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自殺について

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中学生の頃から生きている意味について考えていました。長く生きることは凄いことと多数の方が思っていると思いますが、最近そう思わなくなりました。年を重ねるごとに醜い人間になっていく人が沢山います、何故そうなってまで生きることに執着しているのかと思ってしまうのです。

生きることより死ぬことの方が楽なのではないか、私はなるべく世の中の汚れを知る前に自分が傷つく前に、上に挙げた人たちのようになる前に人生を終わらせたいです、そしてそれは寿命でもなく病気でもなく自分の手で死ぬことが一番素敵だと思っています。
自殺する人は精神力が弱いという人も多数いました、ですが他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。

稚拙な文章で読みにくいかと思いますが、このような場でしか質問できないと思いました、ぜひ色々な考えを教えていただきたいです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間のへんてこりん♡な考えに縛られない

そういう考えって、物事を私見で取り扱ったチョット偏った見方です♡
メチャメチャ正論ならばTVやメディアでその意見が採用され「うん、そーだね!・真理だ!・いいね・いいね!」の大拡散。
ところが、そうはなっていないの世の中の現実でゴンス。
そういう理論があってはいけないワケではないのです。そういう表現が成り立つだけであって採用している人が実際にいない理論というものは人類共通の真理にはなりえない理論なのです。
確かに私も病気でしんどい時は、死んだ方が楽だわい💀という思いがよぎることしばしば。でも、そういう思いがよぎったからって、何でもかんでも思えてきたことを、ファイルクリックして持論大展開して現実化、実現したら世界中はメッチャラクッチャラのすっぽこぽいになっとるざましょ。
よって、こう考えてください。
「人間はホンットに良い意味でも悪い意味でもしょーもないコト考えちまうもんなんだ」と。
「考えちゃう・思えちゃった・そーいう変な考えが浮かんだ」という事自体は、別に間違いではありません。私の頭なんか日々是お花畑です。思想とは脳味噌が勝手に考えてくれたもんです。そういうアイデアは活用次第では小説やドラマ、作品にもなり共感を生むもので、悪いものではないです。
ですが、ですが。
あなたはこの長ったらしい文章を読んでいた時に息をしていたはずです。その息はあなたがやろうと思ってしていたのでしょうか。
もし、そうだとしたら私はあなたのご意見に全面的に賛同しシェア拡散してこの世に自殺教団を作りましょう。
ですが、この呼吸というものは、あなたの意思とか、あなたの考えとはまるで無縁に働いていたはずです。「人間の考えとは無関係に」。これがあなたを救うキーワードです。
年とってもエゴ丸出しのじさまばさまをみて心病むまでは、そんな暗いことを考えずにのびのび楽しく生きてきたはずです。
じーさん・ばーさんをみて、ああ、大変そうだなぁ、介護のお手伝いをしてあげたいなぁ、と思う人もいます。若き日のお釈迦様や私やあなたのように、老いに疑問を持つ方もおられます。大切なのはそれを機縁としてどこへ向かうか。
物事は良い悪いはなく、人間の考え・思い方とは無縁なのです。
あなたが幸せになるにはあなたの中の人間の考えに縛られて自死を選択する事を捨て、考えそのものから自由になれる幸せがあります。そこを求めてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

真理

長く生きることについて、ブッダのことばに

頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と呼ばれる。 ダンマパダ260

誠あり、徳あり、慈しみがあって、そこなわず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。 ダンマパダ261

とあります。仏教の説く避けられない苦しみに五蘊盛苦(ごうんじょうく)があります。これは心や体の機能が活発であることによる苦しみですが、おっしゃる通り「老いてなお益々盛ん」ということもあります。
幼稚な若い時だけでなく、年を経てもなお「執着」を離れられないということは全ての人間の課題だという事でしょう。

さて、

>生きることより死ぬことの方が楽なのではないか

とのこと。確かにこの世は残酷な面があり、そう思わざるを得ないような境遇も現実としてあるでしょう。しかし「楽」ということと「幸せ」ということは違います。耐えがたい苦しみの現実から解放される「楽」を求めて死を選択する人もおられますが、それが本当に幸せだったかどうかは何とも言い難いものがあります。

そして

>他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。

については私は「当たり前」とは思いません。しかしあなたがそう思うのならそれを否定もしません。同様に他の人がそれを「当たり前」とは思わないことをあなたも認めなければなりません。
どのような境遇・考えからそう思うように至ったのかはわかりませんが、もしあなたが例えば裕福な家に生まれ、友達も多く、愛する恋人もいて、将来の夢もある…そんな境遇だったならば同じように考えたでしょうか。
そうでないならばあなたの上記の考えについては「条件や境遇」、仏教でいうならば「ご縁」によって左右されるようなもの、つまり「真理」ではないということになります。
「真理」とはどんな人にも当てはまる普遍の道理を指します。お釈迦様はこの世を「一切皆苦」と説き、その上で苦しみを滅する道があることを説きました。

その真理はどこにあるか?それはあなたのいのちにもはたらいているのです。あなたの思いとは無関係にいのちは呼吸も消化も細胞分裂も休みません。生きたい生きたいと願っているのです。
そのいのちの声に真理があると私は思います。

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

蓮の花

このサイトはハスノハといいますが、蓮の花は仏教の象徴の花です。
それは蓮の花が濁った沼地に美しく清らかに咲くからです。
あなたが蓮の花の様に、この濁った世界でも知恵と慈悲を持って、美しく清らかに咲き続けてくれることを願っています。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

輪廻を考える

Mary様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、輪廻を考えることになるため、過去世より繋がりて、今に至り、そして、また来世と繋がっていくものを扱うこととなります。

その繋がるものは、肉体や物質にはあまり左右されることのない微細なる心・意識の連続体であり、その心・意識における業・カルマのそれぞれの状態によって、それぞれの赴く先も決まっていくということになります。

まあ、長く生きようが、今すぐに死のうが、もしも、無明(根本的な無知)・煩悩による悪い業・カルマに心が支配されてしまっている状態である限りは、いずれにしても変わりなく輪廻し、迷い苦しんでしまうものになるということであります。

仏教は、その悪い赴きへと向かう輪廻の因縁(原因と条件)を、仏法を学び修することによって改め、善い因縁へと変えてやっていくことで、善い結果としての赴きとしての輪廻からの解脱となる悟りへと向けて努めていくためのものとなります。

できれば、仏法を学び修せれる希有貴重なる境涯としてある今こそ、まさにしっかりと仏法によって、悪い因縁をできる限り善い因縁へと変えて参りたいものでございます。

自殺など、その機会を自らで失わせてしまうようなもの。誠にもったいない限りです。

とにかく命を大切に、善き赴きへと向けて、仏教も是非、学び修して参りたいものでございます。

共に頑張りましょう。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。

私は不幸ではありませんとても幸せです、その幸せを感じていのちが生きたいと願っているからこそ死に惹きつけられている面があるのかもしれないです。
また新しい考え方を知ることができました、感謝いたします。

煩悩スッキリコラムまとめ