人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?
ご質問させて頂きますハルソラと申します。
私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。
多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。
そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。
昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。
すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。
例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、
晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。
動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか?
お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一発菩提心を百千万発するなり
なるほど文鳥は悟っているかどうか?質問の部分だけを読めば悟っているのかとも思ってしまいますが、一方で欲望のままに生きる姿は悟りとは言えないですよね。菩提心(仏のおしえに近づこうとする心)があるかないか。そこだと思います。修行も菩提心がなくては格好だけ形だけのものといえましょう。
こちらの問答もご覧ください。「なぜ修行をするのでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/43162
他の道もある。
仏教の目標は成仏することですが
2つの道があります。
・厳しい修行を課して自ら成仏する。
・修行は出来ないので
阿弥陀如来に成仏させていただく。
あたしは浄土真宗ですが
我らは罪悪深重の凡夫であるが
修行を経ても煩悩は無くならないという懴悔を通して
阿弥陀如来の救いに気づかせていただくという道です。
悟れなくても成仏は出来るのです。
ありのままに生きるのは間違い
「ありのままに」は、仏教では、「ありのままに見る」ことです。
物事の変化生滅を悲しんだり執着したりせず、「あるがままに見る」。あるがままに見ることができたら、悟りに近づいています。落ち着いています。怒りや欲が減っています。
生きることを、「ありのままに生きる」と、たいていの人はただ堕落した生き方になります。食べ物探すだけ。異性を探すだけ。怒るだけ。
生きることは、「一瞬ごとの心が汚れないように、汚れたらなるべく早く元に戻るように気を付けながら生きる」のが、仏教的な、成長に向かう、悟りに向かう生き方です。
スマナサーラ長老の本が200冊くらい出ています。どれも参考になります。
関連のあるだろう詩を書きました
詩人会議という詩の雑誌4月号に最近私が発表した詩です。悟りとは山林に独坐して瞑想してたら得られるものではない。街に出て他人に囲まれて苦労して得られるものだと思います。
転 ぶ
踏み絵を強いられた伴天連が
棄教するのも転ぶだが
転ばずにいられる
人間などこの世にいない
釈尊も転んで
我が子をラーフラ
わが生きる妨げとの名前をつけ
森林に逃げ込み
六年もの間
彷徨い続けた
六年間の瞑想ではなく
抜けられぬ迷いこんだ迷路を彷徨した
と僕は解釈する
獣になり切れなくて
彷徨い
やっと獣の境地になった
六年の彷徨の末が佛教
僕は水道橋の交差点で
宙に舞って転んだが
もとより苦海で生まれ育って
そのままいまが在るので
これ以上にも以下にも
異界には行けそうもない
自分のぶざまさにあきれ果てたが
また転ぶかもと
用心もしないで
水道橋交差点を先ほど渡ってきた
『丙丁童子来求火』
有名な禅話ですから、詳細は省きます。
則公の「如何なるかこれ学人の自己なる」において…
青峰禅師の「丙丁童子来求火」で得たものは『うなづき』
法眼禅師の「丙丁童子来求火」で得たものは『きづき』
『うなづき』は無駄ではなく『きづき』に至る欠かせないパーツの1つです。
青峰禅師や法眼禅師との遣り取りも、それまでの則公自身の修行も、「丙丁童子来求火」の『きづき』に至るためには、何1つ欠かせないものです。
最初に「?」を抱いて取り組み始め…様々な体験や知識、理論が蓄積されて…機が熟して『きづき』に至る。
数々の「点」が繋がって「線」になる瞬間です。
『きづき』にはその過程が、不可欠なんです。
他人の説明で納得できるものは『うなづき』、でも『きづき』は他人が教えることはできません。
だから、「教外別伝」「不立文字」なんです。
お釈迦様の『きづき』は、パーツの数がハンパなかったので、一気に『真理』に至りました。
しかし、我々も少ないパーツなりの『きづき』が体験できます。仏様の教えにおけるその小さな『きづき』が、我々を帰依へといざないます。
「せざるべきをせず」「なすべきをなし」「まなぶべきをまなぶ」
戒・定・慧…バランスよく、ともに学んで参りましょう。
質問者からのお礼
お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
それぞれのご回答に感銘を受ける部分があり、またそれを理解するために繰り返し読んで学びにしていきたいと思います。
お坊さまの方々、誠にご回答ありがとうございました。合掌。