人の成功を喜べません
はじめまして。
私は昔から他人の成功を喜ぶことができない性格なのです。
例えば、友達が仕事で成功したり、難しい資格に合格したりなどの話を聞
と、表面的には一緒に喜びますが、心の中では悔しいような、寂しいような、
不安な気持ちが沸いてきます。
親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。親友や恋人に
対しては特に強く感じます。逆に親しくない関係の人の成功は素直に喜ぶ
ことができます。
自分でも嫌な性格だな、と思ってはいるのですが、どうしようもないのです。
誰でも少しは似たような嫉妬の気持ちはあると思いますが、自分は特に強く
嫉妬してしまいます。
この気持ちはどう整理すればよいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
カメの幸せ。
童話『ウサギとカメ』のカメは、なぜウサギに勝てたのでしょうか。
「比べなかった」からです。
優れた相手をうらやんだり、自己嫌悪でふてくされたりせず
自分のやるべきことだけを見据え、淡々と全力を尽くしたからです。
ミャンマーの僧侶、アシン・サンダーディカ師は、嫉妬する人を「息する死体」という痛烈な言葉で表現します。
他人をねたみうらやむとき、私たちは最も大切な仕事…「いま・ここ・私」を生き、人として成長することをストップさせています。
自分と他人とを比べる「慢(まん)」という気持ちは、修行の一番最後の段階でやっと取り除けるほどの、強力な心の汚れです。
ですから、うらやましさに胸がチクンと痛むことは、誰しもあることですよ。
ただ、心は訓練によって変えていける不思議なものです。
「このような気持ちになるのは苦しい」と既に気づいていらっしゃるのならば、きっと良い方向に変わって行けるはずです。
限りある時間と能力を、自分やまわりの幸せを増幅させるために使えるといいですね。
※童話の例えはかつて読んだ本にヒントを得ましたが、出典失念しました。
それいけノザワナマン!
おもしろたとえ話
あなたはカブです。親御さんもカブです。
親御さんはあなたにもっと大きなカブになれと言います。
期待に答えたくても自分の畑では栄養分が合わないのか、足りないのか、根っ子が全然おおきくなません。「おかしいな、アレおかしいな」気がつくとあなたは根は小さいまま、葉っぱばかり伸びてしまう「野沢菜さん」だったのでちた。
親はもっと根をはれ、と言い、周りは成功していて自信をなくしていました。
ところがある時に「ステキ❤」明太子さんという方から猛烈なアタックを受けます。
二人はオニギリとなって相性抜群です。
あなたは自信を取り戻しました。「そうか、もうカブでなくて、いいんだ。」「そうよ❤」
あなたは成功した高菜くん、小松菜くんを始め、ご両親に、心の中でそっとつぶやくのです。
「僕は僕なりにこの畑で生きようとして精一杯生きた姿がこの姿なんだ。だから僕は僕を生きるよ。」
同じカブでもダイコンでも畑、土によってカタチや味も変わります。
よって、あなたはカブ派、人参派、大根派では成功する必要なんてありません。
野沢菜派、野沢菜流として葉っぱをいっぱい伸ばし、いつかタラコさん、明太子さんからステキ❤ と猛烈アタックを受けるその日までしっかり自分の葉っぱを伸ばし続けることです。
ちなみにライバルの高菜さんも遠く九州で成功して今や豚骨ラーメンには欠かせない存在かも知れません。小松菜くんも千葉の船橋で小松菜うどん、小松菜青汁として一旗あげたそうです。
ですがあなたにも無限の可能性があります。
相性のいい梅干しさん、タクアンさん、いり卵さんと結束して美味しいおにぎりをたくさん生み出してください。笑
いや、あくまでたとえ話です。
オチ:「親や誰かとカブるな。」
参考聖典「クックパッド」より
自信がないのでは?
すすむさんへ
親しい方の成功こそ素直に喜んであげたいのに喜べない、そんなご自分の姿を変えたいのに変えられない、お辛いでしょうね
質問を拝見しての私の見解ですが、すすむさんはある種の劣等感がお有りのようですね
それはきっと、ご自分に自身がないからではないでしょうか
なぜならば不安というのは自信のなさのあらわれだからです
すすむさんは物事を対比する考えが強いのではないでしょうか
つまり私はAさんと比べてこういうところは優れている、こういうところはBさんより劣っているというような考え方です
親しくない方に嫉妬しないのは、比べる点が少なくて対比できないから悔しさが湧かないのではないでしょうか
反対に親友や恋人は、距離が近いぶん相手の「粗」がよく見えますよね
良くも悪くも「自分に似た人たち」と感じているため、相手が優れた結果を出すと「置いていかれた感」を感じるのでしょう
それが「悔しいような、寂しいような、不安」の正体だとお見受けしました
それを前提に解決策をご提案いたします
まず「人に嫉妬する自分を否定しない」、自分自身を受け止めてあげましょう。自分を否定するのは辛いことです、「私はこんな感情を感じているのだ」と受け止めるだけで良いのです
その2「目的をもつ」 誰かと比べるということは、すすむさんの視野が狭くなっている証拠です。相手のことしか見えていないのです、ですので何か目的をもって「私は目的に近づいているだろうか」という基準でものを考えると「誰かとの対比」の習慣はなくなるのではないでしょうか
「自信をもつこと」 自信は誰かに認められてつくものではありません、字のごとく「自分を信じる」と書きます。今はうまくできていなくても自分を信じてあげましょう
文字数の関係で雑な回答で申し訳ありません
人間の心情
すすむさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
以前「友達の幸せを喜べない自分が嫌い」という問答がありました。まずはそちらをご覧頂いてもよろしいでしょうか。
http://hasunoha.jp/questions/124
あちらでも書きましたが、人間には他者の不幸を見て相対的に幸福感を感じるという、身もフタもない心情があるようです。裏を返せば、他者の幸福を見て不幸せな気持ちになるとも言えるでしょう。
鎌倉時代の親鸞聖人という高僧は自分自身のことを「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎のごとくなり」と仰っています。「人間が持つ悪しき本性はなかなか止めることはできない。まるで毒蛇・毒サソリのようなものだ」という意味です。
すすむさんは、「親しければ負の感情が強くなり、親しくない人の成功は素直に喜べる」とありましたが、これは他者の成功内容に関わらず、その人との関係性で決まってくるのでしょうか?
私の場合は、私の欲するものを人が得れば嫉妬しますし、自分と関係ないものを得れば素直に喜べます。関係性よりも、他者の成功内容に左右されます。すすむさんは如何ですか?
上記のリンク先でも書きましたが、これは人間の当たり前の感情なんだ、とまずは認めてあげてはいかがでしょうか。仰る通り、誰でも多かれ少なかれ持っている感情です。
少なくとも表面的には一緒に喜んであげられているのですから、すすむさんか決して嫌な性格なんかではないと私は思います。
それだけ、相手のことを、意識しているのかも知れないですね。
私たち人間は、羨み 妬み 怒り 悲しみ 愛憎の煩悩を 断ち切ることは、なかなか難しいものです。不可能に近いかもしれません。
私自身も、素直に喜べない時があります。自分が、思い通りにいかないと悩んでいる時には、特に 相手の喜びを素直に 受け入れれない私がいます。これは、誰もが 持っている感情であり、全く無い!なんて人は、いないでしょう。
それだけ、相手のことを、意識している(ライバルや、同志)のかも知れないですね。
「随喜功徳」
すすむ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
「嫉妬」は煩悩の一つであり、誠にやっかいなものでございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/嫉
嫉妬や煩悩に関しましては、これまでにも下記問いにて少しく扱わせて頂いております。
問い「嫉妬する気持ちを消したい。軽くしたい。」
http://hasunoha.jp/questions/134
問い「人の悩みって」
http://hasunoha.jp/questions/82
問い「世の中で一番醜い事は」
http://hasunoha.jp/questions/66
上記の拙回答の内容とは少し違った観点から今回は述べさせて頂こうかと存じております。
仏教には、「随喜」という言葉がございます。
字の通りに「喜び随う」となりますが、他の者の善徳行や慈悲・利他行について、喜びの心を起こして、その功徳に随うことであります。
「随喜功徳」と申しますと、法華経の「随喜功徳品第十八」が有名でありますが、迷い・苦しみある者たちを救うというために行われる善徳行や慈悲・利他行について、誠に有り難く、尊いことであり、私もいずれはしっかりと行えるように調えて参りたいという心を生じさせることが仏教において肝要となります。
大抵の場合、嫉妬は世俗的な欲望において起こることでありますが、世俗的なことにおいても、自分自身もいずれは同じように成功したいと思うのであれば、嫉妬による言動は結局のところ悪い結果しかもたらされることはないので、できるだけ慎んで、できれば一緒に喜んであげて、自分もいずれは同じように成功したいとして精進努力して調えていくことが望ましいことであるかとは存じております。
その成功も、できれば「自分のため」ではなくて、「人のため、社会・世の中のため」ということでの成功を目指すようにしていくことが、自ずと自分のためにも繋がっていくのではないかとは存じております。「自利利他」ということでありますが、それを仏教においては、「全ての迷い・苦しみある者たちのために」ということでの善徳行や慈悲・利他行とすることを更に目指していくことが大切となって参ります。
なかなか嫉妬などの煩悩を無くしていくことは難しいことではありますが、是非、共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
ぜひパワーに変えてください
すすむ様へ
決して悪いことばかりではありません。
嫉妬を自分のパワーに変えればいいのではないでしょうか。
すでにこうして質問をされているということは違和感を感じているという証拠。
ぜひ前向きに、仕事や趣味など今度は自分が成功してやるという
パワーに変えていただきたいと思います。合掌
すすむ様。
浦上 哲也 師の仰るごとく、貴方がお悩みの「人の成功を喜べない其の感情」は、『人間の当たり前の感情で有る。』と、先ずは割り切って掛かる事でしょうね。
その上で、川口 英俊 師の仰る、『他の方の喜び事を一緒に喜んでさし上げ、自分もいずれは同じように成功するのだと精進して行かれる事』を為さる事が宜しいのでありますまいか。
とは言え、なかなか難しい事では有りますが…徐々にで宜しいかと存じますよ。
無理しても焦るばかりで、上手く参りませんから…
心が大切ですか?
「人の成功が喜べないが、表面的には一緒に喜べる」ということでしょうか。
道元禅師様がお示しになりました『正法眼蔵随聞記』に「得道(仏道修行)の事は心をもって得るのか、身(行い)をもって得るか。」の質問に「正しく身(行い)を以て得るなり。」と答えました。理由は色々と書かれておりましたが、要約すると「身(行い)が整えば、次第に心も整う。」ということです。
すすむさんはなぜ、表面的にでも一緒に喜ぶのでしょうか?私にはその理由が分かりませんが、思っていることを素直に言葉に出すと友人との関係が崩れてしまう、空気の読めない人間と思ってしまう、と思ってしまうのではないでしょうか。その気持ちが気遣いというもので、素直に思いを話すことにはリスクを背負うことになると思っているのではないでしょうか。だったら、今まで通り。気持ちは喜べないが、人の成功を褒めたほうがリスクが少なくて済むと思います。それを続ければ、自然と「人の成功が喜べないが、表面的には一緒に喜べる」気持ちがなくなってくると思います。それは明日かもしれない。死ぬ間際かもしれない。いつかは私も保証できません。悪しからず。
あなたの深層心理に何かがあるのでしょう。
その性格が自分でも嫌だと思う気があるのならなにか
外部的要因があるのではないでしょうか?
「親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。」
とありますが、
たとえばあなたのご両親になにかそういうことがあっても素直に
喜べないような気持ちはありませんか?
もしそうするとなにか親子関係に問題があるのかもしれません。
あなたではなく父親、もしくは母親があなたに対して
そういう気持ちを抱いてはいないでしょうか?
またはご兄弟で差別されていたようなそういう関係はなかったでしょうか?
昔からそうだったというのであれば、その原点まで戻り、
振り返って原因を探してみて下さい。
もしあなたが何か成功して他人に喜んでもらえたとき
あなたは嬉しくありませんか?
その嬉しい気持ちを今度は人に分け与えてあげれば良いのです。
ちょっとしたことをして「ありがとう」と言ってもらえたら
あなたはうれしくありませんか?
もし嬉しかったら今度はあなたが他の人にしてあげましょう。
その人もきっと嬉しいはずです。そういう小さな積み重ねが大事です。
「ちりも積もれば山になる」と言う言葉があるように
あなたの心をその気持ちで少しずつでも満たしていけば
きっと何かが変わると思います。