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非我説(無我説)と我見

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非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います
因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています
そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています
しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います
そして、「我見」は仏陀によって否定されています
「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、
「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます
あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、
とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、
特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります
この件についての誤りについて教えて頂ければと思います

この見方についての補足ですが、
そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます
もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね
恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います
「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います
「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね
仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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千字で仏教

◯前提
仏教は苦を離れることが目的であって、世界の仕組みを究明することが目的ではありません。ただ、苦を離れるためには苦が発生したり消滅したりするメカニズムを知らねばなりません。そのための手段として五蘊のような仕組みの議論がなされました。

①苦とは?
仏教で言う苦とは主に生老病死です。

②苦の発生の原因は?
自分への執着です。自分がもっと良い生まれをしたかった。自分が老いたくない。自分が病いになりたくない。自分が死にたくない。自分が親しい人にそうなって欲しくない。その自分といかに向き合うか?というのが仏教のテーマです。

③苦の消滅の原因は?
眼は眼であって自分ではありません。タンパク質もカルシウムもみんな自分ではありません。ただ、様々な物が寄り合い、それぞれ別々に働きながら、しかし全体として調和・統合して1人の人間になっているだけです。
そのことに気付き、「この身体は自分の物だ!」と所有権を主張するのが当たり前でなくなれば、自分への執着が消えます。そして苦も消えます。

④では、自分は存在しないのか?
例えば日本は存在するでしょうか?「ここは東京」「ここは鹿児島」と言った時には、日本は隠れてしまいます。しかし47都道府県ひっくるめた時には、やはり日本です。ところが世界中ひっくるめた時には地球であり宇宙であって、また日本は隠れてしまいます。だから有るとも言えるし無いとも言えます。
それと同じで自分も、タンパク質とも自分とも世界とも言えます。非有非無です。(魂も有るともいえる無いともいえるとは言っていません。観測のしようがありません)

⑤じゃあどう考えればいいの?
そんなつかみ所の無い世界を慈悲という一本の串で貫き、救いに向けて真っ直ぐ方向性をつけて生きる。それが仏教です。

⑥じゃあ慈悲って何?
自分は自分であると同時に世界でもあります。世界は自分自身です。ゆえに他者を攻撃するのは自傷行為です。他者も自分と同じように大切にする在り方が慈悲です。

>過ぎたるにも
来らんにも
はた 現在(いま)にも
いささかの我有(わがもの)というものなし
所有(もつこと)なく
取(まつわり)なし
われかかる人を
婆羅門とよばん
(発句経421、友松円諦訳)

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

推測とか見方という眺めは悟りじゃないんです。

仏教学とか、仏教の研究って魅力的であっても結局、推測論が多いです。
私もかれこれ掴まされましたが、色々いうと話がややこしやになってメンドクチャイので簡単に。
まず主観って結構邪魔なんす。 
こういう話しても本人の主観が強いと文が読めているようで読めていなかったりするんです。
「俺流・わたくし流」の我見的な読み方だったりします。
そこに我見が生じていることの自覚を持つとよいでしょう。
まさか、え?これも?え?おい、これもかよ?( ゚Д゚;)
と、自分の我見が働いていることに気がつけるとケロンが止まります。なむなむ

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

五蘊にも我はなし

原文が手元になくて申し訳ないですが、釈尊は「五蘊が我である」ことも、五蘊の内の何かが我であることも否定されているはずです。

それが常一主宰の我の否定としてまとめられています。

サンユッタ・ニカーヤ(相応部)に、一つ一つ例に挙げてそれらを「これは私ではない、私のものではない、私の我(本質)ではない」と否定していく該当テクストがあるはずです。

ネットで探しましたが探しきれませんでしたので、とりあえず下記参考サイトのリンクを貼っておきます。
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

一切は縁起し空である

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教において、「非我」、「無我」として否定される「我」、あるいは、否定される「我執見」における「我」というのは、「実体」、または、「自性」というものとなります。

例えば、今、目の前にあるモノにおいても、そのものをそのものたらしめている永久永遠に変わらない何か実体的なものが、そのもの自体の側のどこかにあるのかと言えば、そんなものはどこを探しても見当たらないということになります。

このことを「空」と申すのであります。

もちろん、では、その目の前のモノは無いのかと言えば、そうではありません。現にそのように有り得ているのですが、それは因縁(原因と条件)によって、または、様々な要素が集まることによって成り立っているものであります。

このことを「縁(よ)って起こる」ということで、「縁起」と申します。

「一切は、縁起し空である」ということになります。

私たちのことを「五蘊仮和合」の存在というのも、五蘊の働きそれぞれの要素が集まることにより、一応は仮に成り立っているようなものであるとして、そのように申すのであります。

もちろん、悟りも、悟るための因縁が集まることによって成り立つものであり、空にして縁起なるものとなるのであります。

川口英俊 合掌

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