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納得のいかない法話

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質問させていただきます。
回答しづらければ、スルーでお願いします。

母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。
「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。
小学生の甥は、「心の中」と答えました。
それは、亡くなった母が教えたことです。
母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。

が、その和尚さんは、それを完全否定しました。
人は死んだら「無」になる、と。
何もなくなる、心の中ということはない、と。

実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。
和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。
ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか?
マチガイハ タダスベキということですか?
甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です)

また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。
いや、ちょっと待て!
人は死んだら無になるんじゃなかったのか?
無になったら、地獄も何もないのではないか?
それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか?
それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!?
それが仏教なのか?
和尚さんの偏見ではないのか?

和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと…
お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました…

ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。

もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。
過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。
ただ、その本当のところが知りたいです。

数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。
hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!)

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【後生の一大事】

”マチガイハ タダスベキということですか? ”
あなたの仰る通りですね。
甥っ子さんがせっかくそう思っているのなら、それを励みとしていよいよまっすぐ育つように言葉をかけてやるべきだったと思います。

”その本当のところが知りたいです”
さて本題ですが、結論として、結局のところはわかりません。
科学的、物理的に確認しようがありませんから。
はっきりしている事として、仏教は「無になる」と説明したほうがいい人には「無になる」と言うし、「極楽へ行く」と励ましたほうがいい人には「極楽へ行く」と言うし、「地獄に堕ちるぞ」と戒めたほうががいい人には「地獄に堕ちるぞ」と言います。肝心なのは、死後に思いを馳せる事で、今生きている者がより善く生きていけるかどうかです。

だから、それこそ四十九日法要のときの話。甥っ子さんが「亡くなったおばぁは僕の心の中にいる」と言ったのであれば、「そうやな。だから、寂しがることはないし、おばぁはちゃあんとお前を見ているからな、お父さんのお母さんの言う事をよく聞いて、勉強も一生懸命がんばってー」と励ましてやるのが僧分の本来の役割だと私は思います。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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ご住職との信頼関係

質問読ませていただきました。

我々僧侶も、それぞれの宗派の中でそれぞれの教学を学び、そこからさらに自分で色んな経験や勉強を重ねていくのです。ですので、僧侶それぞれに考え方や化導方法があります。
それらについて、好き嫌いは当然あるでしょう。

そして「無」ということですが、色んな概念があります。
人間は死んでしまうと何も無くなるから、次の命なんてないのだ、という意味で「無」という言葉を使われる方もいらっしゃるでしょう。
また、人間という仮の形でこの世に命を受けたが、亡くなればその仮の姿は無くなり、次の命を受けるのだ、という意味で「無」という言葉を使われる方もいるでしょう。

仏教を開かれたお釈迦様も、もともとは煩悩の多い一般人であり、何度も生まれ変わりながら気の遠くなるような長い年月修行を重ねることでようやく悟りを開かれたのです。
ですので、そのご住職の言われた「無」とは後者の意味ではないでしょうか。それは、「地獄に堕ちる」という言葉からも推測されます。

ただし、「ホームレスの方・・・」というご発言に関しましては、ひょっとしたら深い考えあっての発言で、少し表現が乱暴なだけだったのかもしれません。一度尋ねてみて下さい。
もしそうであるなら、りぃなさんのわだかまりは溶け、ご住職との信頼関係は深まるかもしれません。雨降って地固まる、ですね。

私は、住職と御信徒の間には信頼関係が必要不可欠だと考えています。なぜなら、信仰とはその人の人生に大きな影響を与えるからです。どれだけ正しい教えだったとしても、それを説く住職を信頼できなければ、その教えに身を委ねることは難しいでしょう。
また、仏教では「臨終の一念」と申しまして、どのような臨終を迎えるかで次の命が決まります。自分が死を迎える際、「私はこの信頼できるご住職にお葬式を挙げてもらって、苦しみのない世界に生まれ変わるんだ」と心から思えるのであれば、きっと穏やかな気持ちで臨終を迎えられるでしょう。しかし、「あの住職にお葬式あげて欲しくない」なんて思えば、心は乱れます。

ですので、住職と信頼関係を築くことが大切です。色々お話しして、もしどうしても納得できないというのであれば、信頼に足るご僧侶を探してみて下さい。ただし、一度信頼し、「この方を師とする」と定めたのであれば、その心を忘れないようにして下さいね。

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おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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本当のところ

>本当のところが知りたいです。

うーん、ちょっと答えずらいんですよね。仏教は「八万四千の法門」と言いまして、「これ1つが正解!」という宗教ではありません。お釈迦さま自身が相手の目線に合わせて「来世のことなど考えないで今の修行に専念しろ!」と叱ったり、「誠実に生きなさい。そうすれば来世で楽を得るでしょう。」と来世に言及なさったり、様々な説きかたをしているんです。対機説法というスタイルです。その中には否定から入ることも含まれますし。

ですから(上手くいったかどうかは別として)そのお坊さんなりの意図目的があっての発言かどうかは、本人に聴かねば分かりません。「未練を残す方向性のご供養のやり方はよくない」と考えるお坊さんもいますよ。もっとも本当にそこまで考えての発言かも確かめねば分かりません。片方だけの言い分しか聴かずに否定したくありませんので、可能性として。

ただ、私個人は「心の中」という説き方は好んで使います。
https://hasunoha.jp/questions/17875
ただし片側からのみ見た話です。もう片方の側から説くとこうなります。
https://hasunoha.jp/questions/26445
前者は「自分が有る」という側、後者は「自分や他人というものはそもそも無い」という側なので裏表です。もっと仏教っぽく言えば、色即是空の側か空即是色の側かですから、どちらも仏教です。

もっとも後者のリンクの「それが成仏です。私は私である以前に、宇宙なんス。」というのを「無」というのであり、無とはゼロとか、何も無い、虚無ではありません。明治期曹洞宗を代表するとある老師は「宗門では無や非、不という字は全と読みかえろ」と書いています。また以前、日蓮宗さんの回答僧・常在師も

>「無」とは充満です。満ち溢れた状態を「無」と申します。 何も考えないのではなく、あらゆることに心を配る、それが「無」なのです。

とおっしゃっていたので、きっと禅特有の考え方ではなく通仏教的なのだろうと認識しております。それ自体を「何もなくなる」と表現するお坊さんもいますけどね。東南アジアの上座部のお寺で聞きました。

何にしても本心は本人にしか分かりません。どうぞ気になったことは再問、再々問なさって下さいね。それが御仏縁というものです

「ホームレスは地獄へ堕ちろ」は嫌いです(直球

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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死んで無になれるのは悟った人だけ

 現代日本の各宗派ではいろいろな教えを説いているかもしれません。

 そういうものは放っておいて、お釈迦様の最初期の仏教から見た事実を言います。

 アラカンという、最高の悟りに悟った人だけが、死後、どこにも生まれ変わらず、滅することができます。

 それ以下の悟りに悟った人は、良いところに生まれ変わり、いつかは最高の悟りに達します。
 悟らなくても善行為の結果が出れば良いところに生まれ変わり、
 悪行為の結果が出れば、悪いところに生まれ変わります。

 詳しくは拙著『悟りの四つのステージ』(サンガ)をご覧ください。

 死んだら無だという誤解は、禅宗から出た誤解(禅宗も祖師はそんないい加減なこと言ってないと思います)で、遅くとも、フロイスやサビエルが日本に来た時の記録に、出ています。

 この誤解の理由は、たぶん、悟って死んだら無、だったのが、禅坊主が修行して悟れずに死んだらカッコ悪いから、全員、死んだら無ってことにしようと……その程度では?

 死んだら遺族の心の中に、というのは、実は正しい言い方です。本人が心の中に移動するわけではありませんが、記憶、思い出、というものが遺族や縁者にはあります。それがある間は、まだ故人も人間界との縁が切れてないのです。縁者も死ぬと、さすがに、そのたびの人間界の縁は終わり、と。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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「空と縁起」と「二諦」

りぃな様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

日本の僧侶の最も弱いところが、中観思想の理解となります。

中観思想は、断見と常見の極端を排すると共に、適宜適切な対機説法、方便のためにも重要な視座となるだけに、しっかりと理解しておかなければ、説法等において、その内容の意図が誤ったものとなってしまいかねないところとなってしまう場合がございます。

さて、「無」につきまして、仏教において、「無」という表現は、「空」と同義として、「実体が無い」という「無」として使うものとなります。

一方で、モノゴトのありようについては、「縁起」としてあり得ているということも理解をしなければならないものとなります。

「空と縁起」、このバランスがモノゴトを理解するために大切な要諦となりますゆえ、今はまだその理解が無理であっても、これからの仏教の修学におかれましては、このことを少し意識しながら学ばれて頂けましたら有り難くに存じます。

また、更に仏教には、「二諦」として、勝義諦(最高の真理)と世俗諦(方便としての真理)の二つの真理があるため、その仏説はいったいどちらの真理として説かれてあるのか、ということも考えることが必要となります。

仏教において、最も頼りとすべきは、もちろん仏典となるわけですが、残念ながらその仏典の内容を解説すべき僧侶自体、この二諦を正確に理解できておらず、そのため、その解説、説法も中途半端なものになってしまっている場合が往々にしてございます・・

とにかく、僧侶の言っていることだからとして、うのみにはされずに、しっかりと自分で検証していくことも大事となります。

ダライ・ラマ法王様がご法話にてよくおっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心して受け入れて参りたいものとなります。

納得できるまでどうぞhasunohaもご活用頂いて、検証することをお薦め申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

【ご回答くださった僧侶の皆さま】

ご回答ありがとうございます。

質問する前よりも、若干混乱しております。

ぼんやりとした輪郭は見えました。
が、私の仏教に対する知識があまりにも乏しいため、うまく消化できないという現実が明らかになりました。
(こんなオチで申し訳ないです…)

貴重なお時間を割いてご回答いただいたことを、その御心を、無駄にはしたくないので、仏教について学びたいと思います。

まずは、hasunohaを読み漁ろうかと。
まずは、ここから。
その中で、疑問に思うことなどが出てきたときは、改めて質問させていただきます。
そのときには、よろしくお願いいたします。

【川口英俊さま】
お礼コメントを読んでいただいてのご回答をありがとうございます。

皆さまの回答を拝読して、なんとなく表面上は分かる気がするのですが、たぶん、それは、「理解したつもり」なだけで、きちんと理解できていない、と感じました。

「理解したつもり」で放置することも可能でしょうが、ここでご回答いただいたのも何かの御縁でしょうし、無駄にはしたくないのです。

川口さまにおかれましては、私が今後学んでいく上でのアドバイスまでくださり、本当に有り難く感謝申し上げます。

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