回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教は、「なんのために生きるか」ではなく「生きているからどうするか」を示す教えだと思います。
あなたが生きている今、もし他人から嫌われたりだまされたり評価されなかったりしたとしても、悪い事をせず、善い行いをして、人の役に立つような行動をすれば気持ちがいいでしょ?またそのように生きていきたいものです。それでいいんです。
あなたはこの問いを何故発したのですか。
こんにちは。
人間は、そもそも煩悩という自己中心性を満足させようとして生きています。
思い通りにしたいがために生きている、ということです。
しかし、思い通りにならなくて苦しむ、のもまた人間です。
生老病死、老いたくはないけれど老いざるを得ない、病みたくないけれど病まざるを得ない、死にたくはないけれど死なざるを得ない、そのスタートが生まれるということである。
人間関係しかり、愛情の問題しかり、生活上の悩みしかりです。
生まれては死に。
生まれては死に。
生まれては思い通りにしようとして、思い通りにならなくて死んでいく。
その永遠の悪循環から解き放たれる、解き脱(まぬ)かれることを解脱といい、悟りともいいます。
仏様の前に立つもの、仏様の視線の中にいる自分を、仏教徒は単に人間とは表現せず「衆生(しゅじょう)」(他にも多数の表現がある)といいます。「衆」多の「生」老病死苦を経る者、迷いの中にあるものということです。自分が迷っているということを仏様に気付かされたから、仏様を前提にしているから単に「人間」と言わず、「衆生」というのです。
そして、「人間」として人間のまま、煩悩のまま終わるのではなく、仏教徒として、「衆生」として悟りの方向性に生きたいと方向転換される。人生の目的地、方向性、「なんのために生きる」が転換されるということです。
そもそも、あなたはこの問を何故発したのですか。
問いを発するあなたは、自分を「衆生」だと思うか、思えるようになっていきたいのか。それとも、「人間」としか表現できない、表現したくない自分であるのか。
教養のためですか。
自分の生きる行く末を考える縁(よすが)を求めてのことですか。
ご自身で一度考えてみてください。
「仏教的」となりましたら
anonymous9959rhekさま
「仏教的」となりましたら、やはり、無明(根本的な無知)・煩悩を対治して、善き業(カルマ)を積み重ねていくことで、善い因縁によりて、善き結果を得ていくためとなります。
人の生は、有暇具足と申しまして、衆生の中でも比較的仏道を進めるに最適な境涯を持っています。もちろん、人でもハンデ等により仏道をどうしても歩めないものもおります。あるいは、餓鬼や地獄、畜生の衆生も仏道を歩むのが難しい境涯であります。そんな衆生たちの代わりに功徳を積める役割が担えるのも有暇具足を有した人となります。大変に有り難く稀有貴重なる境涯であります。
そして、最終的には、無明・煩悩が無くなり、悪業も無くなり、そして、悟り・涅槃という最終地を目指すことになります。
その悟り・涅槃とは、やがては全ての衆生を救うためのものとなります。
少し専門的に申せば、確かなる菩提心を起こし、仏道を歩み、智慧と福徳の二資糧を積みて、煩悩障と所知障を断滅して、悟り・涅槃へと至ることを目指して参ります。
いきなり今世だけで悟り・涅槃に至るというのは私たち凡夫には難しいものであります。
まずは、少しでも善き結果へと向かうために、少しでも善い業にできる限り努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
何かのために生きているのではない。
その日が来るまで
ただ生きるだけです。
なぜ生きるか
どう生きるか
は各々次第です。
仏教では
苦の根源を明らかにしています。
それで楽に生きられるようになるのが
仏教徒です。
真理を知らないから生きていたくて
簡単に言えば
お釈迦様の生き方を辿り、お釈迦様のような完成された存在(仏)になるためです。成仏(じょうぶつ)と言います。
私の信じている浄土系仏教では、まず、阿弥陀仏(あみたぶつ)の西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)への往生(おうじょう)(往き生まれること)を最大の目標とします。