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死のことを考えて苦しくなってしまう

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以前もこちらで、相談しましたが、大変感銘を受けました。今日は、同じような質問ですが、やはり私は、死が怖く気が重いのです。1日中考えていますし、自分なりに答えを出そうとするのですが、悩みは尽きません。自分の死もこわいし、家族の死も怖いのです。何でそんなことを始終考えているのか、謎ですが、何かしら答えが欲しいのです。明日の運命もわからないなか、恐れなく生きて行くにはどうしたらいいのでしょうか?このように気が重く、憂鬱な気分を、どうにか軽くできないでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰も死んだことから大丈夫です(^<^)

大丈夫です。死んだことのある人間はこの世にいません。
人は死ぬまで一生死ねません。
死という体験ができないのです。
「あー、死んだ」
「どうだった?」
「うん、結構凄いわー、あ今日、ご飯なにー?」
「って、それ死んでなくね?」
「え?」
「あ、危ない、隕石後ろ後ろー」
ごん(゚Д゚)☆
「・・・。」
「しんじゃった?」
「…うん。」
「しゃべれるんかい」

仮に臨死体験ということがあっても、それでも、その人はその時は死んでいません。
死を体験した瞬間に生存でなくなるから、体感も知覚も認識も無い。
体験しても本人が死んでいるのだから感想も言えない。
死ぬ瞬間までずーっと死の事を考えていたとしても、死ぬ一秒前までは呼吸が続いていますから、考えるだけ生存時間を無駄にしてしまっているといえます。
寝るときに寝た事を知っている人はいないでしょう。
寝た後に、しゃべったりするのは起きている人か寝言です。(笑)
起きている時に寝ている時のことを考えても寝ている時は安らかなので、いびきや歯ぎしり、ムコキュー以外さほど考える必要はありません。
同じ様にシヌシヌいっても、この体が今も生きて呼吸している。
そっちが真実ですから、あなたが考えていることは、一生起こりえない幻だと知るべきです。
でも、いつか人は死ぬんですよね、とアナタは言うかもしれない。
もう一度読み返してください。人は死を一生、体験ができないのです。
体験ができないことを恐れる必要はありません。
眠りにつくことを考えてみましょう。
「ああ、寝るのだろうか寝るのだろうか。寝たらどうなるのだろうか。zzz」
「寝たら、起きるだろうか。寝ている時に自分で起きられるだろうか?」
「安心して寝たらいい」のです。
死も同じです。
人は誰でも安心して、死んでいけるようにできているのです。
死そのものには善悪はありません。
それ以上のものを想像の上で、二次的妄想をすることが不安を生んで恐怖状態に陥るだけです。
それは生きている間の恐怖心というもので死ではありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

死は永遠のお別れではありません

脅迫性障害のような感じなのかな。
常に心配で仕方ないのですね。
念のために安全を確認するのは良いことですよ。
でも少しやり過ぎなのですね。
精神科には通っているのかな?
通って治るというわけではないですが、お医者さんに話を聞いてもらうだけでも落ち着くと思いますよ。

ところで、
死は永遠のお別れではありません。

浄土信仰で言えば、
人は命が尽きると極楽浄土に行きます。
あなたのご先祖様も、あなたのご両親も、あなたの家族も、あなた自身も、極楽浄土に行きます。
ですから、また会えるのです。
寂しくはありませんよ。
どうか安心してください。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

生死は表裏一体なるものです。

今晩は。
ご質問読ませて頂きました。

人間生まれたら死ぬ、これは100%絶対です。

もしかすると今この瞬間にも、もしくは明日の朝いつも通り目を覚ます事が無いかも知れない…。

それは誰にもわからない事です。

「死」について思いを巡らせる事は決して悪い事ではありません。

ただし、考えすぎは良くありません。
考えすぎてしまうと目には見えない、いつ来るかわからない「死」に対して貴女の様に怖れ、憂鬱、気が重いと言った様々な不安に苛まれてしまう一方です。

貴女は「死」を怖れる事無く生きていきたいと仰いますが、それならば日々家族に対して、自分に対して、仕事に対して、自分の身の周りに存在する物事に対して言い残し、やり残しの無いように努められることです。

「光陰不人待人 こういんひとをまたず」と言って「流れる様に過ぎ去っていく月日、この今という瞬間は二度と巻き戻す事の出来ないもの。気がつけば何もせず、只歳ばかりくってしまっている…だから、悔いを残さない、思い残しのない様にする為にも、今日すべき事は今日中に済ませること」を意図した禅の言葉がございます。

貴女もこの言葉の如く日々を悔いなく、思い残す事無く送られる事に努められれば少しずつ「死」に対する怖れ、憂鬱、気の重たさも心に付け入る事が出来ず遠のき、
寧ろ何時「死」を迎えても大丈夫だと言える程、強く安らかな心へと変わっていかれるのではないでしょうか。
隆介 合掌

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有り難し
おきもち

少しでも皆様のお気持ちに心を寄せて行けたらと思っています、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

死への恐怖と闘いながら

あなたは何年生きていますか?
たぶんこれからも怖い思いをしながら、しかし実際には誰も死なない時間を過ごすことでしょう。
そればかりか、子の成長を喜んだり、好きな人と結ばれ幸せな笑顔を見せる子どもに嬉し涙を流したり、旦那様の誕生日を一緒に祝える幸せを噛み締めたり。
そんな出来事が両手をひろげあなたを待っているのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

概念(分別作用)に依って成り立っているだけの縁起なるもの

ゆきこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、全ての煩悩の根本的な原因として「無知」・「無明」(真理を知らないこと)がございます。

恐怖や不安という煩悩も、「未知なモノ・コト」、「わからない」・「知らない」が故に生じてしまうところがございます。

「死」についての恐怖や不安についても、「死」について、より正確に知ることができれば、きっとその恐怖や不安も少なくすることができるでしょう。

「死」とは何か・・本来は概念(分別作用)に依って成り立っているだけの縁起なる中性的(ニュートラル)なものに過ぎないのですが・・

死生観について先ほどに回答させて頂きました内容と同じになりますが、以下をご参照に、是非、ゆきこ様におかれましても、これから仏教的観点からの死についての学びを進めて頂けましたら幸いに存じます。

・・

般若心経には、「不生不滅」という言葉が出て参ります。ここで申しますならば、つまり、「不生不死」ということでもあります。

私たちの本来的なあり方としては、実は「生も無ければ、滅(死)も無い」というものとなります。

簡単には、空なる実体の無いものに、これが「生」だ、これが「死」だと言えるような何かを探して見つけられるわけではないということであります。

一体、何が生きて、何が死ぬというのかということですが、仏教では二つの真理を扱うため、理解するところに色々と難しいものがあるかとは存じます。

最高の究極的な真理としての勝義諦。

世間世俗における真理としての世俗諦。

勝義諦としては、「不生不死」ながら、一方で、世俗諦としては、やはり「有生有死」となります。

死生観について、勝義諦と世俗諦の両方からの理解をしっかりと進められれば、より○○様の死生観の理解も、今はまだ断見、常見のいずれかに偏ってしまわれてはいても、いずれ、中道としてのバランスの取れた理解になるのではないかと存じます。

是非、これを機縁に仏教によりご興味を持って、学んで頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下様。全文を読み、安心感が広がり久しぶりにほっとしました。誰でも安心して死ぬという言葉にすくわれました。常在様。暖かい前向きな言葉をありがとうございます。隆介様。其のお言葉を胸に頑張って生きていきたいと思います。聖章様。確かに私は病気を患っています。ですが、浄土信仰という考え方を信じれば、確かにさびしくはありません。川口様。死の捕らえ方を仏教的に勉強したくなりました。仏教における死の考え方を少し知り、今まで恐怖に思われていたことが、単なる事象のひとつに過ぎないのかな?と疑問に感じるようになりました。皆様、暖かいお言葉を本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ