こんにちは。 これは自分とその周囲だけでなく、世の中全体についての質問です。 私はたくさんの善い人を見てきました。暑い(寒い)中で道のゴミを拾い、掃除しながらも笑顔で挨拶を返してくれる方。突然の雨で服屋の店先で雨宿りをしていた時に傘を貸そうとしてくれた服屋の店員の方。外出先でトラブルにあったときカタコトの日本語で懸命に助けてくれて笑顔で手を振って去っていった外国人の方。彼らには思い出すたびに心から感謝できます。どのような縁かは分かりませんが彼らのような善人に度々会ってきました。 一方で、他人を平気で騙し、脅し、傷つけ、奪い、それでいて自身が傷つけば善良な被害者のようにふるまう人間が多くなっているように思えます。思い込みであるかもしれませんが、善い人よりもこのような悪人(と思える人)が金を得、地位を得ているように感じます。例えば、詐欺師は人を騙して金を得、のうのうと暮らしています。横暴な人は気の弱い人を力で脅して無理やり従わせようとします。自身の我が侭を言いたいだけ言って周囲の人のことを考えない人といます。あげく、騙されるのが弱いのが文句を言われる方が悪いとまで言われることもあります。 仏様はいつも黙して見ていらっしゃるように思えますが、私は善い人よりも悪人が得をするようなことが納得できません。これは善人の試練とでもいうのでしょうか…。仏様やお坊さまはどのように考えますか?日々どのような視点で人を見ていらっしゃるのですか?
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。 仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
いつもお世話になっております。 自分は業というものについては、何か元々持って生まれてきた運命とか前世の行いからとか漠然と考えておりました。 最近は仏教に関しまして少しずつ知識を深めている中、少し違うのかなと思い始めました。 業というものは、自分のしてきた罪深い行いが苦しみとなり、気付けば体に芯のように刺さり背負っているのかな、と思いました。 ここ数年、一年一年、毎日毎日、それが深くなっていっています。 過去には戻れない。 したことは変えることができない。 業というものはこの先も永遠に抱えていくものなのでしょうか。 業については、このような解釈でよろしいのでしょうか。 お教えいただければ幸いです、 どうぞよろしくお願いいたします。
浄土宗○○派というのが沢山あってどう違うのかわかりません。何を基準に選ぶものなんでしょうか?
こんにちは、いつも楽しく拝見しております。 お釈迦様の話について一つ質問です。 お釈迦様は、お釈迦様の前で悪態をついて罵られた言葉を、一つとして受け取らなかった、というお話がありますよね。 罵りや悪口、批判の言葉は、受け取らなければ、その言葉を言った人のものになる。 この考え方はとても良いなと思っておりまして、実践したいなと常々思っています。 ところが、つい先日、親族から、要約すると「あなたのやり方では駄目よ!」と嫌な批判を言われてしまいました。 そのやり方は、その時の親族には心配させまいと言っていない事情があったことや…私がその方法をする上で、過去親族本人から了承を得ていたことを、おそらく忘れていることがあるのも気づいていながら… 心から「受け取りたくない批判だ」と思い、でもあまり口には出さず、その時はそうかーそうなのー、とだけふんわりと抑えて堪えました。 そしてさっさと忘れて過去より現在のことを考えようとしても、つい心にモヤモヤと、その言葉が刺さったままになってしまいます。 お釈迦様のように、「相手の言葉を受け取らない」とするには実際にはどうしたらよかったのでしょうか。 いざ実践としたときの、「嫌な言葉を受け取らない方法」は、私のやり方は無意識に受け取ってしまったのでは、と後程ふと思い、方法がどうもわからなくなってしまいました。 経験豊かな皆さんが具体的に実施されていることなど、ありますでしょうか。
私は数年前から仏教や仏像に興味を持ち始め、今では神社やお寺を巡り歩くことが趣味になりました。暇さえあればお釈迦様の話や仏教の神様について調べています。 しかしまだまだ知識が浅く理解しきれないことも沢山あります。 そこで仏教の教えやお話、名言や格言などなんでもいいので教えて頂けませんでしょうか。 自分は情けないことにとても打たれ弱く、すぐに落ち込んだり小さなことにくよくよしていつまでも引きずってしまうのです。 そんな時に勇気ややる気が出る言葉や、自分に喝を入れられるような教えなどを少しでも知っていればつらいことがあっても乗り越えられる気がするのです。 本当に無知で軟弱な私ですが、どうかよろしくお願いいたします。
仏教に帰依するとは、いったいどーゆー意味ですか?
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
いつもお世話になっております。 「信仰とは、その仏様を信じ、教えを実践すること。ただお寺へ 参じたりお経上げることだけではない」 これは、我が本山の布教師さんのお言葉です。 浄土宗の教えの実践、それからいわゆる行とは、 念仏を称えること。これだけ!とのこと。 そこで疑問になってくるのが、不動尊信徒の教えの実践、行とは なにか?ということです。 私には、真冬に滝や冷水ひっ被ったり、真夏に火の上裸足で 突っ走ったり、1週間も2週間も断食したり、断崖から身を 乗り出したり…なんてことは無理です。 「奴僕の行」「羂索のさとし」にならい、率先して人助けなど するようにしていますが… お知恵をお貸しいただければさいわいです。 よろしくお願いいたします。
過去「帰敬式」や「得度式」についてお尋ねしました。 が! 私、各宗派の門徒でもなく、菩提寺もなく、お経の節などもわからない「全く」の ゼロベース駄目人間です。 それでも受けることが出来ますか? どうか温かいアドバイスを宜しくお願いします。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教大学に興味があります。 仏教の知識、智慧は広大無辺とはいえ4年間も何を学んでいるのでしょうか? お坊さんになられる方は皆、仏教大学に通われたのですか? お坊さんにとって仏教大学に通う事の重要性はどれほどのものなのでしょうか? 私は将来、お坊さんになるかも知れないので、お坊さまのご回答を参考にさせて頂きたいと思います。 よろしくお願い致します。
強姦しても仏門に下り熱心に修行に励めば誉められる。 それを批判するとまるで被害者の方が悪者かのように罵る。 仏教って強姦魔に有利な教えなんですか。
いつもお世話になっております。 「縁」「縁起の法」とはいかなるものなんでしょうか? 仏教においてはかなり重要な教えだと聞いて、自分でも調べては いるのですがイマイチわかりません。 「こればっかりは縁だから仕方ない」 「縁は思わぬところに転がっている」ともよく聞きます。 たとえば私の場合、お寺へ行けば変なおっさんが寄ってきて しつこくからまれたり犯罪に巻き込まれそうになる時、 普段もなぜか知らない人から目をつけられジーッと顔や持ち物 を見つめられたりする時があります。何で!?と嘆いていたら 「縁だからしかたない」と一蹴されました。 犯罪に巻き込まれても泣き寝入りしろ、お前はイジメられて ナンボだ!!という事でしょうか。 色々なお坊様の関連回答を拝読しても、理解できません。 因(原因)縁(条件)果(結果)、 因果は目に見える、縁は目に見えない…なんのこっちゃ? 「縁」って何ですか? お知恵をお貸しいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 ご教授ください。 仏教では、死は穢れと見做していないというのが私の認識でした。 ところが、とあるセミナーで土地に関するデリケートな問題を扱った場面があり、"仏教あるいは神道において、生死や血液を穢れと見做しており・・・云々"とテキストに記載されておりました。 死や血液を穢れと見做しているのは神道ではないでしょうか? 講師の方曰く、お葬式の際、清め塩で穢れを払うように、 仏教で死は穢れなんですよねと説明されていましたが、私はそのような話を存じ上げません。 そのように説いておられる宗派があるのでしょうか?
私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。 キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。 日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?
つい10ヶ月前に相談した者です。 あれから転職活動をし、一度就職したのですが当初説明された話と仕事の内容が違いすぎて体を壊して数日で仕事を辞めてしまいました。 今は父が都内にいるので、側で暮らしながら、就職活動を始めようとしています。(発達障害者向けの就労会社に入り就職を目指す予定) ただ、このところ自分の身の回りに起きることがあまりにも不幸なことが多く。 縁切りなどのお祓いを2つのお寺さんにお願いしたいと思っています。 (自分が信仰しているお寺さんは法華宗で、都内の別なお寺さんを紹介していただきました) ただ自分が信仰している法華宗さんで、 縁切りで有名なお寺さんは日蓮宗なのですが、 行っても大丈夫なんでしょうか。 浮気というわけではありませんが、なんだか失礼なような気がして。 縁切りをお願いしたい理由としては、勤めていた上司に束縛されて、セクハラをされて縁を切りたいと強く願っている為です。 どうすればよいでしょうか。 どうかよろしくお願いします。
利他行とはなんなんでしょうか? 他人に利益を与える?人を喜ばせる? 人に幸せを与える? あくまで、私個人の意見ですが これって、突き詰めて行くと結局は 自己満足じゃないですかね? だって人それぞれ価値観が違うので、何がその人に とって、利益なのか!幸せなのか!喜びなのかわからないじゃないですか? てことは、自分だったら、こうかなと考えてやる訳ですよね? でも、その人にとっては、違うかも知れない! だから、私は利他行て、突き詰めると自己満足なんじゃないかなと思うのですが、どうなんでしょうか?
僕のプロフィールにも書いてはいますが、母校の高校が浄土宗の学校なんです。 そこで、仏教のことを人生初めて勉強して、仏教の教えなどにすごく惹かれました。 ちょうど母方の家が浄土宗の家なので、祖父祖母に高校でこんなん習ったよー、とか色々話ししていました笑 高校卒業してからも、趣味で浄土宗のことなどを調べたりしています。 今は23歳ですが、この歳でここまで仏教を信仰?興味を抱くのはおかしいですか? 父方の家は曹洞宗なのですが、申し訳ないんですけど、曹洞宗に関しては全然知識が無くて……ε-(´∀`; ) あともう一つお聞かせください。 総本山の知恩院さんや、近所の浄土宗のお寺に法話を聞きに行きたいのですが、この歳で聞きに行ってる人は少ないと思うんです。 なので行けたとしても周りの目がすごく気になり、法話に集中できないと思って行けてないんです。 なにか生きる上でのヒントなどが法話に隠されているのでは、と勝手に思っていますε-(´∀`; ) 本当に文章下手で申し訳ございません。 では、失礼いたします。
なにかありましたら、教えてください。 キリスト教は 教会で聖書を学び理解することはできますが、仏教は、なかなか敷居が高いのと、時間があわないため。 また時間があい、参加しようとしたところは、新興宗教でした。
子供は 両親の関係を愛として 好きになった相手と 新しい愛をきづいていくんだろうなぁ。 また 両親も 祖父母の愛をベースに 新しい愛を きづいたんだなぁって それが ずっと つながっていて 菩提を供養することで 慈悲を 学べるのかなって 思いました。 そこに お釈迦様、阿弥陀様の 教えがあるのかなぁ。 菩提心って そういうことでしょうか 祖師の方々や 歴史も 大事なと思いました。