空について
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。
空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。
わかりそうでわかりません。。。
考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
概念の空は空ではなく空の❝解釈❞なので空ではない
ざっくり90%以上の人が空を学ぼうとする際にその「学び方」を間違えます。
どのように学ぼうとするかというと左脳の思考マインドをツールとするということです。考える。理や知で知ろうとする。
空は思考ではなく事実の側面から見ればある状態であり、ある作用であり、ある法則であり、ある様相であり、ある救いの働き「実の相」なのです。
一番手っ取り早い会得の方法は理解をすることではなく、自分自身の自動更新機能、全自動浄化作用を深く見つめていくことです。修行とはそれをやることともいえましょう。
ホントに知りたければ、坐禅会にお越しいただければ私のようなカバでもゴリラでもなるほどガッテン確かに、と会得することができましょう。可能であればこういう文字のやり取りでわかった気になっていただきたくはありません。
なぜなら空を理屈で「解釈しよう」とすると、その活動は左脳的な分別智であって「分析・解釈・知の上での理解」をした脳内の理論・理屈だけの活動なのです。文字通りの机上の❝空論❞なのでそれは空を本当に会得したことにはならないのです。
理論だけの車の講習のようなもので実際に運転したら自己が自己を事故にする。
それは残念ながら生きた空ではなく絵に描いたSUSHI状態。求め方がちがうのですナ。🍣生でもフレッシュでもなく食べられもしないSUSHIなんぞはSUSHI🐟にあらず。同じように空を学ぶにしてもそのはじめの一歩目を間違えると理屈武装だけになってしまい肝心の救いがないのです。変なたとえですが知識豊富な雑学王のオッサンで嫌な奴になるよりも、あることに精通していてみんなに優しくできるおじさまの方がイイ人でしょうに。たとえですが。(笑)
よって、空の真意を会得しようと思うのならば求め方を理から実へ変えるべきなのです。ここでうわずみ理屈だけすくい取ろうとする思考をツールとした方法で空を理解しようとしたらダメ。それで空がわかるなら修行もなんも要らないはずでしょう?
仏教学者であっても仏教の理屈ばかり知っているもののいつまでたっても救いや作用が生じない人もおられるのでごわす。それは仏教を学ぶ上で救いの方向に向かわずに理論だけ文学が好きな人が文学の文学的な陶酔にハマってしまうようなものでしょう。
もし、空を学んで救われたい、人にも教えられるようになりたければ自身の上で明らかにする方法、参禅がおススメです。
空とは
あなたのおっしゃる通り空=無ではありません。
一言で申しますと空というのは、そのモノ自体に備わった性質は無いという事です。
例えば、ここに一つのグラスがあります。それに水を入れて飲めば、それはコップという性質のモノになりますね。でも、水を入れてそこに一輪の花を挿したら文字通り一輪挿し、花瓶ですね。
一つの長椅子が有ります、そのに座れば椅子ですね、でもそこに寝転んだらベッドになります。
では、犬はどうですか?
犬好きの人から見たらドーベルマンのような獰猛そうな犬でも可愛いですね。でも嫌いな人ならばチワワでも怖いと思う人も居ますね。小さい頃に犬に噛まれたような人はトラウマですね。犬は可愛いのか怖いのか?真逆ですね。
人はどうですか、男からみて魅力的な女性ってどんな人ですかね、まぁ見た目の話です。スレンダーでモデル体型な人が好きという人が居れば、ふくよかな人が好きな方も居りますね。痩せた人が美しいか太った人が美しいか真逆ですね。つまり、全てのモノや生き物はそれを見る人によって全く違う感情を持たせるのです。
という事は、全てのモノや動物や人は、それを見る側によって性質が簡単に変わりますね。これを、全ては空だといいます。空=無自性(むじしょう)とも言います。
そのモノ自体にはそのモノの性質を決定する事は無い。そのモノの性質を決定するのはそのモノを見る側にあるのです。
ですから、全て空ですよ。
あなたのおウチのおばあちゃんがさっき食べたご飯を忘れて、ご飯はまだかいって言ったら、おばあちゃん今食べたばかりじゃないって言いますよね。でもね、あなたにとってのおばあちゃんは少し前まできちんとしていたおばあちゃんじゃないんですよ。今のおばあちゃんなんですよ。あなたが決めつけて思い描いているおばあちゃんは居ないんですよ。今のおばあちゃんに寄り添わなきゃいけないんです。空とはそういう真実を教えてくれるんです。
執着に値しないと感じるために
空という言葉は、執着に値しないと感じるための道具にすぎないと思ってはどうでしょうか。
それを前提に。
全ては縁起(複雑に絡み合った因果関係)で成り立っているから無自性(一つ一つの物事には固定の「それ自体」がない)である。
無自性だから空(夢や幻みたいに実体が無い)である。
空だから無相(決まった姿形はない)である。
無相だから無願(欲しがる対象はない。執着に値しない)である。
空・無相・無願の三解脱門という言葉もあります。
混ぜるな危険
空はいいのですが、どうしても概念で実態がなさそうなので、いろんな人がいろいろ自分の概念を語ります。
今見た限りでも、三つ挙げている中、空は増えも減りもしない、というのは大乗の観念の一つでしょう。実際増えるとか減るとか考えることもできないはずの空が何か「もの」のようにとらえられています。
初めて学ぶなら、初期仏教の理解から始めるほうが指針ができていいと思います。それを理解してから、もっと興味があるなら、では、大乗ではどう解釈が変わったでしょうか、と調べてみる。
最初からいろんな人の意見を手当たり次第に聞くと、分からなくなるような気がします。
とはいえ、これまでは、初期仏教というか釈尊の教えそのままがどういう意味かなかなか分からなかったのです。最近、在日四十年のスマナサーラ長老の説法がyoutubeにいっぱい出てきて、もう、なんでも、すべてについて、語っています。
初期仏教についての解説なので、何のテーマについても、仏教の基準としてオーソドックスなところとして、まず見てみるとよいと思います。