お坊さんの考えを知りたいです回答受付中
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました
空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか?
僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました
拙い文章ですみません、よろしくお願いします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
すべては苦だから、障碍を超越したところに空はある。
世界三大宗教となる
1.キリスト教
2.イスラム教
3.仏教
そんな世界的な宗教のひとつである仏教ですが、仏教には大きく2つに分かれます。
一つ目は「小乗仏教(上座部仏教)」
二つ目は「大乗仏教」
です。
日本は「大乗仏教」です。
小乗では「自己の完成」を目指します。
大乗でな「ともに完成」を目指します。
小乗仏教では自己完成を「灰身滅智」とし、人はこの世に誕生したことは「一切皆苦(四苦八苦)」だからこそ、生涯を通じて苦しみが起こり続けるからこそ、人生を修行とし、心に生起する欲望(煩悩)を取り除くことを目指します。そして、この身(寿命)が尽きれば、終わりとします。
大乗仏教では、自己を修行しながら他人をも救うという"利他"の観念です。
しかし小乗も大乗も同じ教理は「四無量心」となります。いわゆる慈悲は同じです。
前説が長くなりましたが、はるさんのご質問の「認識」と捉えています。これを仏教では「唯識論」としています。しかし、唯(ただ)生じている認識や意識の連鎖が自己の心や観念を形成していくのも事実です。
「空」を別名で「空性(くうしょう)」と称します。また、その空性は一切皆空でなければならないとします。
どのようなことなのか?
心を主体とするのが仏教限らず宗教です。その観念へと形成される認識が世界で起こる戦争へと思想が変貌しています。しかし、仏教だけ戦争は巻き込まれていないのです。
なぜなのか?それは「空」の考え方だからなのです。「ん?」と思います。
有名なお経『般若心経』が"空"の真髄を解明に説きます。
・かたよらない心
・こだわらない心
・とらわれない心
この上記3つの心が「空」です。
それはすべては諸行無常だから、何事にも囚われてはいけないということです。囚われることは、執着となり、自己(心)を重たくさせてしまうからなのです。
五感である「眼、耳、鼻、舌、身」
1.眼でみる視覚(眼識)
2.耳で聞く聴覚(耳識)
3.鼻で嗅ぐ嗅覚(鼻識)
4.舌で味わう味覚(味識)
5.体で感じる触覚(身識)
すべて「認識」です。この五感から第六感といわれる「意識」が形成されていくのです。
この世は一切皆苦と説いた釈迦は、認識することは苦しみとなるので、「空」の観念を形成すれば苦悩は生じないのであると説いたのです。
参考程度に^_^
空に随(したが)えば空に背く
「有を遣(や)れば有に没し、空に随えば空に背く」
(´-`*)
有無の「有」「有る」ということに掴まれば執着となり、
空という道理・理屈に陥れば事実の上の空ではなくアタマで考えた理屈の空、机上の空論の空に陥る。
それは生きた空ではなく、空という認識、分別、考えの上で知った空という理屈なのよね。
では本当の空とは何かといえば、アルに非ず無にアラず。有無に非ずとはなにか。事実を観なさいということですぢゃ。👴
たとえば滝、川、水道の蛇口。波。🌊
何処をとらえて、フレームで囲んで滝だ川だ水だナミだというのか。
流るる涙も渇く頃には涙もアト無し。
人の世で有るというは波の大海にとどまるがごとし。
このゆえに道元禅師は生というもひと時の位であって、さきありのちあり。
一定の様子をとらえて「生」とか「有る」といういうにしても、事実は瞬時にその後になっているので、もう前の様子ではないぞ、と。
いま今というに今というても「い」の時に「ま」は無く、「ま」という時にゃ「い」の時は過ぎ去っている。
この故に空だ空だと言ってもおよそ8割9割の人が空という子との真意を知らずして空という理屈どまりになる。
本当に滝を観るということは、「たき」という言葉が絶せられること、滅せられることです。絶滅するという子とは理屈ではなく、事実そのものになるということです。
事実そのものは蛇口から流れる「ながれ」にしても水といわず、ぬるま湯と言わず、何㏄、何㍑ともいわんでしょう。事実を観る。
空とはこちらも空じられている事。外も空じられていること。
観ている眼のはたらき、耳のはたらきも呼吸も感覚も何も前のことなどとどめていないでしょう。のちも先もなく、読経の如くに今あるところをポクポクして一字一字、一事一事を全うしておるのぢゃ。
宝石の輝きも角度を変えるからこそその輝きや美しさが生きる。どんな名曲も音の流れ、フレーズ、メロディー、旋律となって、はじめて響き、曲となる。
だから、空というハタラキは、わが身の空のありようと、肉体外の事実・事象の空自らえているフレッシュなさまと、そんな屁理屈も忘れている実相の空というLIVE中継が生きた姿にならないとくうという 屁理屈を知ったというだけになる。
事実という流動的な世界もこの身心も何のラベルも名称も意味も意義もなく、ただその通りの如是の相。
事実に参じられますよう。
義務ではない→気楽な趣味として
空・無相・無願の「三解脱門」の教えがあります。
空(無我と同義)とは、夢か幻みたいに実体が無いこと。
無相とは、定まった姿形が無いこと。
無願とは、執着に値しない、絶対にやらなきゃならない願い(義務)は無いということ。
三解脱門は、この世に執着すべきことは何もないと意識すると。
人生には、絶対にやらなきゃならないことは何もない。(色即是空)
ただし、やりたいからやっているだけの趣味の世界としては存在するのです。(空即是色)
何もかも絶対の義務ではない、人生は趣味の地球旅行だ。
どうせできることしかできない人生なんだから、100点満点を目指す必要もないし他人との優劣に悩む必要もない。
ただ、今やりたいことをできる範囲でやれば良いだけだと思ったら、お気楽極楽リラックス、それでいて気軽で身軽に動ける心身になります。
お釈迦様が悟った直後、もう人生にやり残したことはないし、悟りの内容も人々は理解し難いだろうから、このまま独りで死んでも良いかな、と思われたのですが、現れた梵天(神様)から「せっかく悟ったのなら人々に教えを説いてよ」と頼まれます。
それをお釈迦様は「OK!」と引き受け40年以上過酷な教化の旅をしました。
その後、悪魔から「お釈迦様、あんたがいたらウザイから死んでよ」と求められますが、お釈迦様は「弟子も信者もまだ未熟だから、もうちょい頑張るわ」と断りました。
そして80歳の頃に、悪魔から「もう弟子も信者達も立派に育ったよね、そろそろ死んでよ」と頼まれたお釈迦様は、「それもそうだな、OK!」と気楽に引き受けて弟子に自らの死期を告げました。
三解脱門を悟っていたお釈迦様は、義務ではない過酷な布教の旅を、強いて断る理由もないから気軽に引き受け、人々のために身軽に諸国を飛び回ったのです。
中観と唯識
はるさま
私たち凡夫において、「空」について、頭では理解することはできても、正確に認識する(空性現量了解)ことは、無明(所知障)によって難しいものとなってしまっています。
大乗仏教における六波羅蜜の修行の実践によって、業を清らかに調え、煩悩障と所知障を断じることにより、「空」を現量了解できる「悟り」へと至れるようになります。
「空」の現量了解、悟りの境地へと至ることで、如実知と如量知、つまり、仏智(一切知)によって、完全なる衆生の救済が可能なものとなります。
そのあり方は、空性現量了解のままに、離戯論という状態にて、衆生一人ひとりの認識をお借りになられて、それぞれの認識のありようをご覧あそばされて、それぞれに、悟りへと向けた対機説法、善巧方便によってご指導をなさられるのであります。(仏智には、私たちに映えてあるような顕現は一切ないため、衆生一人ひとりの認識をお借りになられるのでもあります。)
「全ては認識である」というお考えは、「唯識」と申します。「空」について考えるのが中観思想、一方で、心、認識について考えるのが、唯識思想となります。
唯識思想では、私たちの認識のありようを詳しく考えていくことで、何が迷い苦しみの原因となっているのかを見極めていくことに大変役立つものとなります。
是非、これからも中観と唯識について学びを進めて頂けましたら有り難くに存じます。
合掌
質問者からのお礼
ご丁寧にお礼のご返信をいただき、誠にありがとうございます。
おかげさまで仏教についての考えが深まり、心が豊かになれました!
五感→意識→苦しみを[空(三つの心)で自己の完成、ともに完成]で(立ち切る、抑える、和らげる)って感じなんですね
もう少し調べたり考えたり聞いたりしたいと思います
本当にありがとうございました