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人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

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ご質問させて頂きますハルソラと申します。

私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。

多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。

そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。

昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。
すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。
例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、
晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。

動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか?

お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一発菩提心を百千万発するなり

なるほど文鳥は悟っているかどうか?質問の部分だけを読めば悟っているのかとも思ってしまいますが、一方で欲望のままに生きる姿は悟りとは言えないですよね。菩提心(仏のおしえに近づこうとする心)があるかないか。そこだと思います。修行も菩提心がなくては格好だけ形だけのものといえましょう。
こちらの問答もご覧ください。「なぜ修行をするのでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/43162

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

他の道もある。

仏教の目標は成仏することですが
2つの道があります。
・厳しい修行を課して自ら成仏する。
・修行は出来ないので
 阿弥陀如来に成仏させていただく。

あたしは浄土真宗ですが
我らは罪悪深重の凡夫であるが
修行を経ても煩悩は無くならないという懴悔を通して
阿弥陀如来の救いに気づかせていただくという道です。
悟れなくても成仏は出来るのです。

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談など地道なグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。

ありのままに生きるのは間違い

「ありのままに」は、仏教では、「ありのままに見る」ことです。
物事の変化生滅を悲しんだり執着したりせず、「あるがままに見る」。あるがままに見ることができたら、悟りに近づいています。落ち着いています。怒りや欲が減っています。

 生きることを、「ありのままに生きる」と、たいていの人はただ堕落した生き方になります。食べ物探すだけ。異性を探すだけ。怒るだけ。

 生きることは、「一瞬ごとの心が汚れないように、汚れたらなるべく早く元に戻るように気を付けながら生きる」のが、仏教的な、成長に向かう、悟りに向かう生き方です。

 スマナサーラ長老の本が200冊くらい出ています。どれも参考になります。

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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

関連のあるだろう詩を書きました

詩人会議という詩の雑誌4月号に最近私が発表した詩です。悟りとは山林に独坐して瞑想してたら得られるものではない。街に出て他人に囲まれて苦労して得られるものだと思います。

 転 ぶ

踏み絵を強いられた伴天連が
棄教するのも転ぶだが
転ばずにいられる
人間などこの世にいない
釈尊も転んで
我が子をラーフラ
わが生きる妨げとの名前をつけ
森林に逃げ込み
六年もの間
彷徨い続けた
六年間の瞑想ではなく
抜けられぬ迷いこんだ迷路を彷徨した
と僕は解釈する
獣になり切れなくて
彷徨い
やっと獣の境地になった
六年の彷徨の末が佛教
僕は水道橋の交差点で
宙に舞って転んだが
もとより苦海で生まれ育って
そのままいまが在るので
これ以上にも以下にも
異界には行けそうもない
自分のぶざまさにあきれ果てたが
また転ぶかもと
用心もしないで
水道橋交差点を先ほど渡ってきた

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有り難し
おきもち

楽健法と楽健寺の天然酵母パンを普及しはじめてかれこれ半世紀になります。楽健法も楽健寺の天然酵母パンもマスコミによく取り上げられています。

『丙丁童子来求火』

有名な禅話ですから、詳細は省きます。

則公の「如何なるかこれ学人の自己なる」において…
青峰禅師の「丙丁童子来求火」で得たものは『うなづき』
法眼禅師の「丙丁童子来求火」で得たものは『きづき』

『うなづき』は無駄ではなく『きづき』に至る欠かせないパーツの1つです。

青峰禅師や法眼禅師との遣り取りも、それまでの則公自身の修行も、「丙丁童子来求火」の『きづき』に至るためには、何1つ欠かせないものです。

最初に「?」を抱いて取り組み始め…様々な体験や知識、理論が蓄積されて…機が熟して『きづき』に至る。
数々の「点」が繋がって「線」になる瞬間です。
『きづき』にはその過程が、不可欠なんです。

他人の説明で納得できるものは『うなづき』、でも『きづき』は他人が教えることはできません。
だから、「教外別伝」「不立文字」なんです。

お釈迦様の『きづき』は、パーツの数がハンパなかったので、一気に『真理』に至りました。
しかし、我々も少ないパーツなりの『きづき』が体験できます。仏様の教えにおけるその小さな『きづき』が、我々を帰依へといざないます。

「せざるべきをせず」「なすべきをなし」「まなぶべきをまなぶ」
戒・定・慧…バランスよく、ともに学んで参りましょう。

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有り難し
おきもち

曹洞宗寺院の住職です。 GALUCHAT(ガルーシャ)と読みます。 思うところあって『非公開』にて参加させて頂いております。
指名も無いと思いますし、不得手な分野な為、他の回答僧諸師にお任せ致します。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
それぞれのご回答に感銘を受ける部分があり、またそれを理解するために繰り返し読んで学びにしていきたいと思います。
お坊さまの方々、誠にご回答ありがとうございました。合掌。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ