体と心で楽しさを感じれば、自然と笑顔になる事を知りました。 体から溢れ出た楽しさは人を笑顔にする事を知りました。 そんな事を名前も知らない人が教えてくれました。 楽しいものは楽しい! その表現が人の心に光が差す。 目、耳、鼻、口、肌で感じたものが真実。 仏教だ!そう感じた休日でした。
いつもお世話になっています。 「分別」 南伝 相応部経部45-8 阿含経典 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、聖なる弟子たちは、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって、あるがままによく見る。 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。 阿含経典の中の「分別」という中に、「苦なるものは無我である」とありますが、どのような体験によってどのように理解すればよろしいでしょうか。 御教示お願いいたします。
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます
仏典についての質問です。 正式に仏教の知識を学んだこともありません。 己の体験と仏典を照らし合わせて仏道に勤しんでいます。 浅学でお恥ずかしいのですがお答えいただければ幸いです。 感興のことば第26章 安らぎ(ニルヴァーナ)の13です。 僧侶であればだれでもが親しんでおられる仏典だと思われます。 「13 ①前にはあったが、そのときには無かった。②前には無かったが、そのときにはあった。③前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」の内容をお知らせください。 個人的な一考察ですが、 ①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、 A:前には「認識している私」という意識があったが、そのとき(=安らぎ)ではすでに「私」というものは無い。 B:前には「渇愛」があったが、そのとき(=安らぎ)では「渇愛」はない。 ②「前には無かったが、そのときにはあった。」とは、 前には「智慧」は無く「無明」であったが、そのとき(=安らぎ)には「智慧」があった。 ③「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とは、 前にも「魂」は無かったし、のちにも「魂」はないであろう。また今も「魂」など存在しない。 という勝手な考察ですが、お坊さんの体験された内容をご伝授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
まず、hasunoha運営様、回答僧侶の皆様、 そして、僧侶俗人とわず敬虔に教えの道を歩む仏弟子皆様方。 先般はご厄介をかけてしまい大変申し訳ございませんでした。 これもすべて私の自己管理能力の不足が原因です。 今回の一件は本来であれば、疲れていた、とか、 ひどいことを言われて悲しくてつい八つ当たりしてしまった、 などの理由では済まされないことだっだんですね。 私は本格的に、仏様に嫌われてしまったんでしょうか。 阿弥陀様、お不動様… 他の仏様ももう私を受け入れてはくれないんでしょうか。 厚かましいと叱られてしまうかもしれませんが、 どうかご意見をお聞かせください。
あの手この手で人を陥れよう騙そうとする罠が張り巡らされているこの世の中、気を付けてはいてもいつの間にか絡めとられていた、ということはまぁありますね。 利用されることが解っていても敢えて、なんてことも。 気持ちの整理としては「利用された」と自分が解釈しないのであれば、されていないのと同じとよく言われます。 とはいえ、利用する側がこの解釈を更に利用し平然としている混濁ぶりがなんともまた。 前置きが長くなりましたが、お釈迦さまは悪意により利用されたことがあったのかなと気になりました。 仏教ではこのように餌食になることをどのように説くのでしょうか。 よろしくお願いします。
個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。 お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。 特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。 過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。 「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。 静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。 そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。 「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。 「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。 我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。
お施餓鬼に行ってきました。 蓮の花の形をしたものがまかれました。散華というのでしょうか。何故か私は、そこに描かれた絵があまり好きではありません。 欲しい、という方が持った方がいいと思い、近くにきた蓮の花の形をしたものは、お子さんやお年寄りにお渡ししました。 喜んでくれました。 ありがとう、とニコリと笑ってくれました。 私が一番欲しいものを貰いました。
こんにちは、今受験勉強中の大学受験生です。 仏教を学びたいと思い、仏教系の大学を志望しているのですがどこの大学が良いでしょうか? 東京の大正大、駒澤大、立正大、そして和歌山の高野山大学が候補として上がっています。 自分は主に密教を学びたいのですが、それなら高野山大学か大正大と思うのですがどちらが良いでしょうか? 回答よろしくお願いします。
「自分以外は他人」 頭の中でグルグルしています。 仏教からだったのか、やけに納得しています。 生まれるのもひとり。 生き抜く間もひとり。 死ぬのもひとり。 きっと、いつか自分さえ他人になります。 そしたら、ひとりでもなくなります。 その時がきたら幸せなはずです。
阿頼耶識はどこにあると説いてますか? 別次元にある本体の1部が肉体に宿っているという考え方でしょうか?
仏教の教えは、皆がそれを信じ、実践すれば、成り立ち素晴らしい世の中になるとは思うのですが、自分又は一部の人たちのみが実践するだけでは、上手くいかないものでしょうか。
どのカテゴリーにしたら良いのか迷いましたが、質問させてください。 「一念」は、岩をも通すとか言って、良い印象があります。 何かを強く強く深く深く一筋に、寝ても覚めてもご飯を食べていても 常に念頭に置くことが出来なければ「一念」とはならない気がします。 でもそればかりで、他はどうでも良いとか、他は全く顧みないとかでは良いことでは無いですよね・・・ 一方「執着」と言うと、良い印象は無く、 こだわりが過ぎて身動きが取れないとか、怖れや邪な感じが見え隠れするような気がします・・・ でもこだわりにも、良い意味でのこだわりってありますよね。 「一念」と「執着」は、それぞれどういうことですか? 違いは何ですか? 「一念を通す」とは、具体的にどうすることですか? そして「執念」とは? 目的や目標を深く思い、諦めるという選択肢は全く無いという状態のように思いますが。 目的を果たすまで何度でも挑み続ける、みたいな。 また、「欲」ですが、 「欲」は誰でも持っていると思いますし、わたしは煩悩の塊です。 「強欲」とは、とても良くないもの、 誰かから奪ったり搾取したり、人を傷付けてでも手に入れようとすることのように思います。 「過剰な欲求」は、どこからですか? どんなことですか? 独り占め的なことは当てはまる気がします。 それから、相手の気持ちを甚だ無視した要求や押し付けみたいなこと。 大変申し訳ございませんが、 解りやすく噛み砕いてご教示頂けましたら幸いです。 もし仏教としてのそれと、社会通念上のそれに違いがあるという場合は それぞれを知りたいです。 わたしの長年の疑問です。 ご回答頂けましたら有り難く存じます。
『私は「おじいちゃん」!?』で、下関の「おじいちゃん」の話をしたので、今度は「おばあちゃん」の話をしたいと思います。 只今、92歳のおばあちゃん。 『おばあちゃんたるもの』孫(私)の前では絶対人の悪口はいわない。 『おばあちゃんの自慢』まだ自分でトイレに行けること。 『おばあちゃんの口癖』①病院に行くと、いつも医療費が数百円なので、受付で「全国の皆さんのお陰です!」と言って帰ること。②「成るようにしか成らないんじゃけん、文句ば~っかり言っててもしゃぁないけん、笑っていようやぁね~」と前向きなことを言うこと。③食べることが好きで「旨いもんがくえりゃあいい」ばかり言うこと。④ほとんど眠っているので、起きてきたら「アハハ、トラスちゃんかね、まだ生きちょるよ!カツカツ生きちょる!また死なれんじゃった!」と笑い飛ばすこと。⑤夏でも「何でじゃろかぁ?冬はねぇ、足が冷えるんよぅ!」とすごく真剣に、真顔で言うこと。 『おばあちゃんの意地』娘(母)の話をするとき、普段「◯◯ちゃんは…」と呼んでいるのに、孫(私)の前で娘の話をするとき、絶対「(あんたの)お母さんは…」と言うこと。そして、自分のことを普段「お母さんは…」と言っているのに、孫(私)の前では「ばあちゃんは…」と言うこと。 おばあちゃんはスゴい!私が誕生日プレゼントを渡した時もそう。おばあちゃんの目が見難くなり、よくコップをひっくり返すからと、下へ行くほど幅が広くなるマグカップをあげたら、箱を開けた瞬間、「ぅわ~!末広がりじゃ~!」と満面の笑み!極めつけの言葉は「お骨(骨壺)に持ってはいろ~!」と言って喜んでくれたのです。 そんな素敵なおばあちゃんですが、私が物心ついた頃から、それこそず~っと言われ言い続けている言葉があります。それが、タイトルの『私の日課は謎の言葉』です。おばあちゃんの家に行くと、まず最初に言われます。意味でなく、発音が呪文みたいで、何と言ってるのか分かりません。 では、まいります…『ほれ「マンマンチャー」してきぃ!』。 「マンマンチャー」なのか「マンマンチャン」なのか「マンマンチャ」なのか。そもそも、手をあわせてご先祖様に心から感謝やお祈り等々をしておいで!というようなことを、何故「マンマンチャー」?と言うのか、本当のところ分かっていません。一体、何と言っているのでしょうか?
いつもお世話になっております。 先般、般若理趣経について質問し、その後 色々リサーチしました。 「欲を捨てられないのは生き物として 当たり前。ならばいっそ、その小さな 我欲を大きな一切衆生へ向けた大きな欲 へと昇華せよ」との教えについて、 少々気になった点があります。 いわゆる、「ぐ犯者」「犯罪者」。 または言っても聞く耳を持とうとしない、 「縁なき衆生」にも根気よく優しく接しろ ということですか? 実際、 「それやめた方がいいですよ?」 と優しく注意したところ逆ギレされて 公開処刑に遭ったこと、 謂れのない、かつ意味不明な悪意を 向けられたこともあります。……お寺で。 日常でも実際に騙されたり害を加えられた ことも何度もあります。 このように、 相手が「縁なき衆生は度し難し」のまさに それだった状況に何度も遭遇している 私としては、かなり危険かつ困難な事だと 思います。 ご意見賜りたく存じます。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 ここのサイトで仏教を知り、諸行無常、諸法無我や、執着しないことなどを知り、これは素晴らしいものだと感動しました。 実際にこの思想で生活すると、毎日が濃い1日となっているように感じられ、とても嬉しいです。 ですが、本当に苦しい時に、これらの教えが思い出せなかったり、気づかないうちに執着してしまったりするのがとても不安です。 仏教の心を忘れないために、何か私にもできることがあれば教えてください。
知り合いに勧められ、思うところあって近場のお寺で一年に一度行われる祈祷会に参加しようと考えています。 ですが、恥ずかしながらお葬式以外でお寺と関わることがなく、どのような流れで行われるかの理解にまったく自信がない状態です。 ・祈祷料は熨斗袋に入れてお納めする形で差し支えないでしょうか。 ・後に予定が入っており、過度な露出はないもののスーツ等ではなくカジュアルな服装でお参りすることになる場合、ご祈祷は遠慮すべきでしょうか。 ・ご祈祷の最中は瞑目したり、自分でも手を合わせるべきなのでしょうか。それとも目を開いてご本尊を拝んでいてよいのでしょうか。 その他、初めて受ける人が見落としがちな作法などございましたらご教示くださいますと幸いです。
こんにちは。今3冊の仏教本を少しずつ読んでいて、今日は「ブッダ いのちの言葉(永岡書店)」の和顔愛語についてお訊きしたいと思います。災害のため今は特に深刻な相談が増えていると思うので、その後でお暇な時にお手すきの先生が教えてくださるとありがたいです。 愛語は慈悲を種子とする愛の心から起こるということですが、その逆 - 最初に慈悲の種子がなくても笑顔(和顔)と優しい言葉(愛語)で人に接していればいつかは愛の心が生まれる - はあるでしょうか。 和顔愛語の実践で心が行動に近づいていくかもしれないと思って、実践しています。優しい言葉を使うので表向きは環境が和やかになるのですが、実際に愛の心があるかというと、だめです....いまだに何も感じられません。 それでも優しくふるまって周りとうまくいってそれでよしならいいのだけど、実は、最近適性検査というテストを受けてある部分に極端に悪い結果が出てしまいました。内面がちゃんとわかってしまう場ではごまかしは効かなくて、愛の心(思いやり?)は学んで身に着けるものではないのかもしれません。私はないものを生まれさせようとしているのかな、と限界を感じます。
世の中には、たくさんの素晴らしい宗教と、たくさんの素晴らしい神様・仏様がいらっしゃるのに、何故、(宗教対立も含め)戦争はなくならないでしょうか?繰り返されるのでしょうか?これは私の、幼い頃からの疑問であり、永遠のテーマの1つです。是非とも、いろんなお考えをお聞かせ下さい。
ビハーラ活動というものを最近知りました。興味津々で、好奇心から勉強中ですが、もっと簡潔に、「一言で言うと!」という風に、どなたかプロの方に言い表していただけると有り難く思います。納得する一言をお願い致します。