://hasunoha.jp/questions/49843

仏教においては、自殺にせよ、いかなる行動においても、動機と行為における業(カルマ)の問題を重視することになるため、その動機と行為が、善業となるもの、悪業となるもの、中性となるものと大きく三パターンに分類されることになります。

自殺においても、それが一括りに悪業となるわけではなく、三パターンのいずれとなるのかを慎重に見極めていかなければならないものとなります。

ただ、世間における普通の者、凡夫の自殺は、無明(根本的な無知)と煩悩によることがほとんどであり、つまり、それは悪い動機による悪い行為となり、それが悪い業(カルマ)となって、更に輪廻に苦しむ原因となってしまうため、そのような自殺はやはりとてもお勧めできるものではないということになります。

この生だけで終わるものではなく、輪廻はとてもとても長い旅路です。

より良い旅路としていくためにも、仏教は誠に役立つものであります。是非、今生においてもできる限りに学び修して頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

まず、誰にも言えぬような私の問いへ真摯に向き合ってくださり、誠にありがとうございます。
仏への救い、悟りへとお導きくださろうとしてくださる、とても興味深く、考え深いものでございました。

あぁ、お坊様は、やはりありがたいお言葉、生き方、教えがあるのだと思わされました。
私の問いへのお答えとしてありがたいものであり充分に満足しております。

本当はそれだけで終わるつもりでしたが、この場が問答と表示されたが故に、お書きします。

それでも、と。
我々の自我と称されるものは全てはそう思わされ、そうさせられる自然の摂理の中にあると私は常々考えているのです。
全ての物事は自然の流れによっておき、人の精神すらもまた同じ。
我々が自我というものの動き、ひいては我々が各々考え、感じ、行動するというものはそうなるべくしてなる自然よりもたらされた原因と結果として成り立つものであると私は捉えております。
怒りというものは怒りへの原因があり、その原因もまた……というように。

それゆえに、その自然の流れの中で思わされた終着、自殺を行うことで起こる死が苦しいものであれ、楽なものであれ、また何もないのであっても、それこそが私の生と死であると受け入れたいと思えるのです。

また、現実として迷惑がかかることも承知しております。
それでも、生き生き生きて、仏へと至るまでに痴呆、寝たきりになることもまた迷惑となり、悲しいことでございましょう。
一切の迷惑のかからぬ死も生もないのでしょうから。

最後にもう一度、お礼を申し上げます。
難しく考えてしまう偏屈なものでしたので、問いを吐き出すこと、あまつさえお坊様よりありがたいお言葉を頂きましたこと、心より、相談して良かったと思うことが出来ました。
ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ