仏教徒に対する疑問パート3
お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが
やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください
仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね
でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね
それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです
それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし
釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか?
生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか?
自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか
釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし
出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか
それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです
それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます
それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね
色すなわち空のように
言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理
でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね
まるで色すなわち空のように
そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで
究極の悟りなんかないのかと思って
もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら
この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして
全ての煩悩の塊 100文字以内には収まらない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
うっせぇ、食え!俺のラーメンを!!
うんうん、ゴチャゴチャしてて良いですね。こういったご質問は大好きです(笑)
昔の人はこういったゴチャゴチャに「十牛図」というのを使って感覚的に説明しました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十牛図
序盤の牛を探したり、捕まえようとフンガーしているあたりは四諦八正道や五蘊無我のような言葉を目印にして修行しています。言ってみれば、テレビの食レポを聞いて味を想像するようなものです。
それが中盤の家に帰ったあたりになると、四諦八正道とか五蘊無我というような教えが生活習慣に落としこまれてしまっているので、言葉自体は必要なくなります。
お釈迦さま(維摩居士?)と菩薩の問答は序盤の食レポではなく、この中盤戦で繰り広げられているわけです。グダグダ言ってんじゃねぇ!このラーメンを見ろ!香りをかげ!そして食え!これがラーメンだ!!!みたいな感じ。
食レポはラーメンを形容していますが、ラーメンそのものではありません。事実を言っているハズだけど、私のリアルではない…そういうとこです。
終盤になってくると自分という垣根が無くなってきます。もはや悟りも涅槃も解脱もありません。あるがままです。ラーメン屋でどう例えていいか困るくらいです。俺がラーメンだ!みたいなのもアホくさいですし(笑)
ただ、無我だからってnothingになるわけではありません。本当に坐禅が坐禅になってくると感覚機関が働かなくなるのではなく、むしろ活性化するんです。代謝が良くなって身体も温かくなります。そして最初に飲んだスープに引きずられることなく、今は麺のからんだスープ、今はメンマ、今は海苔というようにパッパッと切り替わっていきます。五感で感じたものに対して、頭が余計な形容をしません。だからあるがままなのです。そこにはスープがぬるいという感覚はあっても、ぬるいのは悪だと嫌う心が湧く直前の段階でストップしていますので、苦が湧く余地が無いわけです。
そうした時に、我々は本来、悟りの中にいるのです。悟りの中にいたのに、アホ毛みたいにピンピン飛び出しているわけです。「我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れない」という表現は良いですね!我々も余計な煩悩をカットして世界の悟りヘアー保全に努めましょう。誰にも他人は変えられない…他人に変えてもらえないから、自分が自分で変わるしかないというのが仏教ですし。
梵音
引用返信にて失礼します。(文字制限上、一部略)
Q仏教は~悟りの境地に行くことですよね ?
Aハイ。悟りを多くの人に廻らせる実践の教えです。
Q釈迦様は菩薩に悟りとは~なんか怪しいです。
A何も答えないという答え=本来の涅槃寂静を示しただけです。楽譜の休符だって音楽でしょう。
文字で明確な答えを必要とされる方には言葉で明確に答える事もできますが、聴く人にとっては説明で納得するだけで悟りに至れないから言葉でなく事実を突きつけているのです。
諸行無常とは、身心が過去の全てを洗浄しつついつでも救われているという理です。
質問の1文字目を打っていたあなたの様子は、もうどこにも無い。そのくらい過去を解脱している事実を黙して会得してください。無常とはモノが変化するということだけではありません。
Q四諦、八正道、中道~結局は五蘊無我になれないと思います。
A五蘊が無我にbecomeするんじゃなくて、本来無我のままの五蘊の働きを自覚すればよいのです。
この文字を見たくなくても目を開ければ映るのは無我の様子。
受想行識も「俺はこう思いたいのに」と願っても、違うことが心身に起こる。
思いが発生した時点では良し悪しが無いから無我でしょう。発生時点においては己・人我の見解がそこにないという事を無我というのです。
Q釈迦様が五蘊無我なら~その生きてる我はなんですか?
A寝ている時に我はありますか?
無我をカラッポや虚無になることだと誤解されていませんか?
無我とは、この身心がありながら「わたくし意識」が忘じられているだけのことです。
釈迦の45年の説法のように生き生きとした無我を求められますよう。
Q釈迦~ペラペラ喋ると思うんです。
A維摩の一黙雷の如し。⚡
傍からみると黙っている、答えていないように見えただけです。
「如是」という答え。「無我の言葉」あり。言葉そのものに本来、我はないでしょう。
「カステラ。」と言ったっ時に我はありません。
Q真理は~いいんじゃないかと思いまして
A神が本当に全知全能ならあなたのように悩む人間を作らんかったはずでしょう。
真理を言葉で表したっていいんです。
「すし!」と言って「ハッ」と気づく人もいます。何のことを言われているかわからない人には口の中に寿司が入れば明らかになる。
それでも人は生きている。
究極の悟りを得ていなくても、僕もあなたも生きている。
おはようございます。
ハッとさせられる質問、いつもありがとうございます。
諸師とのやりとり、拝見しました。参考になります。
ご質問の前提ですが
「仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね」
私は仏教の出発点を『生死勤苦のもとを抜く』と聞いております。
苦しみから逃げても苦しみという認識そのものは変わらない。
苦しみから逃げるのではなく、苦しみに向き合い背負った上で転じる。
苦しみの元に着目し、フォローする。
たとえば、昔したことが今でも正しかったか気になる。
そのとき、ごめんね言えてたら、仲直りできていたら、よかったけどそれができなかったことが、以後の人間関係や生活環境にも影響を及ぼしてしまう。。
そこで、本当に辛かったのは誰? 自分だよね。(元に着目)
でも辛さを抱えながらでも今まで一生懸命身体は生きてきた。(事実に着目)
そのときは無理でも、現在の自分なら当時の自分にねぎらいの言葉をかけてあげることはできる。
当時の自分が、その時かけて欲しかった言葉は本当はなんだったんだろう?
(たとえば)
仲良くしたかった友達の望みに答えたかっただけだよね。
それが満たされなかったから、大げさになっちゃったんだよね!
もう自分を責めなくてもいいよ。辛い重い先でもいいよ。(という言い方もできる)
過去の事実は変わらんかも知れないけれど、
現在の自分は過去の自分に言葉をかけてあげることはできる。(フォロー)
過去へのまなざしをかえることはできる。
例えが長くなってゴメンナサイ。
問題そのものではなく問題を扱う自分の心が苦を生み出す。
問題を消しても自分の心の扱いが変わらないかぎり苦は生み出される。
前提の扱いで文字を使いすぎて、本文まで対応できずすいません。
けど、
「自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか」
というのはおっしゃるとおりです!
無量寿経で、私以外も救われなきゃ悟れない! みんなも仏になっとくれ!(意訳)といっています。
今後ともよろしくお願いします。
言葉を信用しすぎてははいけません
拝受
お釈迦様が悟りを言葉にしなかったのは言葉が完全な表現手段ではないからです。
悟りにはまた、それぞれにそれぞれステージの悟りがあるもののように思います。
誰の価値基準に頼る事なく善によく生きようと決意し、行動すれば自ずと見えてくるものがあるものです。唯漠然と生きてきた昨日とは違う景色があります。それが我々凡人の悟り
貴方に足りないのは学ぶ事より行う事
言葉は実際割とアバウトなものです。言葉を信用しすぎてはいけません。仏教の言葉はとくに自分自身が理解できる時が来て初めて理解できます。
私のお寺は神様も拝みます
私は神を全能と思った事はありません、え?!だって僕らを生かして死なせてくれますが救いはしないからです。
神は私達の体を生かし死なせ
仏の教えははまた神の与えた心に苦しむ精神を生かす。
だから二つとも大事
かなり難しいご質問で、未熟さ故お答えしてない部分もありますがご容赦ください。
合掌
個我と大我は、波と海みたいなものです。
面白い質問だったので、つい問答っぽく答えてしまいました。^ ^
ただ、長くなってしまったので、全部は掲載できませんでした(文字制限のため)。
よって、全部が掲載してあるドキュメントのアドレスを付けておきました。
何らかの参考になれば、と思います。
ーー仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね?
まあ、そうと言えないこともないですね。
ーーでも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね?
あっ、それ僕知りませんでした。^ ^;
ーーそれをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです
”バックボーンに諸行無常=怪しい ”、、、うーん、この質問の意味が良くわからないのですが、、、。
ーーそれに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし
意識とは自己と対象を分別して、対象(言葉も含む)を認識する働きですから、意識すること自体が、悟りとは真逆の働きですね。
修行する際は、悟ろうと思うこと自体が、足を引っ張りますので、その矛盾を乗り越えることも修行の1つのテーマです。
ーー釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか?
五蘊の根底にあるものに目覚めて、五蘊は消えるんですが、相対意識を超えたものに目覚めるんです。
ーー生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか?
生きていること自体は、我ではないですよ。
ーー自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?
相対の個我と相対を超えた普遍的大我がありますね。波と海みたいなもの、「個々の波=自分の我」と、「海そのもの=宇宙普遍の大霊」の違いです。
全体(続きを含む)は以下。
https://docs.google.com/document/d/13PDjk7nd0tUtx3rHuXptdA1dn2nO9p8Hg8KP-E3giGM/edit
煩悩のリストが悟りのリスト
煩悩を克服したら悟りです。
煩悩にはリストがあります。
煩悩のリストを裏返せば悟りのリストになります。
煩悩の数だけ、その煩悩が消えるという悟りがあるのです。
たとえば、怒りの煩悩があるなら、その裏には、怒りがなくなるという悟りがある、みたいに。
心身が無我であることがわかっていない煩悩、(有身見)があるなら、
その裏に、無我がわかるという悟りがあるのでしょう。
慢(プライド)という煩悩があるなら、その裏に、慢が消えるという悟りがあるのでしょう。
迷信への執着という煩悩があるなら、その裏に、迷信への執着が消えるという悟りがあるのでしょう。
質問者からのお礼
お答えしてくださった4人のお坊様に感謝します
わかりにくい質問にわかりやすいたとえで話してくれたり
人生の苦しみから逃げず時には自分をねぎらう大切さを話してくれたり
そしてお坊様が考える神に対する特殊な考えなど
色々な話を聞けて面白かったです 今後もよろしくお願いします
改めて4人のお坊様に感謝します ありがとうございます
引き続き このコメントの後にも回答してくださった 2人のお坊様にも感謝します
これからもよろしくお願いしますね 回答してくださった6名のお坊様の人生に幸がありますように