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仏教における女性蔑視?はいつから?

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毎度お世話になっております。
お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。

私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。
今回はちょっと学問的な質問を。

タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。
そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。

いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。
大乗仏教に入ってからなのでしょうか?
大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。

よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか?

一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。

詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教「が」女性差別をしているのではないでしょう

仏の教え、仏教は女性差別から救い出す働きのものです。
仏教「が」差別しているのではなく、仏教を誤って解釈した未熟な仏教学者たちが女性差別をしたのでしょう。それはあくまでその僧侶の風上にも置けない無知なるものがどういう訳か仏教界に所属して、自分たちの都合のイイ教えを作っていっただけでしょう。
現代にも女性差別する僧侶はいると思いますよ。
それは僧侶が女性差別したのではなく、仏教を知らないのに、仏教界に所属している僧侶の格好だけしていた僧侶ならざる者が差別をするのです。
精神が僧侶であれば仏法に住して居ますから差別をしないでしょう。
精神が僧侶でない者はオテラという建物に住んでいるだけでほぼコスプレ僧で俗人と変わらんのです。大きな組織ですから、いつの時代にもそういうまがいもんが混じり込んでいるのです。
そういう人間は差別をするでしょう。
本質を見極めることが大切です。
仏教「が」差別をしたのではない。
あくまでその人個人が差別をしたのです。
男性であってもカリカリする人はすぐカリカリします。
男性だから女性だからではなく、己の怒りや苦しみ、不機嫌、迷いに向き合うのが「あなたの」仏教、あなたの「仏道」なのです。(-ω-)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「女性」の定義

スリランカ人の、上座部仏教の僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラ長老のお話を読んだ中で、おもしろい話があったのを思い出しました。
女性の定義について、うろおぼえですが。
子供を生むことができるのが女性、なのだそうです。
つまり、生物は女性と男性と言うより、女性と非女性と言えるかもしれません。
単細胞生物とか、自分で分身を産める場合も女性。働きバチは非女性(男性)ですね。
これを聞いて(読んで)私が思ったのは、女性が子供を産み育てるためには、それに伴う執着心がついてきますから、悟りの邪魔になる可能性は否定できないということです。
「自分のお腹を痛めて産んだ子供」なんてよく言いますが、それも、男性にはない強い愛情(執着)でしょう。
逆に、女性でも出家すれば非女性になれるのかもしれません。
極楽浄土に往生したらみんな男性(非女性)になるそうです。
だって、極楽浄土では人・天は蓮華の中から出現するように産まれる(化生)ので、人・天が子供を生む必要がないのです。
だから全員が非女性(男性)と言えるのでしょう。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

大乗仏教以前からありますよ。初期の主要大乗経典の中に勝鬘経という女性成仏を説いたものがあります。これはそれまでの仏教に対するアンチテーゼですから、大乗仏教ができる前から女性は成仏できないという思想があったことになります。

ただ、初期の経典ではどうかと言いますと、テーリーガーターというお経の第60から62番の詩にこうあります。

六〇〔悪魔いわくー〕「理解しがたくて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕智慧しかない女人がそれを体得することはできない。」
六一〔ソーマー尼が答えていわく、ー〕「心がよく安定し、智慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなろうか。
六二 快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明の〕闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、ーそなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ。」
(中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫)

悪魔というのはマーラーであり、世俗もしくは自分の煩悩です。つまり周囲の意見や自分の迷いです。この文脈ではどちらでも読めます。仙人というのは原語はバラモンでしょうか、分かりませんが、仏教徒を仙人と呼ぶことは無いので異教であることは間違いありません。おそらく子供の頃から男尊女卑の環境で育ち、出家してなお心ない言葉を浴びせられ、自分の中にも不安やくじけそうな思いとの葛藤があり続けたのでしょう。しかし、ソーマー尼は禅定と智慧によってその葛藤を克服した…そしてそれが仏弟子の男性社会の中でも認められたので経典として書き残され、後世まで破却されずに伝わったわけです。

しかしですね、こうして書き残されたということは、深読みすれば軋轢があったことの裏返しでもあるでしょう。書き残して釘を刺しておく必要があったわけです。それはそうです。そういう社会で育った人に出家させるわけですから、どうしても社会通念に引っ張られる部分があるのです。そしてお釈迦さまの当時でさえ、お釈迦さまが亡くなったときに「これでうるさい奴がいなくなった!」と喜んだ人がいました。仏教ではどうか?単純に割り切れる話ではありません。いつでもどこでも、常にあらゆる方角に向かうベクトルが有るものですよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

仏教は女性蔑視はしていません

女性「女の私は劣っている。」
男性「女のお前は劣っている。」

この男女の意識改革が仏教です。
特に女性の意識をお釈迦様は変えたかったようですね。
男性による女性蔑視がいけないのはもちろんですが、
女性による女性蔑視が一番いけないよという事なんです。

ご質問とはそれますがご参考までに。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

あくまでも私の理解ですが・・・

みつきさん、ご質問ありがとうございます。
大変仏教にお詳しく、興味をお持ちのようですね。

確かに、現在の視点から「仏教における女性差別意識」を取り出すのは、十分可能なことだと思います。

私は浄土真宗ですので、そのあたりの話になりますが、親鸞聖人がお作りになったものの中にも「五障」「変成男子」という言葉が出てきます。
それぞれ「女性には五つの障りがあって往生出来ない」「女性は男性となって往生する」
というような意味です。

そういうところから、現在の知見は「女性蔑視」を指摘するのですが、私はそのことに疑念を感じます。
確かに、現在の水準では、お釈迦様や親鸞聖人のお言葉に「女性蔑視」ととれるものはあります。
しかし、お釈迦様や親鸞聖人の時代状況が、「女性蔑視」を当たり前とするものであったと思います。
あなたが調べられたように、この二つの言葉は、「女性蔑視」「女性は往生出来ない」というその時代の偏見を打ち破るためにお釈迦様や親鸞聖人はお使いになっていると思います。

その時代の一般的な考えでは、「女性には五障があるから往生出来ない」となっているものを「女性は一旦男性になって往生出来る」とする考えは、当時としては、「男女平等」を訴える声だったのではないでしょうか。

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個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

質問者からのお礼

みなさん回答ありがとうございます。

なるほど女性蔑視が当たり前の社会だったということで、お釈迦様も女性蔑視ととれる発言というか、その前提を元にした発言はされているのですね。

とすると、いつから、と言ったらお釈迦様以前から、となるわけですね。勉強になりました。

仏教が女性蔑視をしてきたか、ということについては、私個人的には、少なくとも実際に蔑視、ないしは何らかの特別視をしてきたという歴史があることは認めなければならないと思いますよ。
それが良いか悪いか、正しいか間違ってるかという議論は別ですけれど。

私自身の宗派は浄土真宗なので、どっちにしても救われるみたいなので究極どっちでもいいんですけどね。

丹下さん、大慈さん、加えてありがとうございます! 大変参考になりました。

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