死にたいです
今はただ、ただ、死にたいです。
先のことは何も考えられません。
明けない夜はない、止まない雨はないと言いますが、私の心はいつも土砂降りで、暗闇の中にいます。
家族は、「おまえの居場所は、家だ」と言ってくれますが、私の居場所はありません。
妹たちの姿を見ただけで、吐き気がするのです。
他の人と関わりたくない、自分の存在をこの世から一日も早く抹消したいのです。
どうしたらよいでしょうか。
教えてください。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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本当の願い
お辛いご様子ですね。「ただ、ただ、死にたい」そう言わざるを得ないような心情なのですね。しかし、ご質問の最後の
「どうしたらよいでしょうか。」
は何を指すお言葉でしょうか。おそらくですが
「自分の存在をこの世から一日も早く抹消」するには「どうしたらいいでしょうか」
ということではないでしょう?
「そうしないためには」「そのような思いを持たないためには」…「どうしたらいいでしょうか」ということでは?そして、「居場所」を得るには「どうしたらいいでしょうか」
という願いを本当はお持ちなのではないかな?と拝察いたします。
「居場所」を求めるということが大事な事であり、大変尊い事だと思います。求めるものが「心の安らぎ」だとしたらそれは個人の救いです。どんな場所だろうが、誰かが誰かを傷つけているような場所であろうが、私一人知らん顔で平穏な心であれば良いわ♪というのが心の救いです。「居場所」を求めるというのはどこまでも私とあなたが共に救われていきましょうという願いです。
本当は、できることなら、ご家庭においてご家族と…そして妹さんたちと出会っていきたい。認め合っていきたい。手を取り合っていきたい。そういう願いを心の深いところではお持ちなのではないでしょうか。
しかし人間中々思うようにはなりません。どうしてもそうなれないのであれば違う居場所を求めるのも一つの手でありましょう。
それでも、私が私の本当の願いに気づいているのとそうでないのでは私の在り方は大きく変わってくるのではないでしょうか。
「死にたい」ということもそうです。「死にたい」と言いながらもこのいのちは「生きたい」と願い、「生きよう」とする歩みをとめません。心臓が脈を打ち、呼吸をし、消化をし、細胞分裂も休みません。腹も減りますし、排泄もします。全部「生きたい」という願いです。私が私の「死にたい」という感情に支配されても、いのち全体としては「生きたい」という願いに包まれているわけです。
「死にたい」お気持ちは認めつつ、そのいのちの本当の願いにも耳を傾けていきましょう。
土砂降りの雨の中でも、深い闇の中でも、光は届きます。常に光となって照らし、声となって届く仏様が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
南無阿弥陀仏は私の願いに目覚めなさいとの呼び声です。苦しい時は称えて、みゅさんの本当の願いを思い出してみてください。
死にたいは生きたい変わりたい幸せになりたいに変えていく
生きながらに死にました。生きながら生まれ変わり、自分を活かして生きています。
そういう道があるのです。
私も昔死にたい時ありました。
どん底まで落ち切れるとよいです。
どん底まで落ち切れないとプライドが邪魔して死んでいたと思います。
私は死のうとしたとき、完全降伏、完全な降参でした。
自分の「この状況が嫌だ」という思いすら捨ててしまったのです。
私が捨てたんじゃないような気がします。
全部を諦めきった時、自然に手離れていくのです。
執着もこそ捨ててしまうのです。執着・マイ願望からも自由になれるのです。
「死にたい・死のう・死んだ方がイイや」と思えるものですが、それも実はこだわりであったりします。
自分の意見の押しつけであったりします。
そしてその自分の思い通りにならないことからの逃避であったりします。
自分の世界観というお城が壊れそうな感覚であったりします。
人間は知らず知らずのうちに沢山の小さなマイストーリーという砂上の楼閣を作って、それを頼りに生きているのです。それが失われた時、絶望と幻滅と喪失感に覆われます。
それはとても苦しい、虚しく、切ないものなのですが、それは序章です。第二楽章があるのです。第二楽章まで待ってみましょう。
大いなる成長のためには大いなる変革のためのエネルギーが必要なのです。
うちでニジイロクワガタというキレイな虫を飼っていますが、幼虫からサナギになって成虫になるには大きな見た目の変化もあります。
サナギがじっと土の中で動かずにいる時、私はこうなりたい、私はこうなりたい、というものはないように感じます。ただ生命のチカラに任せつつ、逆らわず、進むべき方向を見失わないことです。死にたい自分という嵐にこちらが関わらなくなっていくように、
「何もないや、何もねぇや。」
私は完全に捨てきれました。
どうせ死ぬという覚悟があるのなら、一番捨てられずにいるご自身の中の「最大の念」を捨ててしまうことです。今も、死にたいとかぼんやり考えていた、そのあなたを死に追い込もうとする思いをこそ、です。
家族とは精神的に出家をすればいいのです。
父も母も兄弟もそれぞれ別人格。
私はそう思いきった時、楽になれました。
それぞれがそれぞれ別人格。別生命。
各自が各自を生きればよいのです。
死にたくなったらお電話を。
08020659278 死の底から立ち直った人間より
「あなたの生きる道」はあります…
「今はただ、ただ、死にたいです」とおっしゃる「あなたに生きていて欲しい」ので申し上げます。
…「今はただ、ただ、死にたいと思っている御自身をいたわって上げて下さい」
今とにかく生きている御自身を、御自身で誉めてあげて欲しいのです。誉めるのが難しければ、受容して下さい…素の御自身を受け入れ、受け止めてください。
それが出来ないと、これからもずっと『死にたい』という思いを抱えて辛い日々を送ることになります。
でも、逆を申せば「それが出来れば、私は立派じゃないかも知れない、人に自慢出来るものでもないかも知れないけれども、ちゃんと『明日からも生きていける』のです」
あなたには、「あなた御自身が受容していないあなた」を温かく受け入れて下さるご家族がいらっしゃいますよね。こんな有り難いことはないですよ、本当に。他のハスノハの相談者の方から叱られますよ…「そんなに良いご家族が一緒なのに死にたいだなんて…私が許さないから」と言って…。
お身体お辛いのでしょうね…また御心も疲れておられるのでしょう。
「人間生まれたからには、こうあらねばならない」なんてことは多くありません…でも、一つだけ申し上げます。…「人間生まれたからには死ぬまでは生きていかなくちゃならない」
辛いですよね…でも、そんなあなたの苦しみを見抜いておられるのが「仏」なのです。
だから、仏様はあなたの苦悩を一緒に背負って、あなたとずっと一緒に生き続けて下さるのです。
この仏教的事実を受け入れることが出来れば、大丈夫。あなたはこれからも生きていけます。
「そんな仏なんてさ…」とおっしゃるならば、御自身の苦悩をただ自分で背負って生きるだけのことです。
そして、実はどちらの御人生を歩んでも、仏様はあなたのことを放っておかないんですよ…寄り添い続けて下さいます。仏様だから、それが仏の存在理由だから…。
お久しぶりですね。
いろいろ頑張っても良い結果が出なかったのでしょうか?
でもせっかくご両親からいただいた命ですから、大切にして欲しいと思います。
仕事はなかなか見つからないかもしれませんね。
気分を変えて、習い事とか通ってはどうでしょうか?
例えば岡山市には定期的に手話教室を開催しているところがあったりします。
また、習字も良いですよ。気持ちを集中できますからね。私は下手ですけど。
ご両親の農作業のお手伝いとかも良いと思います。
現世でできる事、まだいろいろありますよ。
妹さんや他人と自分を比べないでくださいね。
あなたは世界に一つだけの花なのですからね。
追記
あなたの宗派を知らないのですが、もしよかったら、当寺で毎月第四土曜日の2時から4時まで念仏会をしていますので、ご一緒に本堂で念仏を唱えましょう。
念仏を唱えて難聴が治るわけではありませんが、ただ一心に阿弥陀様に極楽浄土に往生するようにお願いしましょう。
生きるよりも死ぬのは楽かもしれませんが・・・・。
御苦しいんでしょうね。
あなた様の御気持ちしっかり御伺いしてないので
簡単に理解できているとか思っていません。
でも、
「死にたい」
「居場所がない」という「暗闇」に何度も
落ちたことがある私です。
人間はいづれ死にます。
生きていることが奇跡なのです。
そう思うようになったのですが
でも・・・・どうしても
「生きたい」
「長生きしたい」とは
全く考えていません。
死に急ぐ気持ちもありません。
本来、傍に居られるのでありましたら
ゆっくり御話し伺いたいところです。
一緒に、居場所探しませんか?
ここからたぶん私へ連絡できるかと思います。
今日も、朝を迎えられましたか?
でも、まだ悲しいのでしょうか?
その気持ちをお聞かせください。
どんなコメントするよりも
その方がいいと思ったので。
失礼ありましたら、ごめんなさい。
ご連絡お待ちしております。
※宜しければ直接お話をお聴かせ下さいませ。
みゅ様 誠に心配致しております。
御礼を拝見致しました。あまり良くありませんね…宜しければ直接にお話をお聴かせ頂けましたらと存じます。お待ち申し上げます。
何事も、自分の思い通りにならないことを「求不得苦」(ぐふとっく)と申しますが、これは、何か実体としてのモノ・コトを求めてしまうことによる苦しみとなります。
仏教では、全てのモノ・コトは実体がないというのは、「それを、それたらしめているものが、そのものの側のどこかに永久永遠に変わらない何かとしてあるわけではない」、「独立自存として成り立っているものはない」ということになります。
しかし、だからといって、貴女様も拙生も、また、幸せや悟りも全く「無い」というわけではありません。
貴女様も、拙生も、幸せも悟りも、それらは、色々な他に依る因縁(原因と条件)、色々な関係性によって成り立っているもの、成り立ち得るものとなります。
自分という存在も、他に依って、他との関係性に依って成り立っている以上は、他との関係性を無視しては成り立たないものとなってしまいます。
存在の有も無も、実体としては無く、他との関係によって成り立っており、その縁起による中道のあり方を知ることが大切となって参ります。
そして、幸せなど概念によるものも、それぞれ自身における恣意的なところでの他に依る因縁次第において、どうとでも言い得るようなものでもあります。つまり、他に依って、自分の心が決めているものとなるのです。
そして、他に依って、自分の心が決めれるものであるならば、幸せは無い、幸せにはなれない、というわけではなく、それは、まだ見つけ出せていないものであると言えるのではないでしょうか。
重度の自閉症であり、作家である東田直樹さんは、あるインタビューにて、「人生にとって前を向いて生きるために大切なこと」を聞かれた際に、「人はどんな困難を抱えていても、幸せを見つけ生きることができる」と答えられておられました。
幸せになれない、幸せは無いではなくて、幸せへと向けて、どう生きるかが大切となるものであると存じます。
仏教にも多くそのヒントがございます。
是非、学び修して頂きつつに、幸せを見い出して、この命を生き切ってほしいと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様、大変ありがたいご回答をありがとうございました。
しかしながら、私の心は変わりませんし、変われません。
毎日、毎日、部屋で一人で泣いています。
あの世へ行くのも、悪くないんじゃないかな。
皆様、ありがとうございます
しかし、どんなに素晴らしい言葉も私の心には届きません
明日か、明後日か・・・近いうちにあの世へ。