苦しみをうんでいるのは自分の心?
しなやかで強い、人格のある悟りを開いたような人間になりたくて、仏教の本をいろいろ読み始めています。内容はどれも理解するのが難しいですが、特に理解ができないものがあります。
それは、私たちの苦しみを生んでいるのは、周りの人、物事ではなくて、自分自身の心の中にある妄想が原因ということです。
実際は、何かがあり、それが原因で苦しい思いをすると思うので、妄想ではないと思ってます。例えば、DVを受けてる子供が苦しんでる原因は、親からの暴力なのに、それは妄想、あなたの心が原因でくるしいんですよ、というのは変な気がするんです。
苦しみは自分の心がつくりだしている、というのをどのように解釈したらいいでしょうか。教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 8件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分の中にも、何がそうさせているのかを、明らかに見ていくこと
そこが難しいところですね。全てを当てはめて考えていくと、矛盾があるように感じますよね。
他の僧侶方がお教えくださっていますので、私は実際の生きづらさからお話します。
日頃、DV支援の現場にいます。被害者にとっては何の落ち度もなく、どんな理由であっても、暴力を振るうほうが間違っています。被害者には、我慢して耐えることよりも、助けに手を伸ばし、安全安心の環境で身を守っていただきたい。そのために、支援者は状況を把握し、適切な対応が行えるように、一緒に伴走支援にあたることが大事です。
ここでは、現状把握と、何を求めるのかを一緒に考えていきます。被害者支援だけでなく、加害者の問題もあるでしょう。周りに暴力を振るうのではなく、自分が抱えている問題に向き合うことが、加害者支援になってきます。
一つの問題のようで、様々な要因や置かれている立場、過去からの経験など、因果関係も捉えていく必要がありますし、アプローチの仕方も様々です。
仏教の視点は、生きづらさ「苦しみを生むもの」を、周りの環境からだけでなく、自分自身の中にも見ていくこと。苦を生み出していたのは、誰かのせいだけでない、自分の思考や捉え方、感情や経験から起きているということはないだろうか。何がそうさせているのかを、明らかに見ていくことで、原因に気づいていけるということなのです。それって、とても大事な視点。
対象が「内面的な葛藤や生きづらさ」の原因を指しているからです
ご相談ありがとうございます。仏教の教えを真摯に学ばれるなかで、生じた疑問はとても大切な視点です。
結論から申し上げますと、あなたのご違和感は決して間違っていません。仏教が説く「苦しみは心が作り出す」という教えは、決して「理不尽な暴力を受けている子供に、君の心が原因だ」と責めるようなものではないからです。
仏教では、苦しみの原因を因果関係(因縁)で捉えます。現実のDVや事件など、外側からもたらされる具体的な苦痛(縁)に対しては、まずその環境から身を守り、現実的な解決を図ることが最優先です。ここを「心の持ちよう」だけで片付けるのは、仏教の本意ではありません。
では、なぜ「心が原因」と言われるのでしょうか。それは、私たちが日常で感じる「内面的な葛藤や生きづらさ」を指しているからです。私たちは、変えられない他者や過去に対して「こうあるべきだ」という強い執着や、満たされない欲望(渇愛)を抱くことで、自ら苦しみを何倍にも増幅させてしまうことがあります。この「執着する心」こそが、仏教のいう苦しみの正体です。
現実の理不尽な苦しみには具体的な対処をし、一方で、自分の心が作り出している余計な執着には気づいて手放していく。この両面の視点を持つことこそが、仏教の智慧であり、あなたが目指す「しなやかで強い心」へとつながっていく道なのです。焦らず、一歩ずつ学びを深めてまいりましょう。
拝
縁起寺 釋聴法
原因と結果。
『苦しみは自分の心がつくりだしている、というのをどのように解釈したらいいでしょうか。』
紗良さんのおっしゃるような、DVの件でいえば
「自分」という主体は、DVをふるう親に当てはまるのであって
ふるわれる側ではないのだろうと思います。
苦しみは世に無数ある「自分」の中に
ありありとあらわれていて
それらへの無理解が、DVや依存症、神経症などあらゆる症状として
現れると考えることができると思います。
苦しみの原因は、突き詰めてどこから起因しているかを考えれば、行動を起こした側の心に求めることができます。
行動によって被害を被った側の心にあるのは、苦しみの原因ではなく結果とみることができるでしょう。
原因と結果の因果関係は仏教の説く核心部分であり
一見シンプルですが、ときに難解です。
そこは仏教に限らず、様々な道理というものを説いた先人の智慧を借りて、我々自身問いを深めていけるといいですね。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
仏教における苦しみとは
私たちの苦しみの原因は、モノや人、自分への執着である。
すべては無常で実体のないものだから、執着を手離しなさい。
そうすれば、苦しみから解放される、というのが、仏教の基本的な教えです。
あなたの話はまったく別です。
仏教は人に危害を加えることを、厳しく戒めています。
親が子供に暴力をふるっているのなら、ただちにそれを止めなければなりません。
仏教における苦しみ、ドゥッカ(自分の思い通りにならないこと)とはまったく関係のない話です。
あなたがどのような仏教の本を読んでいるか分かりませんが、正しい本を読まれることをお勧めします。
仏教でいう「妄想」は心の三毒による分別のことです。
仏教でいう「妄想」というのは、私たちが普通にイメージする「明らかに事実に反する間違った想像」とは少し意味合いが違います。
たとえば「人類の半分は実は爬虫類型宇宙人が仮装している」とか「世界はディープステートという闇の権力が支配していて、政治家はみんなその手先になっている」という解釈は明らかに事実に反していますが、ご質問の中にあるような子供がDVを受けているケースで、「お母さんがご飯をくれないのでお腹が減ってつらい」という解釈は事実に反していません。
では、このふたつの解釈が心のどのようなはたらきによって発生するのか、その流れを観察してみれば、そこに違いはありません。外界の情報をどのように感受し、どのように判断し、どのように意味づけるか、という心のはたらきの流れとして、ふたつは全く同じであることがわかります。
ここで問題となるのは、この心のはたらきによる解釈が、常に自己の都合(好き・嫌い・認知のレベル)によって支配されているということです。心の三毒といわれる貪(好きなものを際限なく求めるむさぼりの心)、瞋(嫌いなものは際限なく避けたい怒りの心)、癡(事実をありのまま認知できないおろかさの心)がこれです。
子供がDVを受けているケースでは、親の虐待が因、縁ではありますが、それが果として成り立つときにはこの三毒による解釈を通過することになります。
「この母親は自分に食べ物を与えない」という事実に対する時、「食べ物を得るにはどうしたらよいか」「母親が食べ物を与えるようにするにはどうしたらよいか」と考えるのが第一義ですが、実際にはそうはならない事がしばしばです。「お母さんのそばにいたいけど、いっしょにいるとご飯が食べられない。どうしよう」「誰か他の人に相談して、お母さんに嫌われたり、誰かに馬鹿にされたらどうしよう」と考えてしまうのです。こうした第一義に外れた解釈のことをひろく「妄想」と呼んでいるわけです。
爬虫類型宇宙人やディープステートなどというものは論外ですが、私たちの日常の言動は、多かれ少なかれ三毒に影響された解釈(これを分別といいます)によらざるをえません。これによって(自分の思い通りにならない)苦が生じることになるのです。
自ら対峙する、覚悟を決める。
鋭いご質問、ありがとうございます。
確かに仏教では、「自己に立ち返れ」「他人や環境にばかり原因を求めるな」と説かれることがあります。
しかし、それだけを切り取ると誤解を招きます。
こんな言葉があります。
「儞若し、仏は是れ究竟なりと道わば、什麽に縁ってか、八十年後、拘尸那城双林樹の間に向かって、側臥して死し去る。」
「もし仏が完全無欠の存在だというなら、なぜお釈迦さまも八十歳で病を得て亡くなられたのか。」
禅の祖師は、このように問い掛けています。
つまり、悟りを開いたからといって、現実の苦しみや老病死がなくなるわけではないのです。
ですから、DVを受ける子どもの苦しみは、決して妄想ではありません。
原因は明らかに暴力です。
そこから逃れ、保護されることが何より優先されます。
現実の問題を「心の持ちよう」で済ませてはいけません。
ただ一方で、仏教が説くのは、その苦しみに心まで支配され続けないという生き方です。
事象には二つの面があります。
一つは、現実の問題を解決しなければならないということ。
もう一つは、その問題によって心まで縛られ続けないということです。
この娑婆世界を生き抜く以上、ときには争いになり、裁判になり、戦わなければならない場面もあります。
愚僧自身も、まさにその渦中におります。
だからこそ思うのです。
戦うことと、憎しみに支配されることは違います。
問題は現実に解決を目指す。
しかし心根においては、その出来事に人生まで支配されない。
それが仏教のいう「苦しみは心がつくり出している」という教えの、一つの意味ではないかと私は受け止めています。
現実から逃げるのでもなく、現実だけに囚われるのでもない。
その両方を見つめながら歩んでいくことが、仏道なのだと思います。
合掌。
二つの観点
まず、一切皆苦なので、生きている限り何らかの苦は常にあるというのが前提です。
そして、私達がそのような苦しい生の輪廻転生を繰り返している原因は、悟っていないことによる生への執着、渇愛なのです。
虐待されている子供が死ぬときに、少しでも煩悩や執着が残っていればまた生まれてしまいます。
つまり、私達の心が原因で輪廻転生を繰り返してしまい、苦しみを延長してしまうという視点が1つ目です。
前世で迷わず成仏していれば、今生は無かったのです。
二つ目の視点は、虐待されている子供にも、虐待されていない時間があります。
虐待されていない時間にも虐待のことを考えてしまうと、悩み苦しみが増えます。
例えば、注射を撃たれる数秒間は痛いですが、注射の前には怖がらず、注射が終われば医者を憎んだりしなければ、苦痛は数秒間だけで済みます。
例えば、10年前の虐待を頻繁に思い出して苦しむ人もいます。
それは妄想雑念で苦しみを増やしているのです。それが2つ目の視点です。
今、目の前にある物理的な苦痛は避けられない場合もありますが、
悟っていない私達は物理的苦痛に加えて、
過去や未来や自分や他人に関する妄想雑念、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩によって、悩み苦しみストレスを増やしてしまうことが多いのです。
抜苦与楽について
仏教の目的は、苦痛を取り除き、楽を与えることです。貴女が言われるように、
苦痛や楽と言った感覚は、自分の心が作り出しています。
ご自分をコントロールできなくては、何も解決できません。
そのコントロールする方法を書きますので、お試しください。
呼吸に意識を向けることで
本来の自己に立ち戻ることができるというテーマについて、
私の作った詩がありますので、メッセージ送信させていただいていいでしょうか。
<今の私に 今のあなたに>
気づきをもって、怒りや苦しみを見つめてください。
その気持ちは、観察することで、自然に消えていきます。
その源を探さないで、また、消すように努力もしないで。
そこで生まれる、静けさや落ち着きは、子供たちがそこに
いたいと思う安らぎを提供してくれます。
嬉しいと思う気持ちも、悲しいという気持ちも、あなたの感情にあります。
つまり、あなた自身が癒されない限り、他の誰をも癒すことなどできないのです。
さあ、やってみましょう。呼吸を観察することで、本来の自分に立ち戻ってみましょう。それが、自分だけでなく、他のものをも救うことができる方法なのです。
質問者からのお礼
たくさんのお返事をありがとうございます。
お返事の中に「執着」という言葉が何度も出てきたので、そこに考えを深めるヒントがありそうだなと感じました。まだまだ本当に仏教の教え、禅の教えを学び始めたばかりなので、これからもご教示いただけますと幸いです。常に考え続ける事も大切と思いますので長く続けていこうと思います。
ありがとうございました。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
◆自死で大切な人を亡くされたり、死別により 死が受け入れられなかったり、心の整理がつかない方へ。30分ずつでも、オンラインで定期的に気持ちに向き合っていきませんか。吐露したり泣ける時間も、大事なグリーフケア 。
◆個別電話ってドキドキして勇気のいることだけれど、声が届くから、聞こえてくるから、ちゃんと繋がっているようで、そばにいるように安心出来ることもあります。
◆ 終末期ターミナルケア、看取り、希死念慮、自死、グリーフケア、トラウマ、PTSD、子育て、産前産後うつ、不妊、傾聴、手話、要約筆記者 としても、サポート
◆出来るだけ希望時間にお応えしたいと思いますが、午前中は毎日 法務があります。
(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )