坊さんなのにこれからの将来が見えない
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。
僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。
僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。
僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。
しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。
道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。
では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。
本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。
私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。
散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切な心をとらわれずに、自分らしく。
初めまして、今日は。
私は一般在家から、全て一から開拓をして師僧を探し求め、得度を受け修行をし伝法灌頂を頂戴させて頂き自宅の一室をお寺として昨年末に開山致しました。つても何もなく無一からのスタートで今月の15日で4か月が過ぎました。世間では困難と言う人生の嵐が吹き荒れ、無一文で家族との生活をどうしたら良いか・・葛藤もあり焦りもあり、過去に散々・・絶望という苦しみを沢山、沢山与えられ自分を見失い命も絶ちました。救って欲しくもありませんでしたが、蘇生をされ彼岸と此岸を行き来して此岸に引き戻されました。あの時、神も仏もない・・と怨み憎んだ仏の弟子となり、これでもか、これでもか・・と言う散々な困難を切り開いて、落とされても這い上がってを繰り返して来た出来事をマイナスではなく、必ず過去がいかされますよ・・と、御師僧様からのお言葉通りに時空を超えて様々な事が活かされ、こんな未熟な私の言葉にでも救われた・・と涙を流される方々の為に、無一文に近い生活でも、純粋に困難の中に居る方々や、同じ境遇の中を懸命に出口を求められている方々を、純粋に見返りなくお救いさせて頂ける事こそが私の仕合せであり願いであり与えられた課題だと思って、意地でもこの無名な小さな寺を守り貫く思いで日々、懸命に試行錯誤しながら修行をさせて頂いております。
輝く仏具も、立派な壇も、素晴らしい衣もありませんが、ここにいらっしゃる先輩僧侶様方と同じく、志と誰よりも純粋にお救いさせて頂く思いなどは負けない思いでおります。お寺とは・・本来、ご葬儀などだけでなく、夫婦喧嘩の仲裁や悩みを気軽に打ち明けられて、気軽に何でも話せ訪れる事が出来る現代で言うコンビニのような場所だったと思います。今、全てが原点に返りリスタートをさせる分岐点だと私なりに気付きを受け取っております。私は365日、お不動様と弘法大師様と共に休むことなく必要として頂ける事に感謝をさせて頂き活動し続けさせて頂きます。皆さまと一緒に大笑いして、一杯泣いて・・気さくなお坊さんで居続けたいです。様々な宗教も私たちのご先祖様も幾度も困難を乗り越えて今があります。私たちも乗り越えられる力があります。託された事を引き継ぎ、未来に繋げる事が私たちの役目です。抜苦与楽の為に宗教はあります。金剛石のように志を曲げず諦めず貫いていきます。ご自分自身を見失わないでください。合掌
原点
キミが何宗のどこの寺の息子かどうかは関係ない。
年端も行かぬ見習い僧だろうが、悩んでいようが迷っていようが、
おまえさんはすでに【仏弟子】だ。
迷ったら原点に帰る。
仏教がわからなくなったら、釈迦に立ち戻る。
これ基本。
スマナサーラ長老
スマナサーラ長老の本を読みなはれ。
私も三十三歳までいろいろ仏教を勉強したのに、あなたと全く同じ思いしか持てませんでした。
スマナサーラ長老に出会って、悟りと悟りに至る道は、漢訳経典などではどうしても不正確で、正確なものは、パーリ聖典にだけ残っていると、説法の中身で教えていただきました。他のお坊さんと同じようなテーマを語るのですが、視点が、理解が、まるで違うのです。
しかし、パーリ聖典の和訳(片山一良の大蔵出版からのものが秀逸です)や、パーリ語そのものでさえ、読んだだけでは何とも分かりにくいのです。
やっぱり、実際にやって、結果を出した人に教えてもらうのが一番です。
しかも、スマナサーラ長老のものなら、日本語❣で巷にあふれています。学んで、内容を理解して、ヴィパッサナー瞑想というものも、やってみてください。
ちなみに、今、せっかくやっている日本の大学での仏教の学びは、決してやめないで続けてください。その土台があったから、私は学びのスピードが速かったように自分では思います。
日本の大学でのこれまで通りの仏教も、隔靴掻痒、ちょっと不正確なだけで、勘のいい人はそれでも内容を理解するほどです。土台としての勉強は、日本の仏教学でも有り余るほどです。
仏教を必要としている人はいます。
あなたはまだ必要性を感じていませんが
必要としている人に関われる資格を持っています。
必要としている人に関われる環境も既にあります。
あなたを必要としている人
あなたを待っている人に関わることで
あなたの疑問が解消されるように思います。
でも改めたいところにも気づくでしょう。
その時に
あなたなりの僧侶像を築けばいいのです。
坊さんだから、将来見えないんだよ。一緒に悩んで見出すんだよ
おはようございます。
質問の末尾には「悩みをただ聞いてほしい」とありましたが、720文字程度で語り切っていない気がしてます。
>僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。
安心してください、意義はアップデート・更新可能です。
私は夢を見せるともケアするとも思っていません。
夢を見せて夢に酔わせるんじゃない!仏教は「覚める」教え。と教えられました。
「かりそめの夢を見せる」ことへのマーケティング、ブランディング、フォローアップは僧侶よりもアイドル業界で働く方々の方がはるかに洗練されています。
ケアするんじゃない。ケアするきっかけは提示しても回復するのはその人自身。
その人自身が困難を乗り越える経験を奪うのではなく、良きも悪しきも現実を知り、そこからどう生き抜いていくかを一緒に考える。という立場です。
ケアされなきゃ生きていけないケア依存の将来性より、セルフケアで安心できる道へ導く方が将来性もあり、成仏の道への見通しを持てると思います。
仏教の意義を考えるはじめの一歩は受益者に耳を傾けることです。
「私の仏教役に立ってます?」
「私レベルのちょっとのお経で世の中が落ち着くわけもなく、自分の未熟さに悩んでいるんですが」
という質問をお布施を下さる受益者に聞いてみてください。
たぶん「かりそめの夢を見たい」「心をケアされたい」とは違った別の答えに社会が願う仏教的意義のヒントが隠されているように思えます。
>僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。
実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。
あえて私は、檀家や信者という言いかたをせず、受益者と言いました。
利益を得るのは僧侶ではなく相手。
金銭を対価に得ることより、得た対価を仏教や受益者の利益に投資せずに、僧侶自身の欲に使う方が坊主丸儲け、俗に塗れてると思います。
仏教に自腹切って投資できるか。
ここのhasunohaの開祖は僧籍ないですが、その姿勢に私は帰依しています。
勝手なこと言ってゴメンナサイ。
全否定ではなく、視点をちょっと変えたら将来は明るくなりますよ。
私も悩んだ時期ありました。
縁あればじっくりお話聞きたいです
ご質問ありがとうございます。
あなたが理想とする僧侶を目指すのがいいと思いますよ。
医師のように正しい医学的な知識を人に伝えたり、教員のように道徳や学問を教えたり、カウンセラーのように悩み苦しみを聞いてそれを和らげてあげたり、そんなことができる僧侶になれたら素晴らしいと思います。
あるいはお釈迦様と同じステージに立ちたいと決意してタイやミャンマーなどに渡り上座部仏教の僧侶に弟子入りして修行するのもいいでしょう。
あるいはお檀家様の生活を精神的にも体力的にも支え応援する僧侶や、日々ボランティア活動に取り組んでいる僧侶も素晴らしいですよね。
あなたが心に秘めている高い志を大切にして、自身の宗派以外も含めて広く学び、会社で勤めたりボランティア活動に参加したりいろんな僧侶の活動に参加したりしてたくさんの経験を積んでくださいね。
その過程できっとあなたの歩むべき道が見えてくるのではないかと思いますよ。
なお偽典も本物もどんな本も読み方次第ですよ。行間を読めるかどうか。言葉の根底を読めるかどうか。その本が著者が何を伝えようとしているのか。
あなたの仏道が成就しますように。