回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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倶会一処
私共の宗旨では、人は死な無いと言います。
身体の寿命がつき、仏様の御浄土に往生させて頂く。
私達の身体も、寿命がつきれば往生させて頂ける様に。。。。。
仏様とご縁を結ばせて頂きます。
ですから、私は、縁のある方に『 人は死な無い 』と、申します。
そして、大切な方とは必ず御浄土で、再会出来ます。
『 無 』とは、決して0では無いと教わりました。
『 無 』は、人間ごときでは計り知れない事、もの、存在を表すと。
ですから『無量寿如来』『無量光佛』 と、もうされます。
無尽蔵 虚空蔵
「死んだら無だって?(笑)
俺は死なないゼ?
死んでも活きるさ。そういう生き方をしてきたつもりさ!!」
ヒュー!(拍手)パチパチパチ…
「NEVER DIE!!」
「YEAH!!」
「DEATH IS NOT THE END!!」
「YEAH!!」
「それじゃ次の曲行くゼ、聞いてくれ、❝ロック イズ デッド❞!!」
デデデ♬デデデデデデ♬(死ぬんかい)
歴史上の偉人も聖人も凡人もドラえもんもサザエさんもジミ・ヘンドリックスも亡くなった後も、多くの人に影響を与えているでしょう。
死んでも、死なず活きているのですよ。
アートも、教えも、料理も、技術も永遠に生きる、活かすもの。だから生活というのです。
精神、ソウルを感知し相続すれば永続する。
目の前の携帯、スマホ一つにでも先人たちの活きた知恵を踏襲して存在している事を学ぶことですナ。(-ω-)そういう生き方をすることです。
今はコンパクトなケータイも昔は、サイコガンダムぐらいデカかったのですよ。
さて、深い話を。
この心身の本当のありようは、究め尽せば、果てなく、際無く、尽きる処なし。
人間の思いとは、無縁に活動している大きな「働き」を感じれば、人間の小さな生死、生き死には無くなります。
無とは、ALL。
全部あるということ。全てと一体であるという大変大きな様子です。
人間のチープな隔てを捨て、銀河、天体レベルで観ましょう。
無始無終にして、過去から未来へ永続するノンストップの永遠の「今」が目の前に生き続けている。その今にLIVE、ライドオンすることです。転がる石にはコケはつきません。
無とはカラッポ、空虚、無い、ということではない。
深い瞑想、禅定(行 深般若波羅蜜多 時)の状態であると、自我意識という余計なエフェクトが無くなるので、この身と外の事とが全体と一つになるのです。
無ゆえに、ALL。
瞑想や坐禅をして自分意識、わたくし意識を絶して「無=ALL」を死ぬ前に感じてください。
自分を認める自分意識、自我意識こそが無になれば、内外の隔て意識が無くなり全部と一体になるのです。
そこを味わえば、理屈文字を超えた結論が出ます。悩み、闇も、病みも、あなたが毎回引っかかるあの世論もすべて吹っ飛びます。
そもそも、この世こそ既に、誰かにとっての死後の世界。
あなたの中では、誰が活きていますか?
ちょっと違います。
まつなかさん、こんにちは。
またどこから引っ張ってこられたのでしょうか?
まつなかさんの言う、無というのはたぶん、何も無いという意味だろうと思います。
仏教でいう「無」というのは、厳密に言うと一括りではなく五段階に分けられるといわれます。
一未生無。二已滅無。三互更無。四不会無。五畢竟無。
1.未生無は、原因が無いなら結果は生じない。
2.已滅無は、過去にはあっても今はもう無い。
3.不会無は、今ここに無い。
4.互更無は、甲は乙では無く、乙は甲では無い。
5.畢竟無は、過去にも、現在にも、未来にも無い。存在すらしない。
我々が死んでも、肉体に限っては、2であり3だと思います。
輪廻する限り、何も無い状態にはなりません。
ただ、まつなかさんが死後の世界に興味を持っておられること自体には敢えて異議は唱えませんし、疑問を持つこと自体は不思議ではありません。
ですが、それを知ることで、一連の質問から、いったい何を求めておられるのか甚だ疑問に思えてなりません。
お釈迦様は、そこを議論する意味は無いとして、敢えて死後の世界をお説きになりませんでした。
不問としたのです。
今を如何に生きるかを知らずして、死後の世界を探求することは、百害あって一利なしです。
どこかで見切りを付けて、今を懸命に生きることに力を使っていただきたいと思います。
臨済宗では、死後は悩みも煩悩もない涅槃の世界へ行かれると説かれています。涅槃とは、火が燃え尽きた静寂な世界のことを言います。
お釈迦さまが臨終の際に、「嘆き悲しむではない。私は安らかな大涅槃へ到達するのだ。この世における生死にとらわれてはならない。」と弟子たちに言い聞かせました。
「死んだら無になる。」のではなく、「あまねくこの世に、千の風のように広く行き渡る。」とお考えになってはいかがでしょうか。
死後はあります
仏教は輪廻を説きます。
死んだら来世が始まります。
つまり今の私は、前世の私の来世ということになります。
死んで無になるなら好き放題に生きて死ねばいいですがそうは行きません。
死後は生きている今の行為によって決まるので、好き放題に生きていれば地獄に行くことになります。
道徳や法律では、周りに迷惑をかけないように生きる必要があるから好き放題にしてはいけないと言われますが、仏教は違います。
好き放題に生きれば必ず自己に返ってきます。
このことを自業自得と言います。
「四句分別」について
まつなか様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「死後」についての拙回答一覧
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_324660.html
上記これまでの回答も踏まえまして、まず仏教的には「無記」(無駄な議論・戯論)として、お答えしないのが基本にはなるのでしょうが、しかし、本サイトが、Q&Aサービスである以上、お答えするのも使命としてございます。
もしも、仮にお答えせずにそのままであっても、それはそれで答えになるのですが、それが答えだとわかるためにも、やはり仏教にかなり精通していないとわからないものとなります(維摩居士レベルにおける大乗仏教理解が求められることになります)。
また、お答えとして、死後について、「有る」、「無い」、「有るとも言えるし、無いとも言える」、「有る、無いのどちらでもない」として四句分別のいずれかにてお答えするのも、対機説法・方便的にはあり得るものとなりますが、それら四通りの答えがそれぞれ「あり得る」と理解するためにも、やはりある程度の仏教理解が必要となります。
そこで、例えば、拙生がまつなか様のその問いに対機説法・方便的にお答えするためには、まつなか様の仏教理解、また、理解するための気質、機根を正確に推し量ることが必要となります。
その正確な気質・機根を察する上に必要となる智慧を磨くために、まさに拙生も日々精進努力を致している次第でございます。
そのため、拙回答において、ご満足頂けないとなれば、それはそれでまだまだ拙生の修行の未熟さということの露呈となります。
そこで、拙回答となりますが、「無ではないし、かといって有でもない」となります。但し、そこには「実体として」とお付け致すことになります。
もしも、「無」ということであるならば、そもそも「無」は「無」であって、何も生じたり、滅(死)したりはしないはずです。一方で「有」でも同じであり、「有」なるものも永遠・永久に「有」であるはずで、生じたり、滅(死)したりするものではないはずです。
そこで、現実には私たちは生じ、滅(死)するものであるということは、「無」でなく、また、永久永遠なものでもないため「有」でもないということになります。回答字数制限の関係上ここまで。
川口英俊 合掌
目指すは平安なる滅び(涅槃)
死んだ後にどうなるかは、煩悩のない悟った者と、そうではない者とで違います。
完全に煩悩がなくなった方(阿羅漢といいます。仏様も阿羅漢です。)の場合は、死ぬと涅槃(ニルヴァーナ)に入ります。
涅槃に入ると、物質世界からも精神世界からもいなくなってしまいます。精神世界の頂点ともいえる神々でさえも、涅槃に入った仏・阿羅漢をみつけることはできません。
そういう意味では、涅槃は、私たちから見た無に近い状態かも。
悟っていない普通の生きものについては、他のお坊さま方も言われてるように、生まれかわる(輪廻転生)とされています。
質問者からのお礼
ありがとうございます!
いつも気がつくとこういうことを考えてしまっています。