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仏教では救いを求めて祈ることはないのでしょうか

こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。

ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。

どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?

仏教
有り難し 69
回答 4

質問投稿日: 2018年5月8日 16:56

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

もちろん、ありますよ。

L.Mさん、こんにちは。

もちろん、仏様に救いを祈ることはありますよ。
僧侶・仏教学者の中には仏教の原理ばかりを説いて、既成の仏教の教えを否定する人がいますが、仏教は思想や哲学ではありません。仏さまを信じて仰ぐという信仰を持って人を救うのです。仏教の本質は、自分の心の改革ですが、そこに至るまでには、さまざまな方法・手段があります。それを「方便」といいます。世俗のことわざに「嘘も方便」というのがありますが、方便は嘘ではありません。方便は真理を悟らせるための大切な方法論なのです。そして実体のない真理を体得に導く方法だからこそ、真理と方便は表裏一体の関係(方便即真実)であると説きます。

 だから仏さまの救いを祈ることは、目的さへ間違わなければ教義で間違っているわけではありません。大切なのは、今、自分がどのような生き方、信仰をすれば、心の改革ができ幸せになるかの目的への方向性が大切なのです。 
 方便は、同じ方便であっても、その時の状況によって、真実であったり、間違いであったり、定まりません。例えば、Aという薬(方便)が風邪に効くからといって、他の病気にも効くとは限らないのです。それぞれの人にあった方便が必要になります。

 今のL.Mさんの充実した生き方に、神さま・仏さまを拠り所にすることが、信仰を充実させて幸せに導く方法なら、すがるお祈りも大切な方便なのです。でも祈っているから救われるから、それだけでいいということになると、祈りの目的がずれてしまいます。神さまの救われに安心を得ながら、どうすれば自分の心を磨き、神さま、仏さまのお心に近づくことができるかの修行をしていくか?そのことを忘れなければ、あなたの祈りは大切な方便即真実なのですよ。

がんばって!合掌

7ヶ月前

祈りの向かう先 導き先 は どこでしょう。

自分が自分の描いたとおりに祈るとそうでなかった時にその祈りは何にもならなかったと思ってしまうものです。
祈りの究極は無私無我の祈り。
その祈る行為すら「私の描き」が無くなって、純粋な祈りになる。
真に純粋な祈りがなされるとき、その純粋な祈りのチカラによって自らを無私・無我に徹するように導く。
この時、己・自己意識が滅しているために、それによって自ずから救われるということがあります。
仏教の祈りは仏心・仏の心を実現するべく祈られるものでもあります。
「人を立てない」のです。
神様・GODのような人格されたホトケを立てない。
もちろん立てるところもありましょうが、それでも本質はその人格化・神格化された仏様にこちらが何か期待することを求めるものではないものです。
もちろん期待して祈ってもいいのですが、人間の祈りの究極は「わたくし」が忘じられることです。
祈りという行為はふしぎですね。
はじめは自分が祈るのですが、その祈りが高まってくると自分が無くなってしまうということがあるのです。
今度祈られる際に、その祈りの行為の本質が「なにをしているか」を見てみるとよいのではないでしょうか。
自分が今何をしているかが見えるようになる目が養われること=神仏の眼が開かれたということです。
今もこれをご覧になられながら、ご自分がここで書かれていることに対してご自身の心の中の反応を感じ取って冷静に自分が自分を見つめる。
自分の主観や自分の思い描いたこと、思ってしまったことに支配されなくなることhh

7ヶ月前

祈願

L.M様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏様への供養には、もちろん祈願もございます。

華厳経の入法界品を典拠とする「七支分」(礼拝、供養、懺悔、随喜、勧請、祈願(または発菩提心)、回向)の供養がございますが、その中には「祈願」も含まれてございます。

この場合の祈願では、もちろん、救いを求めて行うこととなりますが、主には、「自分も含めて、この輪廻の苦にある衆生全てが救われるために、どうか(ご本尊たる上師が)仏法をお説き下さいますように」、あるいは「衆生を救うために、どうかこの世に(ご本尊たる上師が)永らくお留まり下さいますように」ということを祈願するところとなります。

現実、釈尊ご入滅以来、この娑婆世界には、仏陀・如来は不在のままでございます。その代わりに、釈尊のお説きになられた仏法を、釈尊をはじめとするご本尊方の、ある意味では代理として仏法をお説きになられる上師(正しい仏教の先生)に対して、救いへのお導きを賜れますようにと、祈願致すのであります。

そして、その教えに従って、仏道を歩むことにより、実際の救いも得れるところとなってくるのでございます。

正しく仏法を説かれている上師たちに感謝致して参りたいものです。

川口英俊 合掌

7ヶ月前
回答僧

大慈

有るけど流行がある

その辺が一神教と多神教の感覚の違いですよね。多神教と言っても、東洋のは北欧やギリシャとはまた一風違ってるんです。

仏教は元々ダブルスタンダードなんです。出家者は修行して救われることを目指す。在家信者は神仏や僧侶を信仰し、修行を支援してその恩恵に授かる。というように。
それが大乗仏教の流行でややこしくなります。大乗(だいじょう)は「在家信者でも出家者と同じように修行できる!」と主張しました。その前後は千字じゃ書ききれません。

最近で言えば、バブル期くらいまでは「信心深いお婆さんが何かあるといつも救いを求めて阿弥陀仏(あみだぶつ)さまにお祈りしている。何もなくてもいつもお祈りしてる。」というステレオタイプがありました。アニメやドラマでもよくそんなキャラがいましたね。

それが90年代の中頃あたりでしょうかね、アニメ等でも見られなくなります。欧米の無宗教化の煽りや、カルトによるテロ等で毛嫌いされるようになったんですね。

しかしここ10年弱くらいでお坊さんや仏教ネタの番組や出版物が急増します。流行り廃りが一巡したわけです。
その一端で『パワースポットブームが発生』しました。そう、パワースポット。これは「場所からエネルギーをもらう」→大袈裟に言えば「場所に救いを求める」聖地信仰の一種です。

つまり多神教の祈りの対象は神だけにすら限らないわけですね。もっと言えば祈りの形態も様々です。
お坊さんは毎朝お経を読みますが、これは「仏様も神様も歴代お師匠様も皆さんのご先祖様も皆さんも私も、世界中がみ〜んなイイ感じでありますように」というお祈りとも言えます。
ついでに言うと、修行ってそんなに特殊なことをするわけではありません。それこそ毎朝のお祈りが修行なんですよ。お祈りを繰り返して、身体の習慣、言葉の習慣、心の習慣を、慈悲&智慧という救いに向けて調えていくわけです。

そして(一般の人の全体の傾向として)対象や形を変えながら流行がぐるぐる巡る。これは一神教には無い感覚でしょう。だから(出来れば)グループやお坊さんの話をゴッチャにせず場合分けしながら学び、どこかのタイミングで(必ず)専攻の宗派を絞らないと頭や心の中が収集つかなくなっちゃうんですよね。

最後に、呼び方は何でもいいですよ。お心次第です。気にしませんので呼びやすいように呼んで下さい。

7ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

染川智勇先生、明るく温かいご説明ありがとうございます。
どんな時も神にすがらず修行あるのみ!と言われたらどうしようかと思っていましたが、ほっとしました。心の改革はしたいけれど、神がいないのかと思ったらこんなに動揺するのだからきっと私にはでるだけ厳しくない方便が向いていますね。私にとっては難しいけれど、仏教は人の心を平和にするのに本当に実用的だと思います。本の各章を何度も読み返さないと理解できなくてまだよちよち進んでいる感じですが、今回また新しい言葉(方便即真実)と教えを学ぶことができました。理解するの本当に遅いのだけど、ちょこちょこ頑張ります。ありがとうございます!

川口英俊先生、いつも教えてくださってありがとうございます。
苦しい時信じて祈る神がいないことが想像がつかなくて、どういうことだろうと動揺してしまいましたが、もう大丈夫です。おかげさまで今は安心しています。仏教の教えは一つ一つが実用的だと思いますが、実践していてもつらくなったらやっぱり祈りたくもなると思います。

輪廻の苦にある衆生すべて、というのは人間だけでなく鳥や獣や虫のためにも祈るということでしょうか。仏教ならきっとそうでしょうね。以前不殺生戒を教えていただいて、私はすべての生き物を大切に思う考えが好きになりました。でもすべてが繋がっているという世界観がいまだにどうしてもできないんです。もしかしたら小さい頃考え方を間違えてそのまま大人になってしまったのかな、と最近思っています....悲しいですね。

(慈悲について思い出したこと)
専攻は違ったけれど、ある日大学でチベット出身の仏教徒の先生の講義を聴く機会があり、その先生が慈悲についてわかり易い例えをしてくださったことがありました。「キリスト教では右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せと言うけど、仏教ではそんなこと言いません。ただ、頬っぺたを引っ叩かれたら痛いからそんなことはしちゃいけないでしょう?」って…今まですっかり忘れていました。なかなかお会いできない先生のお話だったのに、もっと集中して聴いておくんだったな、もったいなかったと思います。ハスノハでいつもありがたいお話を聴けて感謝しています。

丹下覚元先生、仏壇と居間での供養の仕方の質問の後また教えてくださってありがとうございます。おかげさまで、父のこと、もうくよくよ心配したり迷ったりしなくなりました。成仏するべきだったのは私のほうだったのですね。難しかったけれど、今は本当に素晴らしい考えだと思います。

無私無我ですが、これが前からわからなくて…こういうものは頭で理解してやろうと思ってできるものではないのかも。相手と自分の境界線を無くすのもいまだにわからないんです。仏教を学び始めてまだ間もないけれど、今のところこれが最大の未解決課題です。

私は、不安な時や苦しい時よく祈ります。神の計画は人間の私がこうなりたいとかこうしなきゃと考えているものより完璧だから、導いてくださいと委ねるような気持ちです。そうはいったものの、ひどいことがあると「これも神の思し召し?!○×△□(放送禁止になるような言葉)」と吐いてしまい後で後悔するのだけど…。

大慈先生、いつもありがとうございます。私は人に教えるのが本当は嫌で辞めたいと思っているぐらいだから、大慈先生を始めとしてここで教えてくださるお坊様はみなすごい先生だと思います。

出家しなくても修行できる考えになったという大乗仏教のお話、本当はそういう流れも含めて知りたかったけど、千字で収まらないような内容は私の頭にも一度では収まらないから…そんな人に教えるのは大変だと思いますが、できれば見捨てないでください。

日本は多神教で色々なものが神様になるというのは前から感じていました。立場上大きな声では言いづらいのですが、人々が救われるなら必ずしも唯一の絶対神でなくてもいいのではないかと思います。流行でころころ変わったら私はついて行かれないかもしれないけれど。

本の中で阿弥陀仏の章に入って、はっとしました。「仏教は神なき宗教」と書かれていたのは、神でなく仏がいるという意味だったようです。すべての人を受け入れてくださる仏様で、なむあみだぶつはその慈悲深い仏様にお任せしますという意味だったのですね。実践とか修行とか厳しそうだと思いすぎていたのかもしれないけれど、今までの仏教のイメージと違う感じがして安心しました。

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