死について考えすぎて何も手につきません
初めまして。悩みすぎておかしくなりそうな私に母が教えてくれました。
今、私はすごく死が怖いです。
家族、親戚、友達がいなくなると考えるといてもたってもいられません。
自分もいつか無になると、死んでいなくなってしまうと思うと言いようのない不安にかられます。
今を生きなくてはいけないことも分かっていますが、考えだすと生きている意味までわからなくなり、仕事も何も手につかないのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土信仰としては
死については誰でも一度は考えることです。
死の恐怖を克服するのは仏教だけでなく宗教の目的の一つです。
また、同じ仏教でも宗派によって様々な方法があります。
そのうちの一つとして浄土信仰について書かせていただきます。
浄土信仰では、人は命が尽きると阿弥陀仏によって極楽浄土に連れて行ってもらえると信じています。
阿弥陀仏とは(西方)極楽浄土という国を作った仏様です。
私達仏教徒はこの世でお釈迦様の様に覚りに至ることを目標にして日々暮らしています。
ですが、この世に生きている間に覚りに至れない人を阿弥陀仏は、その死の瞬間に極楽浄土に連れて行ってくれるのです。
そして、極楽浄土で現世に引き続いて、覚りに至るための修行をするのです。
また、極楽浄土には先に行っているご先祖様や祖父、ご両親が居ますし、友人、子供、子孫も来ることでしょう。
ですから、寂しくないのです。
では何をすれば極楽浄土に連れて行ってもらえるかというと、「なむあみだぶつ」と小さな声で称えるだけなのです。
しかも一度で構いません。もちろん多くても構いません。ただ、忘れないためにも、なるべく毎日お称えする方が良いです。
寝る前でも、いつでもいいです。
お寺でも自宅でも何処でもいいです。
なぜ「なむあみだぶつ」と称えるだけていいのかというと、阿弥陀仏は誰でも極楽浄土を望む人を連れて来ようと誓って極楽浄土を作りました。ですから、望む人誰でもできる方法として、「称えること」を一番に勧めたのです。
ただし、称える以外の方法もありますが。
この様な信仰を私は信じています。
死が怖くないといえば嘘になりますが、極楽浄土に行けば弟と会えると思えば、少し楽しみでもあります。
他にもいろいろな心の持ちようがあるので、あなたに合う方法を見つけてくれたらと思います。
怖いものと決めつけない
らぱんさん
お釈迦さまも死を恐れ苦しみました。しかし、死とはマイナスのことではありません。死とは苦しむものでないとお釈迦さまは悟りました。
なんとなく、暗いイメージがありますが、誰もが生まれたことを知らないように、死んだこともわからないと思います。
頭の中で作り上げられたイメージや聞いた話から想像を膨らませて恐怖に感じているにすぎません。
いくら考えても答えは出ません。
死は終わりではありません。死は死です。次の命へつながるスタートとも捉えることができます。
理屈で考えず、ありのまま、生きているなら生きましょう。死ぬ時が来れば死にます。それでいいのです。
「死=絶無・虚無」ではありません
らぱん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
この度は、「死」についてお考え過ぎになられて、少し悲観的、虚無的なところに陥られてしまわれているのではないかとお察し申し上げます・・
実は、「死」というものが、何か実体としてあるわけではありません。また、「死」する何かも実体としてあるわけではありません。
ですので、恐れることも、悲観することもありません。・・と述べさせて頂いたところで、何のことか、全くわからないかとは思います。
仏教では、悟りの境地を表す際に、「不死」の境地とか、「不生」の境地、「不生不滅」の境地などという表現が出て参ります。
これらの境地は、まさに死への恐怖や不安、あるいは生への恐怖や不安を超えたところを目指すものとなります。
これから仏教の学びを少しずつでも進めていって頂けましたら、やがて理解して頂けることもあるかとは思いますので、少しだけご参考にされて下さい。
さて、死後のことについてですが、「死=絶無・虚無」ではありません。
私たちの存在は、身体や心、色々な機能や作用などの要素(五蘊/色・受・想・行・識)の因縁(原因や条件)の和合により成り立っているものですが、もしも、この肉体が滅び、身体的な機能・作用が停止したとしても、微細な意識としての心相続(心の連続体)が、更に色々な因縁によって死後も存続していくものであると考えられています。
その死後における心相続の赴きにおいて、最も影響する因縁の一番は、やはりその者自身の行い(業・カルマ)、また、それまでの様々なご縁(善き人縁、仏縁、法縁など)というものになります。
ですので、できるだけ善き行いに努め励んで、善き因縁を調えておくということが何よりも賢明なことになります。
できれば、死後のことをあれこれと思い悩むのではなく、生きている今をどうより良くに行いを調えて、より良い幸せな人生としていくべきであるのか、また、そのためには何をしなければならないのかを考えて、実行していくことが大切となります。
より良い人生とすべくに、共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌