曹洞宗の上での死後とはなんでしょうか?
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。
仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。
そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。
そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか?
そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか?
もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう?
私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
曹洞宗というものがどこかにあるのではありません。
道元禅師は曹洞宗とも禅宗とも呼ぶなと言われています。
宗派によって考えが変わるのは仏法ではないからです。それは思想というもの。
真実の仏法は各宗派共通。人間の思考に染まらないもの。
死後の世界とは人が亡くなられた後も続いていく「この世界」以外にどこにあるのでしょうか。先祖やあなたが亡くなった後も続いているこの世界こそ死後の世界。だからこそ、先人たち叡智を継いでより良く生きていくべきなのです。
懺悔も菩提心もこの世でより良く生きてくという誓願。
だから、いい加減に生きれば後の人たちが昨今の異常気象のように苦しむことになるので、ちゃんと立派に生きてできるかぎり立派に死んでいくべきでしょう。
六道とは、亡くなった後のことではなく、今、ここ、日常。
自身の心以外のどこに六道があるのでしょう。
鬼を描くも仏菩薩を描くも同じ筆。
自身の心の外には迷いも悟りも地獄も極楽もありません。
天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄、みな自己の一心のあり様です。
だから、生きてこの世の地獄を悟りに転ずる。坊さんの活動とはそういうことでしょう。
餓鬼道とは、人間の我・我欲の象徴。
世界中の誰もが生まれながらに餓鬼心を持つ。生まれながらに自分のことしか考えることができないという心の狭い、小さな自分ラブな生き方をしている存在だから互いに智慧や慈悲を提供しあってより良く生きていくのが施食。
北朝鮮、イスラム国の暴挙、中国の侵略、みんなエゴ&自我の暴走=餓鬼心・飢渇です。
日本も原発隠ぺい、嘘情報を流して自分たちのことだけよくしようとすれば餓鬼心。
施食会とは、そういう我々の小さな心に大きな法・法食=真理を広め供養回向(シェア)すること。食べ物ではなくその人の心の求める最高の満足食=悟り・安らぎ・智慧・慈愛を与える。
それが誰もが救われる釈尊の教え「法」です。
この世が地獄にみえるか天国にみえるかもその人の心のあり方次第。
だからこそどうあれば、日々安楽で暮らせるかを自らの心のあり様に見出す。
それが坐禅です。
天国、地獄の概念がないのではなく陣減の概念・観念こそが地獄・天国にも転ずるので、そこを飛び越えると救われるのです。
天国、天上界は単なる一時的なノボセ(癒し)なので最高のこころ(救い)ではありません。
懺悔とは人間の思考以前の実相をみつめること。ただし、懺悔だけではなく、四摂法を勤めるのです。
こんばんは。
輪廻については、今までも何度か質問が来て、いろんなお坊さんが回答していますので、是非過去の問いもご覧になってください。「問答」の「キーワード」機能を使うと良いと思います。
ちなみに私も答えた輪廻に関する問いと答え
http://hasunoha.jp/questions/10735
死んだ世界から帰ってきた人がいないので、死んだ後の世界がどうなっているかは誰にも分りません。輪廻の事もわかりません。
曹洞宗でも、六道輪廻について積極的に「あります」「ないです」という話はしません。
(ここからは曹洞宗についてお話をします。以下「曹洞宗では」という書き方をしますが、曹洞宗以外の宗派もだいたい同じだと思います。他宗批判をするものではありません)
曹洞宗の葬儀は、亡くなった方が、過去の罪を懺悔し(亡くなっているので、僧侶や会葬者が故人になりかわり懺悔をします)清浄心となり、仏戒を受けて仏さまのお弟子さまになる式です。つまり曹洞宗の作法により葬儀をした者は、もれなく仏さまの世界、ご先祖さまの世界に行きますので、他の界に行く事はありません。(ですから、あなたも周囲の人に、今流行の「直葬」などせず、きちんとお葬式をしてね、と頼んでおきましょう)。ご安心ください。
でも、自分が死んでしまう前に、自分できちんと罪を懺悔し、仏さまの弟子として正しい生活をしたいものです。
そういう方の為に「お授戒(じゅかい)」という式があります。永平寺・總持寺のご本山でもしていますし、それ以外の地方のお寺さんでもしているところがあります。菩提のお寺さんに「お授戒に参加してみたい」と聞いてみましょう。
もうひとつ、最後に、「懺悔文」という、過去の罪を懺悔し、清浄心となるお唱えを紹介します。
短いお唱えです。是非お唱えしましょう。
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡 (かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生 (じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)
意味
私が昔から作った罪のかずかずは、皆むさぼりの心といかりの心とあさましいぐちの心によるものです。
それは私の身と口と心の行いによるものです。今ここに一切懺悔しますので、み仏の心に救われますように
です。
歴史的に見れば
歴史的には面白い事例があります。江戸時代よりちょっと前のキリシタンたちの報告です。
曹洞宗の人々は死後のことなんか考えずに今生きているうちに悟りを開いて輪廻から解脱するのだと頑張っていたようです。この世で決める、来世は考えない、です。
それを信者さんにも説いていたようです。信者さんは、最初は武士が多かったのです。
武士の信者さんも、毎日が生き死にの世界にいますから共感したでしょう。しかし奥さんや子供はどうだったでしょうか。
浄土宗や浄土真宗の人々はこの世で修行して悟るのは無理だから、しかし死後に地獄に行くのも嫌だから、仏さまにすがって死後は極楽浄土に行って、そこで穏やかに修行して悟りましょう、と二段階で説いていました。信者さんは一般の農家が多かったのです。
江戸時代が始まる直前にキリシタンがいろいろ布教したのですが、武士たちの奥さんが、「ああ、やっぱり来世があるんですね。天国に行けるんですね」と入信しました。農家の人々は、「天国?そんなの、うちの教えにもあるよ。珍しくもない」とあまり入信しませんでした。
仏教ですからどの宗派も六道輪廻とそこからの解脱を言いますが、禅の系統では現在でも、うっかり、来世の六道はそっちのけで、今生きているうちに悟りなさい、を強調するかもしれません。自分でも六道輪廻を認めないお坊さんさえいます。でも悟らずに死んだらどこかに生まれ変わりますから、悟れないときのために全部教えておくほうが良いと思うのですが。
浄土の系統では、現在では、誰でも死んだら極楽浄土に行くのだと、えらく気楽なことを言います。しかも、極楽浄土が悟りの世界で、みんなただでそこに行けるのだから、六道輪廻を心配する必要はないそうです。で、こちらも六道輪廻を信じないお坊さんさえいます。
お釈迦様の譬えの中に、ある王様が生まれつき目の見えない人たちに象さんを一部ずつ触らせて、象とはどういうものかと答えさせたお話があります。耳を触った人は象とは薄っぺらいうちわのようなものだと、しっぽを触った人は箒のようなものだと、足を触った人は丸太のようなものだとそれぞれ主張して、喧嘩を始めたのです。
今の各宗派のお坊さんも、一部ずつを知って、全部を知ったつもりになっていないでしょうか。
Always 施食会
申し訳ございません、お坊さんの汚い所を見せてしまって。目の前の質問者さんを放ったらかして、何百年も昔の話をひけらかし、ケチつけて終わるのは質問者さんに無礼です。それにそんな回答で、今、誰か入信するのでしょうか。根本的に矛盾していませんか。ここで喧嘩を始められて一番気まずいのは質問者さんですよ。
先に煽った方も煽った方ですけどね。
また荒れてもいけないのであの世については既読スルーし、どうするかの部分だけ回答させていただきます。
道元禅師の教えを檀信徒さん向けにまとめた修証義の、第2章が懺悔滅罪の章です。この中に懺悔文そのものが書かれていますし、懺悔の心得も書かれています。この修証義第二章の読経から始めましょう。
(もし実際に犯罪をしてしまったなら自首してしかるべき償いをするのも大事です)
ちょっとネタバレになりますが、修証義第二章には「懺悔して誠実な生き方を目指すようになると、自分だけでなくまわりの人々も、世界中あまねく救いに向かうようになるのですよ」とあります。きっとあなたが望む人のためにその懺悔の功徳をめぐらすことが出来ますよ。
「誠実な生き方を目指すようになれば」と書きましたが、これは「誠心をもっぱらにして」だけではなく、「学道、障り無からしめ」も意識しています。これは前後の文脈と一緒に読まないとピンと来ませんが、要するに過去の過ちの懺悔だけでなく、これから仏道(誠実に生きること)を目指す気持ちを固めるところまでひっくるめての懺悔ですよ、ということです。
じゃあ誠実な生き方って何よ?となりますが、そこで修証義第四章の四摂法に続くわけです。
施食会って何をしているかというと、餓鬼仏にご飯を施しているわけです。つまり四摂法の第一、布施。それから餓鬼仏が食べられるように優しい陀羅尼で読経してあげるわけですから第二の愛語でもあります。餓鬼仏を救った功徳をご先祖様にめぐらし向けるから利行でもある。そして餓鬼仏に布施をすることによって実は自分自身も一緒に貪りの心や物惜みの心を離れるのだから同事でもある。
施食会とはスピリチュアルな呪術ではなく、誠実に生きる仏道修行、四摂法そのものなんです。だから修証義をきっかけに四摂法を学び、実践すればきっとあなたの望む人を救え、あなた自身も救われますよ。
書きづらい雰囲気になってしまっているでしょうからご返信は結構です
曹洞宗における死後を考える
悩む優様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
曹洞宗における死後を考えるには、曹洞宗の在家葬儀作法により、それを少し伺うことができます。
通夜の回向では、「人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」とあるため、輪廻を脱して、「如来宝明の空海」に入るとして、如来が宝の如きに明らかとされておられる仏法を説かれてあるところの空海、つまり、仏法の空海、宝庫へと至らしめることが記されてあると考えることができます。
また、葬儀の際における梵網経の一偈としての「衆生、仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じゅうし巳る。真に是れ諸仏の子なり」では、しっかりと懺悔滅罪し、仏戒(仏の定めた戒律、大乗戒)を受ければ、諸仏と同等の位に入るということが述べられています。但し、「諸仏の子」として、あくまでも予定としてであり、しっかりと真なる仏となるための修行に励むことは必要になるのではないかと解せます。
葬儀の際の「山頭念誦」では、荼毘後に「一路涅槃の径に入らしむ」とあり、悟り・涅槃へと向けた道に入らせるとして、仏道をしっかりと歩めるようにするとの文言も見受けられます。
また、禅宗においては、「見性成仏」と言われるように、「己の内に本来ある仏(如来蔵・仏性)の心を見い出すことを目指す」ということで、極楽や地獄などは、各々の心の状態を表すもの、あるいは、その方便として用いられることもございます。
いずれにせよ、六道が存在するにしても、結局のところは、それらを己が心において捉えるところとなりますから、その心の状態をどうしていくべきであるのか、というところが大切となります。
その心の状態を、悟り・涅槃へと向けてより善くに調えるための教えが仏教であり、もし、その心の状態が悪い者にも、自分の功徳を回向することで、より善い状態へと導いていくための供養は、仏教を修する者であれば誰でも成せるものであると考えます。少なくとも、大乗仏教では、「一切衆生が救われるために」ということが前提であるため、その修したる功徳は、常に地獄にある者、餓鬼にある者へも及ぼされることになります。
また、懺悔や滅罪も日々のお勤めの中においてできますので、しっかりと勤行にも努められることで、悪業を少なくし、善業を積むことに資することになるかと存じます。
川口英俊 合掌